沙夜が初めて「妖」というものを視たのは八歳になったばかりの頃だ。
妖と呼ばれる人ならざる恐ろしい存在がいることは、「父」にさんざん言い聞かせられてきたため知っていた。これらは己の欲のまま腹を満たすために人を喰い、特に彼らが「視える」人間は妖達にとっては格別に美味とのことだ。
だが、視たこともない妖よりも、思い通りにならないからと沙夜に暴力を振るう父の方が余程、恐ろしいと思っていた。そんな父が妖を忌み嫌う一方で、恐れているのだと気付いたのは、この屋敷を囲う築地に妖除けの術が施されていると知った時だ。
けれど、その術も完璧ではないようだと、沙夜は目の前にいる言葉を話す生き物を見ながら思った。人間を喰うぐらいなのだから、きっととても大きな姿なのだろうと思っていたが、初めて見た「妖」は小さくて、どこか弱っているようだった。
「──俺が、視えるのか」
その生き物は以前、乳母が沙夜を楽しませようと見せてくれた様々な動物が描かれている絵巻物に登場する狐に似ていた。だが、普通の狐は橙色らしいが、この狐は毛並みも瞳の色も違っていた。
妖に訊ねられた沙夜はこくりと頷き返した。
「怖くないのか。妖は、人間を喰うぞ。……近付かない方が良い」
ぶっきらぼうに告げられた言葉に対し、沙夜はふるふると首を横に振った。
「あなたは小さいから怖くないよ。それに私を心配してくれるから、優しい妖だよ」
沙夜の言葉に、妖は目を大きく見開いた。その瞳が揺れたのは気のせいだろうか。
妖はどうやら怪我をしているらしい。今も降り続けている雨に洗い流されてしまったのか、血は付着していないが、脚を引きずっていた。
沙夜は着ていた衣を一枚だけ脱ぎ、その妖に温もりを与えようと包み込んだ。
「大丈夫だよ。もう、痛いこと、ないからね」
自分よりも小さくて身体が震えているものを、恐ろしいとは思えなかった。むしろ、自分が守らなければと幼心に思ったのだ。
その日から、沙夜は屋敷に迷い込んで来た妖を「玄」と名付けて、父に見つからないように気を付けながら世話をした。玄と過ごす時間は、乳母を亡くしてから寂しくて空っぽになりかけていた沙夜の心に温かいものを注ぎ込んでくれた。
父に痛いことをされた時や怖い言葉を言われた後は必ず、玄が右脚で優しく撫でてくれる。それだけで、辛かったことは消え去っていく気がした。
玄がいなければ、きっと自分は消えてしまっていた。そう思える程に、玄は沙夜にとってなくてはならない、大事な存在となっていた。
けれど、怪我が治った玄は、ずっとここに居ることは出来ないと心苦しそうに言った。彼は妖だから、妖の世界で生きなければならない、と。
それでも、玄と離れることは嫌だった。沙夜は駄々をこねるように彼をぎゅっと抱き締めつつ、どこにも行かせないと必死に引き留めた。
「玄だけは、どこにも行かないで。私を一人にしないで……。私、玄とずっと一緒にいたい……」
自分の望みを持ってはならないと父に命じられていたのに、玄へと願ってしまった。幼い沙夜にとって、玄だけが心の支えだった。
すると玄は何かを決心したのか、真剣な声でとある言い伝えと共に約束してくれた。
「数年だけ、待って欲しい。必ず、沙夜を──」
心にじんわりとしみ込んでいく、眩しくて優しい約束。
希望を持てない日々の中で、その約束は沙夜にとって唯一の光となった。