第一章 どこにでも現れる野良猫みたいな その3

 テレビの前に戻ると、小犬沢彼方がハンバーガーを大げさに頬張っていた。

 大手ファストフード店の新商品CMに抜擢されたらしい。

 備え付けのベッドに腰掛けた俺は、すっかり冷めたカレーを一口食べてみたが……不味くはないものの突出した要素に欠ける味だった。

『続いては芸能人の私物紹介コーナーということでね! カナタンはなにそれ? 傘?』

『……折り畳み傘です。すごく気に入っているお守りみたいなもので、常にバッグに入れて持ち歩いてます』

『可愛いデザイン! 雨の日にそれを差してるカナタンを見てみたい~っ!』

 CMが明け、を持ちながら共演者と楽しそうにトークをする小犬沢彼方の声が子守歌となり、垂れ下がってきた瞼がゆるりと瞳を覆った。

 …………

 ……んっ!?

 耳が拾う小気味いい音楽。

 黒い世界に浸っていた意識が急激に戻され、身体が活動を再開させていく。

 朝飯のあと、いつの間にか眠っていたらしい。

 スマホの着信音に叩き起こされ、寝ぼけた思考のまま通話アイコンに触れる。

「うーん……凛藤主査……? もしかして……今から出社しろって話ですか……?」

 最近の着信履歴は、ほぼ凛藤主査との業務連絡。

 横たわっていた脳が完全に働いていないのも相まって、画面に表示された名前を見ずに凛藤主査だと決めつけて応対した。

『――……そう、待ってる』

「日曜ですよぉ……勘弁してください……」

『――……今すぐ会いたい』

「土曜に起きた包装機の光電管トラブルは技術班に調整してもらって……修理中に横取りしたぶんの流し込みもパートさんにやってもらってます……」

『――……寝言でも仕事の話。すっかり社畜だ』

「すみません……勉強しときます……」

『――……ワタシに会いに来てくれない? 落胆。そんなイッチーは嫌い』

「はいはい、わかりました……休日出勤手当はちゃんともらいま……す?」

 半分寝たような状態だったので違和感に今さら気づく。

 イッチー? あだ名で呼んでくるほど凛藤主査は馴れ馴れしくはないうえ、声質も喋りかたも冷静に考えると結構違う。いや、だいぶ違う。

 ようやく完全に目が覚めた。

「お前ぇ……俺をからかって遊ぶなよ……」

『――……の声がすぐにわからないのはショック。悲しみ。泣いた』

 耳に馴染みすぎている声。

 もはやスマホ画面で相手の名前を確認する必要がない。

「絶対泣いてねーだろ……寝起きじゃなかったらすぐに気づいてたよ……」

『――……ごめん、仕事で疲れてたよね。反省する』

「いや、起こしてくれて助かった。貴重な休日に夜まで寝たら一日が無駄になる」

 まだ日は暮れておらず、傾いてきた射光は夕方の色合い。

 六時間くらいは寝てしまったが、そのおかげで倦怠感はだいぶ和らいだ。

『――……イッチーと話すの、久しぶりな気がする。気のせい?』

「気のせいじゃない。三月は引き継ぎや引っ越しでバタバタしてたし、今月からは工場での三交代で生活リズムが乱れてたから……」

『――……お互いの予定が合わなかった。イッチーも忙しかったよね』

「むしろお前のほうが忙しいだろ。特に日曜はライブやイベントも多いんじゃないか?」

『――……そうだけど、彼氏に電話する時間くらいはある。でも――』

 俺の彼女はあまり声音を変えずに淡々と話していたが、

『――……イッチーとの電話はたくさん喋りたいことがあって長電話になりがち。イッチーの貴重な休みなのに疲れさせちゃうんじゃないかって……ちょっと思った』

 俺だけが悟る僅かな感情の変化。

 彼女なりの遠慮や申し訳なさのような思いが電話口の声に滲んでいた。

「お前ってそんなに気を遣える性格だった?」

『――……イッチーにだけ。彼女、だから』

 ああ……顔が見えない電話でよかった。

 ふいに垣間見えたデレが嬉しすぎて、頬がだらしなく吊り上がっている。

 沸き上がる高揚に包まれ、一週間の疲労が完全に消え去ってしまった。

『――……イッチーのほうからもっと電話をしてくれれば解決?』

「留守電にしか繋がらないのが目に見える」

『――……ワタシとイッチー、スケジュールとか生活リズムが違いすぎる。二人揃って不在着信の入れ違い地獄にハマる。大人の遠距離恋愛は大変。痛感した今日このごろ』

「遠距離? 西武新宿線の急行なら一時間もかからないだろ」

 ほぼ同時にくすくすと笑い合う。

 その直後、なぜか数秒ほどの沈黙が訪れ、

『――……着いた』

 そう静かな一言が聞こえた。

「着いた? どこに?」

『――……マック、ぎょうざの満洲、ドトール、いなげや』

 唐突に店の名前を羅列し始めた彼女。

 ……心当たりがある。

 心拍数が顕著に上がり、静まり返っていた部屋に自分の息遣いが木霊した。

「えっ? 冗談だろ……?」

『――……さあ、どうでしょう』

 含みを持たせて通話を切りやがった!

 彼女が呟いたチェーン店は社員寮から徒歩五分以内に行ける範囲。

 最寄り駅のロータリー周辺にすべて揃っている。

 内心では半信半疑。

 だが僅かな期待が行動を促し、毛玉だらけのスウェットから安物の私服へと高速で着替え、都会とは程遠い地味な景観の駅前へと駆け出す。

 右肩上がりの高揚が足を軽やかに前進させる原動力になっていく。

 日曜の夕方。

 人通りは多くないものの、北口ロータリーの周囲にそれらしき人はいない。

 駅前のマック付近で足を止め、彼女に電話を掛けた。

「騙された」

『――……騙してない』

「駅前にいないじゃん」

『――……着いた、って言っただけ』

 向こうは冗談のつもりだったのに、俺は勘違いしてしまったらしい。

 はやる気持ちが抑えきれなかったのだろう。

『――……ほう。そんなに会いたかった、ってこと?』

「ノーコメント」

『――……素直になろう。彼女に会いたかったんだ?』

「春のてりたまが食べたかっただけだ。お前を探したのはそのついで」

『――……てりたまのために頑張って走ってきた? かわいい腹ペコくん。ちなみに春のてりたま、もう期間終了してる。ざんねん賞』

 くっそ……独特の間で喋る俺の彼女が声をちょっぴり弾ませている。

 電話の向こうでは得意げな顔をしているに違いない。

『――……それくらい、イッチーはワタシのことが好き』

「いや、お前のほうが俺のことを好きなんだろ」

『――……イッチーのほうがワタシに惚れまくってる』

「お前から告白してきたんだけどな」

『――……記憶のねつ造はよくない。イッチーから告ってきた』

 心の底からどうでもいい言い合いが始まった。どちらも意地になって譲歩せず、俺に至ってはスマホ片手に駅前で突っ立っていたのだが、

『――……はっきりさせよ。どっちのほうが相手を好きなのか』

 やや声音を低くした彼女が、ほんの少しだけ嬉しそうに囁く。

『――……その服、高校の時から着てる。そのスニーカーも六年くらい履いてる。彼女に会うときは寝ぐせを直したほうがいい』

「寝起きに急いで来たんだから仕方ないだろ……って、はっ?」

 相手の容赦ない指摘は、この場にいない者としては違和感が凄い。

 まるで物言いだったから。

『――……ふむ。すぐに会いたいって気持ちが先走ってる証拠だよね、イッチー』

 電話越しの声が二重に聞こえた。

 いや、すぐ背後からも同じ台詞が届いた――


「……そんな素直じゃないイッチーが、なによりも可愛い」


 ふいに後ろから抱き締められ、心地よい温もりに包まれる。

 二人の身体がゼロ距離で触れ合い、人肌の感触が衣服越しに伝わる。

「……だーれだ」

 だるーい絡みを仕掛けてくる。

「急に抱き着いてきた見知らぬ痴女かな」

「……おい」

 いだだっ……ジョークがお気に召さなかったらしく、俺をハグしていた両腕の力が強くなる。肋骨がへし折られそう。

「さすがに声でわかる。ちなみに俺を〝イッチー〟って呼ぶような変わり者はこの世で一人だけだ」

 抱き着く力が弱まった。

 正体を当てられ、ご機嫌になっている証拠だ。

「……友達、一人もいないもんね」

「やかましいんだよ。友達なんて一人もいらん」

「……イッチーを好きになるのは世界でただ一人、ワタシくらい」

「それは言いすぎだろ」

「……変えようがない事実。ワタシが変わり者でよかったね。嬉しいね」

「俺を好きになってくれ、なんて頼んでないし嬉しくもない」

「……素直じゃない。そんなイッチーが可愛いね、素敵だね」

 耳元で笑い声を漏らした後ろの女性がもっと密着してきた。

「やめろよ……」

「……どうして? イチャイチャするのが楽しいのに」

「恥ずかしい……」

「……恥ずかしがりやだね、イッチー」

 後ろから頬をぷにぷにと突かれる。

 相手の表情がほとんど窺えない状態だったが、心地よいバックハグから解き放たれ、ようやく正面から見据えられた。

 突然現れた俺の……これ以上のサプライズはない。

「……イッチー、久しぶり。去年のクリスマス以来の再会」

「ごめん。やっぱり誰ですか?」

「……彼氏失格」

 大きな瞳をジトっとさせる彼女は不満げな様子で。

 誰かわからないイジリをする理由はただ一つ。

 目の前の彼女は『公の舞台』とは異なる二つ結びの髪型にして、プライベート用の帽子と眼鏡を着用し、鼻先から口元をマスクですっぽりと覆っているせいだ。

「……ワタシが巧妙に変装していてもイッチーだけは一瞬で見破るべき」

「地味で目立たないけどもしかしたら可愛いんじゃね? っていう系のインドア女子大生にしか見えない」

「……ふむ。170センチ近いスレンダーなモデル体型、透き通るくらいの美肌、ケアを欠かさないサラサラの髪……勝手に滲み出る最高峰の美しさで気づけるはず」

「無茶言うな。あと自画自賛すんな」

 彼女は不満らしく、マスクに隠れた頬の部分が膨らんだ。

 頬を膨らませて遺憾の意を表すという古典的な怒りかたをしているらしい。

「……こういう怒りっぽい彼女も可愛い?」

「怒ってる顔が見えないから可愛くない」

「……いつも素直じゃない。そういうところがイッチーの可愛さ。好きなところの一つ」

「こういう性格なんだよ」

「……知ってる。イッチーは恥ずかしがりや。ワタシとしか付き合ったことがない恋愛初心者」

 その通りすぎて何も言い返せねえ……!

 たじたじの彼氏を見て満足したのか、彼女がマスク越しでも口角を上げているのがなんとなくわかる。

 本当は可愛らしいと思っているが、気恥ずかしさから誤魔化してしまう。

 彼女が喜んでくれるような甘い言葉は咄嗟に返せず、一方的に「可愛い」とか「好き」と言われ続けていた。

 彼女は周辺をきょろきょろと見回し、一時的に駅前の人通りが途切れたのを確認したかと思いきや……一瞬だけマスクを下にズラし、顔を至近距離に寄せてきて――


「……が会いに来たんだよ。幸せ者だ、イッチーは」


 俺だけに聞こえる声量で呟き、艶やかに微笑む。

 ネットやテレビで毎日のように見る顔が目の前に現れ、鼓膜を通じてファンを魅了する唯一無二の声で俺だけに語り掛けてくれる。

 すぐ側にあるファストフード店のガラスに吊るされたタペストリー。

 春の新商品を宣伝するCMキャラクターとしてアイドルの写真が大きく掲載されているのだが、服装は違えどそれと同じ顔の人間がここにいる。

 昨年末の紅白にも出場したアイドルグループ・Rea☆lize19。

 虚言でも妄想でもない。

 国民的アイドルグループのセンターである小犬沢彼方は、正真正銘の彼女だ。

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