二章 二度目の青春のスタート(3)

    *


 そして……俺が固く決心したその日の内に奴は現れた。

「おい、クソオタクの新浜。こっち向けよ」

 時は昼休み。自販機の前で財布を取り出していた俺にそいつは声をかけてきた。

(こいつは……か!)

 制服を着崩して耳にピアスをつけたガラの悪い男の名前は、すぐに思い出せた。

 こいつは気の弱い生徒を標的にして、『なぁ、ちょっと小遣いを恵んでくれよ。俺達トモダチだろ?』と迫り、断る気配を見せると『ああんっ!? 俺をめてんのかてめえっ!?』とこわもてどうかつするのだ。

 校内でこいつに出会ってしまった時の血の気が引く感覚や、胸ぐらをつかまれて怒鳴られる恐怖はよくおぼえている。

 当時のこいつは俺にとって恐怖の対象であり、出くわさないようにとコソコソと身を隠して移動するほどに怯えていたのだが──

(ぜんっぜん怖くねえ…………)

 あの頃抱いていた恐怖は何だったんだと言いたくなるほど、目の前の品のないピアス男に何の威圧感も覚えない。それどころか高校生でピアス穴を開けようというその反骨心に子どもっぽさを感じて、若干微笑ましくすらある。

「いいところで会ったぜ。なあ、今日もトモダチの俺に小遣いをくれよ新浜。ちょっと昼飯代を忘れちまってなあ」

 火野はニヤニヤと馬鹿にしきった表情で俺を見ている。まあ実際この頃の俺はこいつにとって格下のカモだったのだろう。だが──今は違う。

「は? 嫌に決まってるだろ。なんで俺がお前に金を渡さないといけないんだ」

「な……っ!?」

 俺があっさり拒否するのが予想外だったのか、火野は驚きをあらわにする。

「ふざけんなよおい……っ! てめえがそんな口利ける立場と思ってんのか!? 生意気なことを言ってるとボコボコにすっぞ!」

「うるさいな。お前のヤンキーごっこに付き合ってられるかよ」

「ご、ごっこ……? てめえ、本気で俺を怒らせてえのかっ!」

「ごっこだろ? そもそもお前って見た目だけをそれっぽくしたファッションヤンキーだろうが。本当は誰かを殴って問題になる勇気もないくせに」

 そう、当時はわからなかったが、思い起こせば実際に火野が誰かをボコっただのシメただのの話は全く聞かなかった。教師に刃向かうわけでもないし、今冷静に見てみると気合いが入った本物のヤンキーとは思えない。

「カツアゲもあんまり額が大きいと問題になるから、何人もの気弱な生徒からローテーションでチマチマ小金を巻き上げて大ごとにならないようにしているんだろ? そんなセコい奴がいくらえても怖くないっての」

「な、な……! て、てめえぶっ殺す! クソオタクの新浜のくせに俺を馬鹿にしやがって! どうなるかわかってんだろうなぁぁぁ!」

 やはり図星だったのか、火野が顔を真っ赤にしてキレた。お得意のでかい声で恫喝してくるが、そんな脅し文句が通用するほど俺はもう青くない。

 かつての社畜生活において、上司どもは俺に様々な脅しをかけてきた。

『この仕事は君がやってよ。じゃなきゃ君の勤務評価は……わかるよね?』

『俺にたてついてみろ。明日からお前の仕事は、地下倉庫で何年経っても終わらない備品整理になるぜ』

『パワハラの事実なんてなかったと言え! なんならお前こそパワハラの主犯だったと他の奴らに証言させることもできるんだぞ!』

 思い出すだけで醜悪な事例の数々だが、会社という小さな世界を牛耳る権力者どもの力は絶大で、俺はたびたび涙をんだ。

(アレに比べればこいつは俺に何のペナルティを科す力もないただのガキだ。どんなにでかい声でわめこうが全然怖くない)

「で、どうするんだ? 殴るなら早くしろよ。ほら、どうした? 騒ぎで人が集まってきたからできないか? 悪ぶってるくせに停学や退学にビビってるのか?」

「こ、このクソオタクが……! なめてんじゃねえぞ!」

 火野が俺へ手を伸ばす。

 挑発のままに殴ってくれたら俺にとって都合が良かったのだが、奴の狙いは俺がジュースを買う直前だったため手に持っていた財布だった。

 母さんから渡された三千円が入った俺の財布を、奪ったのだ。

「はっ! クソ生意気な口をきいた罰に今日は財布ごともらってやる! さて、中身は……ちっ! たかが三千円ぽっちかよ! シケたオタクは財布の中身までシケてやがんな!」

 三千円ぽっち。

 ははは、三千円ぽっちか。

 よくも俺の前でそんなガキ丸出しの台詞せりふを吐けたもんだな……!

「だがこれで済んだと思うんじゃねーぞ! 今度きっちりシメて……っ!?」

 言い捨ててこの場を去ろうとした火野の言葉が途中で止まる。

 俺が両腕を伸ばして、奴の胸ぐらを掴み上げたからだ。

「てめえ、何しやが……っ」

「黙れ」

 怒りとべつを込めて火野をにらむと、セコいファッションヤンキーは俺から攻撃的な感情を向けられると思っていなかったのか、されたように目を見開く。

「金を奪おうとしたな?」

 口から滑り出た声は、自分でも聞いたことのないほどに冷徹な響きとなっていた。

「三千円ぽっちなんて言った上に、それを奪おうとしただろって聞いてるんだ」

「はっ! だったらなんだって──」

「ふっざけんじゃねえええええええええええええええ!!」

 大音量で叫ぶと、火野も周囲にいる生徒たちもあつにとられて固まる。

「何が三千円ぽっちだ馬鹿野郎……! それだけ稼ぐのに、どれだけの苦労が必要かわかってんのか!?」

 俺は完全にキレていた。

 間違いなく火野は自分で稼いだことなんてない。

 金の重みもありがたみも全くわかっていない。

 そんな正真正銘のクソガキが母さんが仕事で稼いだ金を奪おうとしたことに対し、俺の中で信じられないほどの怒りがほとばしっていた。

「腕がけんしようえんになるほどキーボードをたたいて! 時には頭のおかしい客に罵声を浴びせられながらペコペコ頭を下げて! 一つでもミスしようもんならバカ、ボケ、死ねと責められて! 金ってのはそんなクソみたいな思いをして、やっと手に入るものなんだよっ!!」

 そのつらさも知らないガキがヤンキーごっこで軽々しく他人の金を奪うのは、もはや処刑ものの罪だ。無知で許される範囲を超えている。

「お前なんかどれだけヤンキーぶろうが、メシも寝床も何もかも親に養ってもらっているぬるま湯にかった坊ちゃんなんだよ! 今度俺の親が稼いだ金をろうとしてみろ! マジで殺すぞ……っ! わかったかオイ!」

「あ……う……」

「わかったかって聞いてんだっ!」

「あ、ああ……」

 俺の金を軽く見ているバカへの怒りが効いたのか、火野は混乱気味に返事をした。

 ぺたんとしりもちをついてしまったエセヤンキーの胸ぐらから手を離して財布を回収し、俺は周囲からすさまじく注目を浴びているのを自覚しながらその場を離れた。

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