第一章 どこにでも現れる野良猫みたいな その2
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土曜の休日夜勤を終え、日曜の朝九時過ぎに社員寮へ帰宅した。
自分の部屋へ入った直後に空腹と眠気が格闘し始めたが、ここで寝てしまうと週一の貴重な休日が睡眠で潰れてしまう。
三交代なので明日からは早番。夜型だった生活リズムを昼型に戻すためにも睡眠時間を調整しなきゃいけない。
「はあ……ようやく一週間が終わった……」
ソファに座った瞬間、倦怠感を含んだ溜め息。一週間ごとに変わる就寝時間が地味にきつく、疲労やストレスがじわじわと蓄積されてくる。
つまらない一ヵ月だった。
出世コースから外れ、ただただ同じ製品を大量生産する日々への鬱憤を心の中で延々と嘆き続ける。
とりあえず朝飯を食べよう……と思い立ったものの、寮の食堂で提供される朝食は朝九時まで。残業が長引くと間に合わないことが多々ある。
「だっる……」
学生時代のように自炊しようにも冷蔵庫は空に等しく、スーパーやコンビニに行く気力すら残っていない。ソファに沈んだ尻が持ち上がらない。
社会人三年目でようやく気づいたよ。
多忙や疲労感で余裕を失うと、金よりも時間のほうが大切になるって。
料理や洗い物さえ時間の無駄遣いに感じ、野菜ジュースやコンビニ弁当の容器でゴミ袋が溢れるようになったのも頷ける。
テーブルの上には料理デリバリーのチラシ。
郵便受けに投函されていたものを興味本位で持ち帰っていたのだが、初回二千円OFFのクーポンコードにつられ、不慣れながらもスマホで注文してみた。
意外と簡単に頼めるんだな……。
待ち時間の睡魔を紛らわすため、なんとなくテレビをつけてみる。
「うお……!?」
驚きのあまり声が裏返った! 情報バラエティ番組の画面にいきなり映った女の子の顔が、あまりにも見知りすぎていたから。
「
思わず名前が零れる。
スタジオにゲストが入ってきた途端、紹介のためにライブ映像が流れ始めたのだが……ゲストの女の子はセンターで軽快に踊り、ライブ会場で数万ものファンに包囲されながらも大人びた妖艶な笑顔のまま堂々と歌っていた。
『本日のゲストは国民的アイドル〝
MCの芸人に改めて紹介されると、観覧の一般客からも黄色い声が飛ぶ。
グループの衣装を着た『小犬沢彼方』は高身長であり、黄金比の顔とロングな黒髪のバランスも完璧。新雪のような肌も美麗に際立つ。
画面越しでも表情の一つ一つが他者の視線を惹きつけて止まない。
『カナタンは高校生のころから活躍してる印象があるけど、まだ二十四歳なんやねぇ』
『……えっ、そんなに老けてますか?』
『いやいや、それだけ大人っぽくなったってことよ! この間までやってたドラマでも主人公の恋敵役を熱演してねぇ~、あれがSNSで話題になったでしょ!? 僕もドラマを一気見したんですけど、すっかりハマっちゃってさぁ!』
『……ふふっ、ありがとうございます。こんなに多くの反響をいただけるとは思わなかったので……ドラマの制作に携わってくれた皆さんのおかげです』
控えめに笑う仕草も可愛らしく映える。
やけにカメラ目線も多いので、テレビの前のファンはドキッとしてしまうだろうな。
『さすがは東慶大卒アイドル! コメントまで優等生やねぇ~っ!』
『……それは関係ないですね。ワタシは東慶大をギリギリ卒業できた身なので、クイズ番組のインテリ枠に入れられると肩身が狭いです』
『それはしゃーない! アイドルとか役者の仕事が忙しすぎたんちゃうの?』
『……いいえ、飼ってる犬が可愛すぎて大学に行けなかったんですよ。家でお留守番をさせるのが心配なんです』
公開されたのは飼い犬と一緒に写る自撮り。
あざといが……その小型犬より小犬沢彼方のほうが遥かに愛らしいぞ。
カナタンという愛称で呼ばれた小犬沢彼方は清楚な喋りかたをしつつ、聡明な印象とのギャップや自虐も交えることで身近な親しみやすさも感じさせた。
個人的に番組自体は突出した魅力に欠けると思う。
彼女が生まれ持つ目力や澄んだ声音、僅かに変化する可憐な表情。それらが視聴者を優しく抱擁し、チャンネルを変えさせてくれないのだ。
いつの間にかテレビに……いや、小犬沢彼方の挙動に見入っていたが、
ピーンポーン!
やかましい電子音が鳴り、ドアホンのランプが赤く点灯した。どうやら来客が社員寮の玄関に来たらしく、俺の部屋番号宛てにインターホンを鳴らしたのだろう。
『――こんちはー、デリバリーイーツでーす。開けてくださーい』
うっかり忘れかけていた。頼んでいた料理が到着したらしい。
古い型のドアホンなので液晶画面はないものの、配達員の声は若い女性……というか、この怠そうな声音はどこかで聞いた覚えのあるような……?
オートロックを解除し、数十秒後。
「こんちゃーす! 注文の品をお届けに参りました~っ!」
うるさいうえに礼儀知らずのバカっぽい声!
内廊下に響き渡る声量と共にドアを何度もノックしてきた配達員を鎮めるべく、俺は慌てながらドアを半開きにした。
「うわっ、やっぱりノラ子じゃん……」
「んにゃっ? 誰かと思えば大野さん! わたしのコンビニにめっちゃ近いとこに住んでたんですねーっ!」
元気で騒がしい配達員はもしかしなくてもノラ子。
行きつけのコンビニでバイトをしている女子高生だった。
「マジで野良猫みたいにどこにでも現れるんだな、お前……」
「日曜でもせっせと働いてる女子高生を野良猫扱いしないでくださーい。あとノラ子って呼びかたも認めてませんからやめてくださいよーっ! ねこ! ひら! もも! こ!」
「やかましいっつってんだろ。お前のバカ声で他の社員からクレームきたら面倒なんだよ」
「細かいことをグチグチとうるさいですねぇ。はいはい、わっかりましたぁ~♪」
わかってねえな、こいつ。
「こちとらバイト中なんで寂しい社畜眼鏡くんと仲良く遊んでるヒマはないんですよぉ。ほいっ、ご注文のカレーでーす。熱いのでお気をつけくださーい」
ふわふわと軽いノリの雑な接客はさておき、ノラ子は配達用のバッグからカレーの容器を取り出して俺に手渡す。
クーポンを使用したため初回の代金は無料だった。
「中身が零れてたりしてないだろうな?」
「クレーマーですかぁ? こう見えても料理を運んで二年目のベテランなんですから!」
「コンビニは?」
「コンビニは高校入ってからすぐなんで~三年目くらいですかねぇ」
「チャラそうなわりにめっちゃ働いてるじゃん」
「人を見た目で判断する偏見まみれの大人にはなりたくないですなぁ」
「パパ活で小遣い稼ぎそうな顔してる」
「パパ~、わたしとお喋りしたから五千円くーださい♪」
「さっさと帰れ」
「この眼鏡野郎、ケチくさっ! こんな貧乏人はこっちから願い下げですわ!」
「貧乏人って決めつけてんじゃねぇ」
「毛玉だらけのダサいスウェット着てるじゃないですかーっ!」
「服に金を使うのが勿体ないだけだ。そのぶん貯金してんだよ」
「そのインテリ顔の通りでつまんねぇ人間ですなぁ」
「人を見た目で判断するのはよくないぞ」
得意げに胸を張ったり肩を竦めたりするノラ子は、相変わらず感情のレパートリーが豊富だった。
「……というか、今気づいたけどお前だって体操着じゃねえか! しかも高校の名前が上着にちゃんと刺繍されてるやつ!」
「あはは~、バレました? ウチの高校の体操着は割とお洒落なデザインなので、ぱっと見だと普通のジャージに見えるんですよー」
「高校の体操着でバイトやってるやつが、よく俺の寝間着をバカにできたな」
「だぁって~配達は動きやすい服装のほうが良いってネットに書いてありましたし~、普段は運動なんてしないからスポーツウェアも持ってないですし~」
「ウェアなんて今どき数千円で売ってるじゃん」
「ファッション、コスメ、ソシャゲ、放課後の友情……今どきの女子高生はたくさんお金がかかるんですよぉ。青春から卒業した社畜おじさんにはわからないっかな~?」
小ばかにした言いかたが腹立つ~。
「だったら靴くらい買い替えろよ……それ、何年履いてんだ?」
私物と思われるノラ子の靴は擦り傷が目立ち、表面の糸も解れたりしていた。
「バイトで履く用の靴なので別にボロくてもいいかなって。スニーカーなんて靴底に穴が開いてなければいつまでも履けません?」
「ちょっとわかる」
「雨の日に足が浸水したら買い替え時ですよねぇ」
「思考回路が俺と同じじゃん」
「わーい、同じ信念を持つ者! もっと嬉しそうな顔しましょう?」
「お前と同じとか全然嬉しくないもんな」
「あははー、こっちの台詞ですけどー」
変なところで意気投合してしまった。
「……話を聞いた感じだと大野さんは貯金が趣味ですよねー?」
「なんだよ、突然……」
「別に~? ショコラ製菓の社員で寮暮らしだったら、たんまりとお金を持ってそうだなぁ~と思っただけです!」
「コンビニとか会社の食堂くらいしか金の使い道はないけどさ」
「ふーん、ふーん。なるほどォ。たくさんお金を持ってるってことですね?」
にんまりと口元を緩めるノラ子。
「たくさんは持ってないが、新卒三年目にしては頑張ってるほうだ」
「へえ~、欲しいものでもあるんですかぁ?」
「いつか実家の両親に家を建てる。ウチは貧乏で家がボロいんだよ」
「はあ……! 孝行息子やぁ……! わたしもそんな息子が欲しいです……!」
ワザとらしく感動されるが、俺よりも若い女子高生が何言ってんだろな。
「彼女さんとの将来も考えてたりします?」
「まあ……いつかは結婚したいな。お互いに今年で二十五歳だし、真面目に考え始めてもいい年齢になってきたかなーとは思うけど、まだいろいろ現実的じゃない」
「なるほど~、それじゃあ貯金をしておかないと結婚生活が心配ですな!」
俺の貯金趣味を念入りに確認される。
こんな話、女子高生にはおもしろくないだろうが。
「……いやいや、社畜の大野さんと呑気にお喋りしてる場合じゃない! 次の配達に行かなきゃいけないんですよ お喋りしすぎて忘れてたーっていうか、はっはっは!」
「へらへら笑ってないで早くお客様のもとに行け」
「正義のバイトJK・猫平桃子! お仕事に戻りまーす!」
慌てながら配達バッグを背負ったノラ子は小走りで立ち去ろうとしたが、内廊下の突き当たりでこちらへ振り向く。
「大野さんは明日からまた仕事ですかー?」
「ああ、そうだよ」
「疲れたな~って思ったらいつでも会いに来てください! お喋りして気分を紛らわすことならできますので!」
「ばーか。さっさとバイトに戻れ」
意地悪に微笑んだノラ子は再び走り出し、そのまま階段を下りていった。
「忙しないやつ……」
十七歳の高校生に気遣われた。生意気にも心配してくれたのだろうか。
玄関の姿見に映った自分の姿。
一ヵ月前よりも肌荒れが増え、心なしか瞳も濁り、目元にクマも浮き出ている。
「……心配されないようにしないとな」
あいつの元気をお裾分けされたらしい。
ほんの少しだけど〝明日も頑張ろう〟って思えた。