第一章 初恋を忘れたい先輩と小悪魔なタヌキちゃん その7
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無人のごとく静まり返った深夜の富士見通り。ラビットの軽快な音だけが響く中、ヘルメットをかぶった女性が、運転手の腰に両腕を回す。
世界には僕と先輩だけが取り残され、逃避行でもしているかのよう。七月上旬の夜風は海の香りを攫い、生温く吹き流れていく。
ツーリングで切り裂く夏の夜風は気持ちいいけど、絶えず背中に伝わってくる先輩の温もりに勝るものはなかった。
「夏梅くん、ちょっとだけ寄り道していかない?」
走行音や風の音に混ざり、背後からそんな提案が聞こえてくる。
「もう夜中の十一時なんですけど!」
「ワタシと夜更かしするのは嫌かな?」
「先輩と夜更かしするのは慣れてるんで、どこにでも付き合いますよ!」
明日も学校だが寝坊しようとも問題ない。
深夜徘徊で補導されようがまったく構わない。
二人きりの時間ができるだけ長く引き延ばされてくれるのなら。
このままどこか遠い彼方まで、あなたと行けるのなら。
「うあーっ、すぐ着いちゃったねーっ!」
マジですぐ着いちゃったなあ。
駐車場に停めたバイクから降りた春瑠先輩。
瑠璃色の夜空に両手を突き上げ、縮こまっていた背筋を軽快に伸ばす。
最低でもアクアラインは越えたかった……という僕の密かな願いは叶わず、富士見通りを一直線に走り抜け、秒針が十周する程度の時間で目的地に到着してしまった。
道に迷ったふりをすれば……などと、小さな後悔を胸中で呟きつつも、さすがに通い慣れたスポットなので浅はかな思惑は自重した。
海沿いの開けた場所を青白い常夜灯が照らし、低いコンクリ壁やフェンスの向こうには吸い込まれそうな黒の水面が待つ。
遠くにぼんやりと浮かび上がる工業地帯の光。
淡い暖色が重なった水平線は深い眠りに落ちる東京湾へ一筋の道を描き、波の揺れに合わせて人工の光も控えめに踊る。
鳥居崎海浜公園——ここが春瑠先輩の寄り道だ。
「夜に来たのは久しぶりなんだけど、結構遅い時間なのに意外と人がいるなー」
「周辺は釣りスポットですからね。夜釣りしてる人も珍しくないですよ」
春瑠先輩は感心したような声を漏らす。実際、周囲には釣り人らしき人影が疎らに動いており、黒い海に向かって糸を垂らしているみたいだ。
「春瑠先輩は夜釣りがしたかったんですか?」
「そんなわけあるかー。めちゃくちゃ手ぶらなんですけど」
半分冗談のつもりだったのに、天然な発言だと思われたのか苦笑されてしまう。
明らかに釣り人じゃない風貌の男女もちらほらと見かける。それこそ、僕たちの雰囲気が浮かないくらいには。
「……ここ、恋人の聖地って言われてますよね」
「うん、知ってる。そこそこ有名じゃん」
水平線の工業地帯を眺めながら春瑠先輩は淡々と答えた。
木更津を舞台にしたドラマが十数年前に放送され、ロケ地の一つにもなった鳥居崎海浜公園は恋人の聖地と呼ばれるようになったとか。恋人同士をイメージした二匹のタヌキが鼻をくっつけているモニュメントにも【恋人の聖地】と大きく記載され【LOVE】と象られた柵には大勢のカップルが残した南京錠がぶら下がっている。
「夏梅くんは、こういう恋人っぽいイベントは嫌い?」
「いえ……好きな人とならやってもいいかなと思います。大人になってから恥ずかしい黒歴史になったとしても、大切な人と過ごした日々には変わりないので」
「今日はワタシとなんかでごめん。夏梅くんもいつか好きな人と来たいよねー」
申し訳なさそうな先輩は弱々しい声で謝った。となりに並び立つ僕は愛想笑いでお茶を濁したが、そうでもしないと抑え込んできた本音を吐露しそうになる。
今まさに、好きな人と来ている——と。
「春瑠先輩は、どうして僕の家に来たんですか?」
後輩の純粋な心を翻弄した理由は聞いておきたい。
「なんとなく、かな。最近の夏梅くんがだらしないって冬莉ちゃんに聞いてたから」
「……それだけですか?」
「それに、昨日会ったキミは寂しそうな顔をしていた気がするからさ」
「寂しそうな顔なんて……してないですよ」
「そっか。それじゃあ、ワタシが過保護だから心配になったってことで」
お姉さんぶった余裕の微笑みは、すべてを見透かされているような感覚をもたらす。
「この場所に来たかったのも、なんとなく……ですか?」
「そう、この場所に用事なんて何もないよ。本当に……ただ寄り道したかっただけ」
一見は平静。しかし——
「地元に戻ったときはさ、立ち寄るようにしてるんだ。ワタシが好きな場所だから」
絞り出されたような声が……夜の海に攫われていく。
「兄さんも……この場所が好きでした」
僕の台詞も喉に痞えたが、落ち着いて静かに吐き出す。
「うん、知ってる」
春瑠先輩はほんの微かに頷き、
「——だからワタシも好き。キミのお兄さん……
一粒だけの涙が、彼女の頬を伝う。
「時々ね……キミが晴太郎先輩に見えるときがあるの。彼のバイクに乗る夏梅くんの後ろ姿は本当に似てる」
「……僕は弟なので、兄さんのラビットに乗れば雰囲気は似るんじゃないですかね」
「兄弟だから不思議じゃないんだけどさ。二人の姿がダブって……仕方ないんだ」
先輩は自らの顔を手のひらで覆い、脆弱な表情を隠した。直視していられない。僕は反射的に目を逸らしたい衝動に駆られ、戸惑う視線を水平線へと逃がす。
「ここにいるのは可愛い後輩の夏梅くん。わかっているはずなのに……ワタシは今でもあの人がいた最後の夏で……時計が止まってるのかもしれないね」
兄さんの面影と重なったから、春瑠先輩はこの場所に寄り道したくなったのだろうか。
今この瞬間、春瑠先輩のとなりにいるのは白濱夏梅。
僕が〝大嫌い〟だった白濱晴太郎であるはずがないのに。
春瑠先輩の初恋が叶うことは、永遠にない。
僕の片思いが叶うことも、絶対にありえない。
僕の兄は、白濱晴太郎は……一年前に死んでいるのだから。
春瑠センパイが涙を流していても、優しく抱き締めることすら叶わない。
それは僕の役目じゃない。
「ワタシはまだ……許されてないみたい」
「何を……ですか?」
「とっくに終わっている片思いを忘れる権利が、ないみたい」
春瑠先輩は……どこを見ているんだ。
あなたの視線が固定されている黒い水面の先には、何もない。
ましてや生身の人間の存在感など、あるはずもない。
海に引きずり込まれそうな恐怖感と、ちょっと目を離してしまえば彼女が消えてしまいそうな感覚に襲われ、東京湾を眺める先輩から目を逸らせない。
ポケットから取り出したスマホを耳に添えたあなたは——綺麗な涙を流しながら、誰の声を聞いているのだろうか。
「もう好きじゃないし、とっくに吹っ切ったつもりだったのに……どうしても先輩の残像が消えてくれないんだ」
広瀬春瑠が恋焦がれているのは失われた〝本物〟であって、僕は本物の居場所に図々しく居座りながら物真似をするだけの〝偽者〟でしかないのだ。
「終わった初恋を忘れさせてよ、後輩くん」
それでも——春瑠先輩が悲しみや喪失感を少しでも忘れられるのなら、僕は白濱夏梅として報われなくてもいい。