第一章 初恋を忘れたい先輩と小悪魔なタヌキちゃん その6
「はい、できあがり。春瑠先輩の特製焼きそばでーす!」
海果が帰宅してから数分後、大皿に盛られた焼きそばを春瑠先輩がテーブルに並べる。
冷蔵庫に残っていた野菜や冷凍の豚肉を食べやすいように刻んで炒め、光沢のあるソースが絡む麺と和えたオーソドックスな出来栄えだった。
正直、夕方に菓子を食べたので空腹とは程遠い。でも、濃いめのソースと豚肉の香ばしい匂いが鼻を執拗に撫でるうえ、春瑠先輩が僕のために作ってくれたという事実だけで口内に唾液が充満してしまう。
「んっ? どしたの? まさか……お菓子を食べすぎてお腹が減ってない~とか、小学生みたいなこと言わないよね?」
「めっちゃ腹ペコっす。いただきます!」
冷めないうちに下品な音を抑えず一口啜る。無防備な口の中に濃厚なソースが絡み、野菜の水分や肉汁が溶け込んだ油を舌が追い求め、麺を挟み上げる箸が止まらない。
「味はどう? ソースとかは市販のだし、そんなに不味くはないと思うんだけど」
「先輩が作ってくれたので格別に美味いです」
「気を遣ってくれる後輩で嬉しいなー。おかわりもあるからいっぱい食べてね!」
まんざらでもなさそうな春瑠先輩が椅子に座り、僕たちはテーブルを挟みながら向かい合う。
これだよ……母の味より食べた先輩の味。
プロ級に美味しいとか、色味や盛りつけが芸術的に映えるとかではないものの、落ち込んでいるときや悩んでいるときに辛さを忘れさせてくれる。
「こらっ、よく噛んで食べなさい。あと、たまにはサラダとかお味噌汁も作ってバランスのいい食生活を心がけること」
僕の母親より母親らしいことを言ってきた。
食べ盛りの息子を世話しているような眼差しの先輩に見守られながら精いっぱいの現状維持を満喫していたのだが——時折、無性に目を逸らしたくなる。
「春瑠先輩は……」
「ん? ワタシがどうかしたの?」
きょとんと瞳を見開く先輩を目の当たりにすると、いつも言葉に詰まってしまうから、
「いえ……なんでもないです」
今日もまた、はぐらかす。
この幸せは偽物。
先輩の笑顔も、穏やかな声も、煌びやかな瞳の奥も。
たぶん、僕に向けられたものじゃない。
焼きそばの味つけもトッピングされた具材も、僕の好みに合わせたものじゃない。
そんな現実を改めて思い知らされるたび、胸の底にじくじくとした鈍痛が生じ、湿った息が喉奥に痞えてしまう。
「夕食のあとはDVDでも見ようよ。前から見たかった旧作をレンタルしてきたからさ」
タイトルを聞かずとも、先輩が借りてきた作品を悟る。
過去の先輩が……僕以外と観に行っていた映画だから。
「その映画、めっちゃ観たかったんですよね」
自分の言葉とは真逆。観たくない。
自らが纏う偽りの笑顔に隠した劣等感で、脆弱な片思いが締めつけられそうだ。
共同作業の家事も一段落し、リビングのテレビで再生した邦画。
しかし……内容なんて微塵も頭に入らず、右から左へ通り抜けていくだけ。
となりに座る春瑠先輩には甘酸っぱい思い出があり、僕には何も思い入れがない。
あるはずもない。
それは果てしなく長い——百三十分間の拷問だった。
「じゃーん! バイトの初給料で買っちゃった!」
DVDを見終わった直後、先輩は自らの鞄から最新のゲーム機を取り出し、僕の眼前に提示してくる。
「夏梅くんが持っていないゲーム機だよねー? 二人分のコントローラーがあるからさ、ちょっとやらない?」
大人のお姉さんかと思えば少し子供っぽいところも可愛い。この携帯ゲーム機はテレビにも接続可能でコントローラーも二つに分離するタイプだった。
「あ、あー、それ僕もやってみたかったんですよねー」
「でしょでしょ? 受験勉強の息抜きにゲームも悪くないよねー、たまになら!」
同じゲーム機の色違いを僕も所持しているけど、買ったばかりのゲームを見せびらかす先輩のテンションが下がりそうなので空気を読む。
僕は初心者を装いながらガチ初心者の先輩と仲良くプレイしたいんだ。
「夏梅くん相手に練習して大学の友達にも負けないようにしないと!」
「ゲームに熱中しすぎて終電を逃しても知りませんよ?」
「あははっ、そんなに子供じゃないから。今日は肩慣らし程度にサクッとやるだけー」
……とかなんとか笑い飛ばしていた春瑠先輩だが、座布団に座ってゲームを始めてみると予想以上にはしゃいでいた。
それこそテレビ画面を注視し、二人揃って時間を忘れるくらいには。
「春瑠先輩……よっわ」
「ちょっと、夏梅くん! イジワルしないでよーっ! 大人げないなぁーっ!」
「僕が強いわけじゃないです。春瑠先輩が想像を絶する弱さだっただけ……ですから」
「決め台詞みたいに言うのが余計に腹立つ! 後輩のくせに生意気だなーっ!」
初心者の春瑠先輩は想像以上にゲームが弱く、こてんぱんにしてやった。
これでも手加減する僕が連戦連勝を続けるたびに、春瑠先輩は涙目を晒しながら理不尽なブーイングを飛ばし、先ほどまでのお姉さん感は消え失せていた。可愛い。
「なんだか賑やかだと思ったら……春瑠ちゃんが来てた……」
背後から不気味な掠れ声がしたため、ゲームをしていた僕らは同時に振り返る。
洒落っ気の欠片もない地味な私服、ロングの毛先が波打った細身の女性。
とろんと眠そうな目元に薄らと浮き出たクマは、ナチュラルメイクだと隠しきれない。
「おかえり、母さん。今日も遅かったね」
「あーっ、
春瑠先輩が畏まって挨拶した相手は僕の母親『白濱小雨』だった。
母さんはふらふらと千鳥足で徘徊し、リビングのソファへ倒れ込むように沈む。
「うっわ、酒くっさ……まーた仕事帰りに飲んできただろ」
「……うへへ……ちょーっと飲んだけど……酔っぱらってないもん……」
「酔ってるやつはみんなそう言うんだよ」
だらしない表情や甘えたような喋りかたも素面とは思えないし、いつもは不健康な真っ白の顔が上気して朱色が差している。
「ちなみにどこでいくら使ったの?」
「……夏梅……私が無駄遣いすると、すぐ怒る……今回は怒らない……?」
「うんうん、怒らないから正直に白状してくれ」
「……うーんとね……大衆食堂とみに行って~……タンメンとギョーザ……」
それくらいなら普通の夕飯だな。怒るほどではない。
「……それとねー……ハムカツに野菜イタメ……ポークソテーライスも食べた!」
「ビールは?」
「……大ビンで……三本!」
「一人でどんだけ飲み食いしてんだ! だから家を建て替える金が貯まんねーんだろ!」
「……ひーん、夏梅が怒る……怒らないって言ったのに……」
俊敏な動きで春瑠先輩の後ろに隠れ、こちらの様子を窺う母さん。
毎日のように繰り広げられる白濱家の恥部を晒してしまったが、見慣れた光景だなぁと言わんばかりに苦笑いする先輩に「まあまあ、夏梅くんも怒らないであげて」と宥められてしまう。こんな浪費家の飲んだくれにも優しい……天使やん。
「……私は飲むと満腹中枢がイカれるタイプでして……もちろん帰り道は運転代行を使ったから……安心して……ねっ!」
「そのせいでなおさら支出が増えている件はどうしましょうか」
「……ふへへ……かざもっちゃんが代金をまけてくれた……」
「いつも世話になって……風森さんには頭があがらないな」
母さんが毎度のごとく世話になっている運転代行のフリーターこと風森さん、二十歳。
僕も見知った間柄ではある。
「……春瑠ちゃん……お腹減ったぁああああ……」
「めちゃくちゃ食ってきたばっかじゃん!」
「……私は飲むと満腹中枢がイカれるタイプでして……」
この母親、さっきと同じことを言いやがる。
「焼きそばを作り置きしてあるので、レンジで温めますねー」
「あーっ、さすが春瑠ちゃん……息子ともども、お世話になってます……」
ソファの上でぐったりと脱力した母さんだが、この光景は日常茶飯事なので僕も春瑠先輩も取り乱したりはしない。本当の母さんより母親らしいのが春瑠先輩なのだ。
「ここで脱ぐな。自分の部屋で着替えろ」
「……ほっほっほ……家族だし……気にするでない……」
酒気帯びのため暑いらしく、おもむろに脱いだ上着や靴下をソファの背もたれに放り、ぶかぶかのTシャツに着替え始める母さん。部屋が散らかる元凶なのがわかる。
「……冷蔵庫から……お酒を取っていただけないでしょうか……」
「春瑠先輩、無視していいですからね」
「やだやだ……無視しないで……ここから動けない……うわーん……」
幼児化した母親の図々しいお願いに反応した春瑠先輩は「はーい、ちょっと待っててくださいねー」と、嫌な顔一つせずに応じる。
「……春瑠ちゃん……私のママになってくれないかな……ばぶう……」
わけわからんことを呟く母さんだが、ママはあんたなんだよなぁ……。
「春瑠ちゃんも……好きなお酒があったら……飲んでいいよ……」
「十九歳の未成年です♪」
「なんですと……? 仕方ない……夏梅でいいや……一緒に飲もうぜ……」
「息子が高校生なのを忘れてんのか?」
残念そうに手足をバタつかせた母さんは春瑠先輩からグリーンラベルを受け取り、ソファへ横たわりながら躊躇なく喉奥へ流し込む。
「というか、春瑠ちゃん……今日泊まっていくの……?」
「いえ、遅くても終電で帰るつもりですけど」
きょとんとする春瑠先輩だったが、僕は質問の意味を察し、壁掛け時計に視線を移す。
「春瑠先輩、終電の時間……たぶん間に合わないですね」
時刻は二十三時を回ったところだが、木更津駅の千葉方面は二十三時四分が終電。
これに乗らないと千葉駅発の終電にも乗り換えられないが、今からバイクで送ったとしても残り四分では間に合わないだろう。
乗り遅れが確定し「困ったなー」みたいな嘆きを漏らす先輩だったが、
「お泊りしてもいいの?」
「へっ?」
妙な湿り気を帯びた不意打ち発言に、僕の思考は一時停止させられた。
お泊り、とは。
僕の家に先輩が宿泊するということです?
僕が春瑠先輩と一夜を共に過ごす?
「でも、お泊りセットとか着替えを持ってないから難しいかなー」
「まあ、そうですよね。泊まらないですよね」
全身の筋肉を支配していた強張りから解放され、安堵と落胆が交錯する。
まあ、そうですよね……なんて淡泊に対応した素振りを見せた後輩男子だけど、気取った仮面の下は動揺や興奮による気持ち悪い表情が隠れていた。
この人、どこまでが本気なんだか……後輩を無自覚に弄ぶのは勘弁してくれ。
「今日は実家に泊まるね。ここからだと徒歩で二十分ちょっとだし」
それが無難だろう。僕が一人で舞い上がり、一切眠れる気がしないし。
春瑠先輩は数秒ほどで帰り支度を整え、寝転んだまま軽く手を振る母さんに「それではお邪魔しました!」と挨拶した。
玄関まで付き添った僕だったが、ラビットの鍵を手に取る。
「深夜に一人で歩かせるのも心配だし、バイクでも良ければ家まで乗せていきますよ」
「へぇー! 夏梅くん、バイクの免許なんていつの間に取ったの?」
「中免を取ったのは去年の夏です。まあ、部活をやめてヒマだったんで……」
春瑠先輩は喜びを含んだ声を漏らしたが、潤んだ瞳が揺れているように感じた。
「……お言葉に甘えて、お願いしようかな」
そのときの先輩は触れただけで壊れてしまいそうなほど、儚くて美しかった。