悲鳴すら途絶えた室内に、獣の咆哮が響いていた。
赤い飛沫で染まった部屋。床に広がる血溜まり。転がった肢体。おぞましい獣の臭い──。
(……皇后さま。琮成さま。玉玲。紫蘭。琳琳──)
卓子の下にうずくまり、少女は震えながら、声にならない声で名を叫んでいた。
鋭く尖った爪に引っかかれ、胸がずきずき痛む。流れ出る血が衣を濡らしていく。
彼女を支配しているのは恐怖と、そして混乱だった。
みんな、誰も動かない。どうしたのだろう。すぐに自分も動かなくなるのだろうか。あの、黒い獣がもう一度襲ってきたら──。
(いや……怖い。だれか、助けて……!)
その時、翠色の流星が駆けぬけた。
はっとして顔をあげた少女の前に、見知らぬ背中が立ちはだかった。黒の長袍姿──後宮には入れないはずの男の官人のものだ。
そこからは、一体何が起こったのかよくわからない。軽く気を失っていたのかもしれない。気づけばあの獣は消えており、慌ただしく行き交う声や足音が聞こえていた。部屋を移動したのか、凄惨な光景も見当たらない。
「──お嬢ちゃん。もう大丈夫だ。顔をあげていいよ」
頭上から降ってきた声の優しさに、少女はぼんやりと彼を見上げた。
(だれ……?)
視界が茫洋としていて、顔かたちがよくわからない。どうやらかなり若い男のようだ。
長持に腰掛けた少女の前に若者が膝をつく。それから彼はふと眉を寄せた。
「これ……、怪我したのか?」
彼の目が自分の胸に注がれているのを見て、少女はうなずいた。獣の爪に裂かれたはずの傷口が青く染まっている。痛みはいつのまにかなくなっていた。
「お嬢ちゃん──いいかい。このことは誰にも言ってはいけないよ。約束できるかい?」
このこと、というのがよくわからなかったが、彼のひどく深刻な様子を見て少女はこくりとまたうなずく。途端、堰を切ったようにぽろぽろと涙がこぼれた。
「……術師さまが妖怪を倒してくれたのでしょ。翠玉を使った術で……」
「翠玉……うーんと、まあ、そうかな」
頭をなでてくれる掌が優しい。いろんな感情が同時に押し寄せ、少女は泣きじゃくる。
「すごく、怖かったです……。術師さまが来てくれて、よかった……」
「うん──怖かったね。でももう大丈夫だ。さあ、涙をふいて」
少女の手をそっと取ると、若者はその手に小さな包みを握らせた。
「そんなに泣いたら、せっかくの美人がもったいないよ。飴玉でも舐めて元気をだしなさい」
彼のやわらかな声と雰囲気が、少女のこわばった心をほぐしていく。
この人が助けてくれた。この人が来てくれたから、自分は生きている。
あの怪物をやっつけてしまったなんて、きっとものすごく強い人なのだ。それだけじゃない、怖いものを見なくて済むように、別の部屋に連れてきてくれた──とても優しい人。
「それにしても、本当に大した小仙女ぶりだ。大人になったら私の嫁になるかい? ハハハ」
冗談めかしたその笑顔に、少女ははっと息を吞む。
この人とここで会えたのは、きっと天命だ。この人について行かなければならない。
「……お嫁さまは、いやです」
え、と意外そうな声をあげた若者に、少女は懸命に訴えた。
強くなりたい。怪物が襲ってきても立ち向かえるようになりたい。──この人のように。
「お嫁さまじゃなくて……わたしを、弟子にしてください──!」