第一章 初恋を忘れたい先輩と小悪魔なタヌキちゃん その8

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 春瑠先輩を広瀬家まで送り届けてから、自宅近くの道でバイクを降りた。

 ぐちゃぐちゃに錯綜する感情を冷やしたい。エンジンを切ったラビットを押して歩きながら、街灯だけが照らす不気味な夜道をのろのろと進む。

 誰もいない深夜のみまち通り。

 この場に似つかわしくない制服姿の人影が正面に現れ、思わず足を止められてしまう。

「中学生が出歩いていい時間帯じゃないけどな」

「高校生だって出歩いちゃいけない時間じゃないですかぁ」

 対峙したのは……海果だった。

 数時間前までゲームで遊んでいたタヌキちゃんと同一人物のはずなのに、僕を映す瞳に物悲しさを宿した立ち姿は別人のよう。

 年下の少女が背負う重苦しい空気に呑まれ、軽口など叩けなくなった。

 踏み締めたアスファルトに靴底が縛られる。

 滲んだ汗の粒が流れ落ちる。

 夏の夜なのに鳥肌が腕を侵食し、暑さが消失したと錯覚してしまう。

 イルカの髪飾りが月明かりを纏い、妖しい存在感を放っていく。

「わたし、実はタヌキじゃなくてイルカだったみたいなんですよね」

 こいつの言っている意味が、すぐに理解できない。

「わたしの姿を見てしまった時点で……いえからあなたの……夏梅少年の〝止まっていた片思い〟は、否応なしに動き出したんですよ」

「どういうことだよ……」

「実際に動き出した自覚はありますよね? すべてが偶然だと思っていましたか?」

 間延びしたムカつく口調に戻ってくれ。

 事実を淡々と突きつける沈着な喋りかたをやめてくれ。

 違うだろ、お前はそんな言動が似合うキャラじゃないよな。

「現状維持はもう許されません。あなたの片思いは自分の手によって再び動き出すか、永遠に失うかのどちらか一つしかないんです」

「ただの冗談だよな。からかってるだけだって……怒らないから正直に言ってくれよ」

「別に怒ってもいいですよ。それで少年の気が済むなら、いくらでも嘘つき呼ばわりして結構ですが……わたしの言ったことは何も変わりません」

 アカデミー賞級の名演なんかじゃない。

 声色の変化、表情の微妙な違い、僕を見据える視線……そのどれもが僕の知る海果ではなかった。いや、ふざけていた小悪魔な姿こそが演技だったとでもいうのか。

「誰なんだ……お前は」

「幸運のイルカ、みたいなものです。わたしを見つけたら〝止まっていた片思いが動き出す〟ような存在らしいですよ?」

「ずいぶんと曖昧な存在なんだな……」

「わたし自身もよくわかってないので。わたしを認識できた数少ない人たちは例外なくでした」

 突拍子もない話すぎて、すべてを鵜呑みにできはしない。

 どこからどう見ても、こいつは生身の人間だとしか思えないから。

「その人たちがどうなったのか、教えましょうか?」

 答えを知りたい僕は……静かに頷く。

「どうしようもなかった現状維持が進みだして好転するか、その人にとっての最悪な結末になるか……二つに一つの未来が待ち受けます。どっちにしろ強制的に動き出すんです」

「やめてくれ……ありがた迷惑だ」

「そう言われても、わたしにはどうすることもできませんので。夏梅少年みたいな拗らせた人とわたしが引き合うことで発動する〝呪い〟みたいなものですから」

「それが幸運のイルカの正体だとでも言いたいのか……?」

「それは勝手にそう呼ばれるようになっただけでしょうねぇ。イルカの髪飾りをつけてるし、木更津の海辺によく出没するので……噂話が広がっていく過程でキャッチーな題材にするために名付けられたんじゃないかと」

 唐突な混乱が眩暈を引き起こしたが、もはや闇雲に拒絶する気力も湧かない。

 仕事や飲み会の帰りと思われる通行人が近くを通りかかる際、僕のことを怪訝な横目で見たり逃げるように距離を置いて避けていく反応を感じ取った。

「深夜の路上で夏梅少年がんじゃないですか?」

 本当に見えてないのか……僕以外には、こいつの姿が。

 聞こえていないのか、こいつの生意気な声が。

 私服姿にヘルメットを着用している僕とは異なり、海果は中学の制服を堂々と着ているのに……夜間巡回中の警察官ですら見向きもしない。

「あの! そこに中学生がいませんか……?」

 補導を覚悟して呼び止めてみたが、

「不気味なこと言わないでくださいよ……誰もいないじゃないですか」

 ヤバいやつに話しかけられた、みたいな顔を露骨にされてしまい、まるで相手にされず立ち去られてしまった。

 もしかしてと思い立ち、スマホのカメラを海果に向けてみても……薄暗い歩道と住宅街の影しか映らない。

 思春期ならではの妄想として笑い飛ばしたいのに、虚言扱いの根拠が失われていく。

「ちょっと待て……春瑠先輩にもお前の姿が見えていたよな。だとしたら……」

「春瑠姉さんにも〝現状維持で止まったままの片思い〟がありますから。夏梅少年には心当たりがありすぎると思いますけど」

「春瑠先輩の片思いが動き出すわけないだろ!! だって先輩が好きだった人は……僕の兄さんは……。とっくに終わったんだ……あの人の初恋はもう……!!」

「ごもっともですが『常識では測れない現象』が起きるでしょう。これまで確認できた不可思議な季節は七つ。そのうちの一つの季節が訪れ、あなたたちの現状維持を壊します」

 ありがた迷惑なんだよ。

 行き場のない恋心にさえ目を瞑れば……いずれ風化するまで我慢すれば、沈黙の現状維持は誰も傷つかずに関係も壊れない。心の平穏を保っていられる唯一の手段なのに。

「ありがた迷惑なのはわかってます。でも……わたしにはどうしようもないので、キミたちの片思いが報われるのを祈りながら見守ることしかできません」

 だからお前は——

「ごめんね、わたしのせいで……キミたちは苦しい思いをすることになる」

 会うたびに悲しげな眼差しで謝っていたのか。

 イレギュラーな自分が存在するだけで誰かの関係や未来を大きく狂わせてしまうから。


「これから始まるよ。もう会えないはずの想い人が現れる〝陽炎の夏〟が」


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試し読みは以上です。


続きは2021年9月1日(水)発売

『忘れさせてよ、後輩くん。』

でお楽しみください!


※本ページ内の文章は制作中のものです。実際の商品と一部異なる場合があります。

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