第一章 海辺の町、新しい生活(5)

「釣れへんなぁー」

「釣れへんねぇー」

「ぴくりともせーへんなぁー」

「せーへんねぇー」

「海はこんなに穏やかやのに」

竿さおさきも穏やかやねぇー」

「おっ、上手うまいこと言うやん、たまには」

「ずっと言うてるでぇー。三百六十六日言うてるでぇー」

「なんでうるう年やねん」

「うるうの気分やってん」

「ふーん。まぁ、分からんでもないけど」

「分からんとってぇー。うるうの気分とかないから。ってか、なんやねん、うるうの気分って」

「知るか。あんたが言い出したんやろ」

「ってか、うるう、ってなんなん?」

「知らん。ググレカス」

「ググレカスってさ、くぐれます、に聞こえへん?」

「聞こえへん」

「くぐれますって、一体なにをくぐれるんやろね」

「やから知らんて」

「そうなん? 凪ちゃんは、くぐれません、なん?」

「……。そうそう、くぐれませんねん。わて、くぐれませんねん」

「ふーん」

「すかすなや。せっかく乗ったったのに」

「ってか、すかす、ってさぁー」

「もうええわ」

 ……後方から気の抜けたやり取りが聞こえてきている。そんな彼女たちの言葉の一つひとつがグサグサと私の背中に突き刺さってくる。

 私は手に持ったロッドを海へと向けて糸を垂らしているも、その意識は竿先でも魚でもなくて後方の彼女たちにばかり向かってしまっている。なにも悪いことなんてしていないのに心が落ち着かない。そんな私の竿先は相変わらず微動だにしない。静かな波の音だけが辺りにむなしく漂っている。

「試しに一回上げてみたらぁー?」

 そう後方より声を掛けられ、私はおずおずとその方へと振り返る。そうしてその光景を目にした私はギクリと肝を冷やした。

 二人は灯台の足元にある石段に並んで腰を下ろしていて、白木須さんは退屈そうに空を見上げていて、声を掛けてきた汐見さんに至ってはポチポチとスマートフォンの操作にいそしんでいる有様だった。

「もしかしたら釣れてるかも分からんでぇー」

 汐見さんはスマートフォンの画面に目を向けたまま、なにやら文字を打ち込みつつそんなことを言ってくる。

「え? けど、そんな感じは全然……」

「やから、試しに、やって。そういうこともあんねん」

「……分かりました」

 汐見さんの助言には正直納得いかなかったけど、私は言われた通りにリールを巻き巻き、海中に沈めていた仕掛けを巻き上げてみた。

 やっぱり魚は釣れていなかった。けど、どういうわけか綺麗さっぱりエサがなくなってしまっていた。

「あー。取られてもうてるなぁー」

 白木須さんが気の抜けた声で言った。

「そら釣れんわなぁー」

 同じような調子で汐見さんが言った。

「エサつけたげるから、こっち持ってきて」

 そんなふうに言われて、私はとぼとぼと白木須さんの許へと歩み寄っていく。おかしいな。なにも感じなかったけど……。

「フグやね」

「フグやな」

 針に新しいエサをつけてくれながら、白木須さんと汐見さんはなにやら納得したようにそう言った。

「フグ?」

 そう私は聞く。私の頭の中には、ちようちんのフグとか、フグ刺しとか、フグ鍋なんかが浮かんでいる。あのフグが一体どうしたんだろう?

「うん。あいつら盗みの常習犯やねん」

 白木須さんはイシゴカイをブチッと千切ってあとを続ける。

「ヘリコプターみたいにホバリングして近付いてきて、ちょんちょん、ってついばんでエサだけ綺麗に食べてまう。やからさっきみたいに──」

「そんな高級魚が釣れるんですか?」

 なにやら話していた白木須さんのことを押しのける形で、私はつい気になってしまってそんな質問をしてみた。すると白木須さんと汐見さんは顔を見合わせて、ぶっ、と二人して吹き出し笑い始めた。

「高級魚って、マジで言うてんの?」

「めざしちゃん、それ東京で流行はやってるギャグなん?」

「やっぱ東京ってすごいな。マジまんじやん」

「ほんまほんま。マジ卍過ぎてエモ過ぎンゴ」

 なにがそんなに面白いのか。私はわけが分からず一人ぽかんとしていると、白木須さんは笑いながらある方を指差し「あれ」と言った。

 私はその方へと目を向ける。なにやら波止の上に小さななにかがころがっている。あれが一体どうしたんだろう。

「高級もクソもあらへんよ。あんなのただの嫌われもんのエサ取りやで。たぶん毒だって持ってるやろうし、売れへんし、食べられもせーへん」

 白木須さんいわく、どうやらあの小石みたいなのがフグらしい。

 私は少し見てみたくなってその方へと足を向かわせて、そうして真上からそれのことを見下ろしてみる。

 人生で初めて見る、映像でも写真でもないフグの姿。それは全然膨らんでいなくて、からっからに干からび死んでいた。

「たまに針に乗って釣れることがあんねんけど、エサ取られた腹いせにそうやって干物の刑に処されてしまうねん。可哀かわいそうやから私はせーへんけど」

 干物の刑……。私にはそれがひどく嫌なことのように思えて、しばしそのなきがらのことを無言のままに見下ろし続けた。


 ピンポンパンポン、ピンポンパンポン──。

 軽やかなメロディーが漁港町に鳴り響き、放送機器を介したおさなごえがあとに続く。

「もう六時になりましたので、おうちに帰って勉強や家のお手伝いなどをしましょう」

 そんな地元の小学生による帰宅を促す放送が流れ始め、遠い空に浮かぶ太陽は完熟色をしていてにじした果汁よろしく空をあかねいろに染めている。

「放送もああ言うてることやし、私らもそろそろ引き上げよっか」

「せやな。じゃあ、追川」

「は、はい」

「作った仕掛けバラしていこか。オモリとかは椎羅に返したって。あと、糸は全回収な。釣りをやるもん、ゴミは持ち帰らんと絶対にアカン」

「はい……」

 私はそう力なく答えて、リールを巻いて海中に沈めていた仕掛けを巻き上げていく。思わずためいきが零れた。

 あのあとも何度となくエサ取りに見舞われて、そのたびに白木須さんにエサをつけ直してもらったのだけど、私は結局なにも釣り上げることができなかった。

 釣れなかったことに対する悔しさはほとんどない。ただ、嫌な気分にさせちゃいないかなって……。

 あんなに指導をしてくれて、エサだってつけてくれて、白木須さんたちは本当に長い時間を私に費やしてくれた。私なんかのために。けど、そんな彼女たちの思いに私は応えることができなかった。

 そんな私を彼女たちはどう思っただろう。

 ダメなやつだと思われていたらどうしよう……。いじめてやろうと思われていたらどうしよう……。

 そんな重い心持ちでリールをゆるゆる巻いていると、

「ん?」

 それを目にした私の首は横方向へと傾いた。海中から巻き上げてきた仕掛けの末端に、なにやら赤いなにかがくっ付いていた。

 ゴミか海藻かな?

 そんなふうに思って再び仕掛けを巻き上げていく。すると次の瞬間、

「白木須さん! 汐見さん!」

 私は柄にもなく大声を上げて二人のことを呼んだのだった。

 ゴミか海藻かと思っていたそれには目があった。どうやら私は魚を釣ったらしかった。

 体色は深い赤色。なんだかトゲトゲしている感じで、立派な背ビレはどこかモヒカンを思わせる。例えるなら、北斗の拳に出てくるモブキャラみたいな……。つまり、あまり素手で触っていい感じの魚じゃない、というのが私の正直な感想だったりする。ひどく毒々しいビジュアルの魚だ。

「あっ! 触ったらアカンで!」

 こちらへとやってきた白木須さんが声を上げる。

「そいつ毒持ってるから!」

 やっぱりそうらしい。思った通り、この魚は毒魚みたいだ。なんとなくだけどモヒカン背ビレが危なそうに思う。

「背ビレに毒があんねんて。刺されたらめっちゃ痛いらしいで。知らんけど」

 遅れてやってきた汐見さんがあとを続ける。やっぱり背ビレが危ないらしい。知らないらしいけど。

 白木須さんの解説によると、あの魚はハオコゼという名前の毒魚であるらしい。波止釣りの外道──狙い以外の魚のことを言うらしい──としてポピュラーな魚で、毒のある背ビレを取り除けば食べることも可能らしい。手間と危険性、あと食べられる部分の少なさから、ほとんどは食べられることなくリリース──逃がしてあげること──されるらしいけど。もちろん私もリリースすることを選択した。

 針からは白木須さんが外してくれた。トングみたいな道具を使って毒魚を挟んでつかみ、クイックイッと針から外してポイと海へと放って逃がす手際の良さ。その様子は毒魚を相手にしているとはとても思えない堂々としたものだった。

 タックルを片付けて帰宅のにつく私たち。なんとか一匹は釣り上げることができて本当に良かった。それが危険な毒魚であったとしても。

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