第一章 海辺の町、新しい生活(4)

    ※※※


 魚釣りに行く──。

 私にとってそれは遊園地に行くだとか、ピクニックに行くだとか、そういった類いの休日レジャーの一つだという認識だった。なんと言うか、もっとこう大掛かりというか大ごとというか……。

 つまり白木須さんが言うみたいに、ちょっと帰りにマック──関西はマクドだっけ──寄っていかない? みたいな軽いノリで行けてしまうものではないということ。十分な物的準備と心的準備が必要。そんな認識だった。

 けど、そんな私の認識は彼女たちによって容易に覆された。

 そう。私はいま魚釣りをしに来ている。あの日に高台から見た灰色の道、あの波止の上に今まさに立っているのだ。ほんの数十分前まで教室にいたはずなのに。

 どこからともなく聞こえてくる鳥の鳴き声は遠く、静かで弱い波の音が私の心を不安にさせてくる。なんだかさっきから地面が揺れているような気がする。気のせいだったらいいのだけど……。

「……しちゃん」

 かすかに聞こえた誰かの声。そんな声を聞き流して灰色の地面に目をくれていると、突然なにかに手を握られ私は我に返った。私の手を握っていたのは白木須さんだった。

「大丈夫? 具合悪いとか?」

「……あっ、いえ。大丈夫です」

 そう言って、私は笑みを作って取り繕う。すると白木須さんはニコリと笑い、

「そう。なら、あの灯台のところでいろいろ準備していこか」

 そうして私たちは波止の先の方にある、赤い建造物の足元へと移動していった。

「じゃあ、まずはタックルの準備からやね」

 そう白木須さんが言ってくる。タックル? 私はそう疑問に思った。

 私はタックルなんてものは持っていない。持っているのは釣り竿……ロッドと、スピなんとかっていうリールだけだ。持っていないものの準備なんてできない。……いや、もしかしたら道具のことではないのかも。

 タックル。ラグビーとかアメフトとかで、相手に飛びかかったり組み付いたりするあれのこと? 魚釣りってそんなにハードなの?

 そう一人恐々と思っていると、

「タックルっていうのは、ロッドとかリールとか、釣り道具全般のことを指してそう言うんや。つまりな、釣りする準備をしましょうね、ちゅーことや。分かった?」

 問うてもいないのに汐見さんは、そう私の疑問に的確な答えをくれた。

「もう。私が教えたげようと思ってたのに」

 白木須さんが不満げに文句を言う。それに対し汐見さんは、

「あんたはいちいちめんどいねん」

 そう厳しい言葉を投げ返した。

「なら最初からスッと言えや。なに追川の反応待ってんねん。質問させてドヤ顔したいだけやろが。しょーもない」

「んなことあらへんよ」

「ならなんでスッと言わへんねん」

「そっちのがええ感じやからに決まってるやん」

「やからそういうことやんけ。そういうのがめんどいって──」

「ごっつええ感じやからに決まってるやん」

「言い直さんでええねん。そういうのは一発で決めろや。しょーもない」

「しょーもなくないわ!」

 そんな彼女たちの言葉の応酬を、私はハラハラしながら見ていることしかできない。

 私のことで言い争いを始めた二人。その議題はいつしか「しょーもないか、しょーもなくないか」に変わってしまっている。私の記憶が正しければ「私に教えたかった白木須さん」が事の発端だったはずだけど……。

 そのあとも言い争いを続けた二人はどうしてそうなったのか、「シュークリームはカスタードか、生クリームか」などという論戦を繰り広げたのち、「どっちも入っているのが神」という結論に行き着きようやく終戦を迎えたようだった。

「じゃあ、まずはロッドをつなげて。輪っかがおんなじ位置に来るように」

 ついさっきまで汐見さんと言い争っていたはずの白木須さん。そんな彼女が次にはけろりとした顔でそんなことを言うものだから、私は思わずキョトンとなり、けどすぐにハッとなって彼女の指示に「はい!」と答えた。

 二つに分解されたロッドを言われた通りに繋ぎ合わせて、次いで出される白木須さんの指示にオロオロしながらもタックルの準備を進めていく。

 リールのベールという部分を起こして糸をフリーにさせ、リールに巻かれている薄黄色の糸をロッドの輪っかに通していって、全ての輪っかに通し終えると適量の糸を引き出してからベールを戻して糸の出を止める。

 そこまでを言われた通りに慎重に進めて、私はおずおずと白木須さんの顔色をうかがってみる。大丈夫かな……。

「オッケー。じゃあ、次は仕掛けを作っていこか」

 どうやら問題なかったらしい。私はほっとあんの息をついた。

 白木須さんは背負っていたリュックを地面に下ろして灯台の足元にある石段に腰を下ろすと、探ったリュックの中からお弁当箱ほどのケースと透明色の糸が巻かれた丸いなにかを取り出した。そうして彼女は仕切られたケースの中から小物をいくつか摘み取り、一メートルほどに切断した透明色の糸といっしょにこちらに差し出してきた。

 私はそれらを受け取る。するとそこから白木須さんによる講義が始まった。

 二つの輪っかがある銀色のやつがサルカンで、黒色の管みたいなのがゴム管で、穴の通った鉄球みたいなのが中通しオモリで、平仮名の「し」みたいな形をした先端がとがっているやつが釣り針で、透明色の糸はハリスといって……。

 本当に申し訳ないと思う。白木須さんはそんなやっつけな解説はしていない。もっといろいろ詳しく解説をしてくれた。それぞれが担っている役割だとか、クッションだとか、何号だとか、そんな感じのことをいろいろ……。

 けど、無理だった。私の理解力ではあれが限界だった。

 私は再び指示されるがままに、道糸と言うらしい竿先から出ている糸を中通しオモリの穴に通し、ゴム管を通し、そうしてサルカンの一方の輪っかに道糸をキツく結び付ける。中通しオモリが道糸を伝ってスルスル滑り、間に挟んだゴム管が中通しオモリとサルカンの結び目の緩衝材になっているのがよく分かる。なるほど。さっき白木須さんが言っていたクッションとはこのことみたい。

 引き続き、私は白木須さんの指示に従い仕掛けを作っていく。サルカンのもう一方の輪っかにハリスを結び付け、残ったハリスの先に釣り針を結び付ける。

 穴の空いていない針には困惑させられた。針というと私の場合、裁縫道具の針をイメージしてしまうものだから、穴もないのにどうやって結ぶのかと疑問に思った。

 白木須さんが教えてくれたのは、外掛け結び、という結び方だった。

 まず初めにハリスを数センチ余らせた状態で輪っかを作り、その輪っかに針を添えて余らせたハリスをくるくると五回ほど巻き付けていき、最後に残ったハリスを輪っかに通してグッとキツく締め上げる。そんな外掛け結びにより、穴の空いていない針は案外簡単に結び付けることができた。

「うん。オッケー。じゃあ、ガンガン釣っていこ」

 私お手製の仕掛けに合格点をくれた白木須さんは、小物ケースとハリスをリュックの中にしまい込み、次いで足元に下ろしていたビニール袋の中へと手を突っ込んだ。

「はい」

 そう言って、取り出したなにかをこちらへと差し出してくる彼女。白木須釣具店を出た時にはすでに手にぶら下げていたそれ。一体なんなんだろう?

 そんなふうに思いながらそれへと手を伸ばしかけた私は、

「ひゃっ!」

 次にはそんな悲鳴をこぼして身をすくめていた。

 私はたまらず一歩二歩と後ずさる。これは決して白木須さんから距離を取ったわけじゃない。あの簡易ケースの中にいる、なにか、と距離を取ったのだ。

 白木須さんが差し出してきている簡易ケース。輪ゴムで封がされたそのケースの中にはくずのようなものが大量に収められていて、私はこの目で確かに見た、そんな木屑を持ち上げ動いたなにかの存在を。

「どうしたん?」

 白木須さんはぽかんとした顔で聞いてくる。どうしたん? って……。

「……なんなんですか、それ」

 私は恐る恐る聞いてみる。すると白木須さんは、

「なにって、エサやけど?」

 そう当然のように答えてみせた。

 エサ……。そ、そうですか。エサですか……。

 私はなんとか口だけは笑みの形をさせて、一歩、二歩と、それとの距離を少しずつ詰めていく。そうしてエサが入っているらしいケースを恐る恐る受け取った。

 なんだか底のところがひんやりしている。私はなにか嫌な予感を覚えつつも、ケースを持ち上げ下からそぉーっとのぞんでみる。──その瞬間、私はゾッとおぞを覚えた。

 悲鳴を上げなかったこと、ケースを投げ捨てなかったこと、それは本当に奇跡だったと思う。そう思えてしまうほど、私の両目が捉えたそれは私のキャパシティを軽くオーバーしていた。

 赤っぽかったり、緑っぽかったり、それはミミズのようで、ムカデのようで……。

 とにかくそんな感じの恐ろしく気持ちの悪いなにかが、ケースの底のところでグネグネとうごめいている。それも、かなりの数が……。

 私は一度、ケースを下ろして聞いてみる。

「えーと……これは?」

「うん。イシゴカイやね」

 またしても当然のように答える白木須さん。イシゴカイ……。

「ぶっこみ釣りやと、そのイシゴカイがベターなエサやね」

 ぶっこみ釣り? なんですか、それ。って今、ベターなエサって言いました? どこがですか! めちゃくちゃハードですよ!

「じゃあ、それ針につけてみよか」

 早速そんなふうに簡単に言われて、私はただただぜんと固まっている他ない。

「針は頭の方から刺していってな。で、針の曲がりに合わせてクイッて通してやる」

 透明の針とエサを使って、白木須さんは針にエサをつけるお手本を披露してくれている。けど、ごめんなさい。少しも頭に入ってきません……。

 針にエサをつける。それも魚釣りにおける重要な作業だったりするのだろうけど、そんな恐ろしいこと……、それに針につける以前にあんなおぞましいものに触れるはずがないわけで……。

「で、針に通し終えたら、ええくらいの長さでブチッと千切る」

 ひぃいいいいい──ッ!

 私は堪らず震え上がる。無理無理無理ッ! 絶対無理ッ!

「そのままの長さやと、アタリがあってもなかなか針に乗らんからね」

 乗らなくていいですッ! 全然乗らなくて大丈夫ですッ!

「じゃあ、とりあえずやってみよか」

「……」

 私は手に持っているエサのケースへと目を落とす。

 あのミミズみたいなのに触る? 千切る? 素手で? 私が? あり得ない……。

 ──あとで後悔しても知らんからな。

 汐見さんのあの言葉が脳裏に響き渡る。まさかこんなことになるなんて……。

 触るなんて絶対に無理。その上、千切るだなんて……。そんなのできるわけがない。

 ……けど、そんなことは口が裂けても言えない。

 触るしかない。千切るしかない。言われた通りにするしかない。だって、断るなんて選択肢は私にはないのだから……。

 そう思いつつもなかなか決意できずにいると、

「もう椎羅がつけたったらええやん」

 そう助け船を出してくれたのは汐見さんだった。

「追川はゴカイにビビってんねん」

「え? そうなん?」

 白木須さんは驚いたように言う。すると汐見さんはチラリとこちらを見やり、

「たぶんな。めっちゃ嫌そうな顔してたし」

 そんな汐見さんの言葉にドキリとさせられる。……またやってしまっていたみたい。本当に気を付けなくちゃ。特に汐見さんがいる時は。

「ほんまに?」

「ほんまに」

「凪ちゃんの誤解やなくて?」

「誤解やなくて」

「めざしちゃんはゴカイが苦手なん?」

「たぶんな」

「ほんまに?」

「ほんまに」

「誤解やなくて?」

「誤解やなくて」

「ゴカイやのに?」

「ゴカイやのに」

 白木須さんたちはそんなオウム返しなやり取りを繰り広げる。そうして汐見さんの助言通り、エサは白木須さんがつけてくれるということで収まりを見せた。本当に良かった……。

「すみません。ミミズとかそういうの、本当にダメで……」

 私はそう感謝の気持ちを伝える。すると汐見さんは小さく微笑ほほえみ、

「そんなん気にせんでええよ。それが普通やねんから。私らが特殊やねん」

 そう優しい言葉を掛けてくれた。

「まぁ正直言うて、私もあんまし得意やないしな、虫エサって」

「そうなんですか?」

「うん。ビジュアルの時点でかなりあれやし、あれに触るってなったら、なぁ? 慣れてへんとなかなかキツいで」

「ですよね……」

 それを聞いて私は少し安心した。やっぱり彼女たちも女の子なんだ。あんなものに平気で触れるはずがないんだ。

「椎羅はどうなん? って、いま思っきし触ってるけど」

「うーん。せやねぇー。私もあんまし得意と違うかな。釣れるから別にええねんけど」

「せやなぁー。釣れるからなぁー」

「うん。釣れるからねぇー」

「……」

 安心したのもつか、私はそれを聞いて言葉をなくした。

 なんでも彼女たちは魚が釣れるという理由であれに触れるらしいのだ。信じられない……。あれに触るくらいなら私は釣れなくて全然いい。

 あまり得意じゃないと言っていた割に、白木須さんは慣れた手付きで容赦なくブチッとやっている。そうして千切ったエサの余りをノールックで海へとポイと放り捨てた。

「はい。これで準備オッケーやで」

 そう言って、白木須さんはこちらへとロッドを差し出してくる。私は一つお礼を言ってそれを受け取る。いよいよ魚釣りの開始だ。

 そうして私はロッドを手に海を前にするも、けどそこから先が進まない。たぶん、エサのついた仕掛けを海中に沈めるのだと思う。けど、そのやり方が分からない……。

「あっ、ごめんごめん。まだ教えてへんかったね、キャストのやり方。ちょっとそのまま待ってて」

 そう後方から白木須さんが言ってくる。対して私は肩越しに振り返って「はい」と答える。彼女はウェットティッシュで手を拭いているところだった。

 私は海へと向き直る。そうして白木須さんのことを待っていると、

「ひゃっ!」

 私は思わずそんな悲鳴を零して身を竦めた。

「じゃあ早速、キャストのやり方やけど」

 白木須さんは何事もないかのようにキャストというもののレッスンを開始する。対して私の心臓はドキドキと落ち着かない。だって……。

 白木須さんはまるで後ろからハグするみたいに私と体を密着させて、後ろから回してきた手で私の手をギュッと握ってきている。

「まずはリールを巻いて仕掛けをええくらいのところまで巻き上げる」

 そう言いながら、握った私の手を動かしてそのように促してくる白木須さん。依然として胸のドキドキが止まらない。

「で、次にロッドを持ってる方の手の人差し指にこうやって糸を引っ掛けて、もう片方の手でベールを起こして糸をフリーにさせる」

 そう言いながら、握った私の手を動かしてそのように促してくる白木須さん。彼女は実に真剣そのもの。けど、この密着具合はさすがに……。背中にかいた汗に気付かれないかと、私はもう気が気じゃない。

「で、この状態で軽く後ろに振りかぶって海へとビュッとキャストする。キャストの瞬間にこの人差し指を離したら糸が出ていくから。あとは仕掛けが海の底に着くのを確認したらベールを戻して糸の出を止めて、魚のアタリが来るのをじっと待つ。そんな感じ」

 そう言って、ようやく体を離してくれる白木須さん。私はもうぐったりだ……。

「じゃあ、ガンガン釣っていこ。魚たちがめざしちゃんのことを待ってるで」

「はい……」

 私はなんとか笑みを作ってそう答えるも、やっぱり得意じゃない……。笑顔でいる白木須さんのことを見やりながら私は心底そう思った。

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