第一章 二つの記憶 その1
目が覚めたのは自分のベッドの中だった。
記憶の飛びように、一瞬何が起こっているのか分からなかったが、頭に包帯が巻かれているのを確認し、自分が階段から落ちた結果、気を失って寝ていたのだと推察した。
しかし問題とすべきはそこではなかった。
見慣れているはずの自分の部屋が全く違う風に映るのだ。十六年もこの場所で寝起きしてきたにもかかわらず、まるで他人の部屋かのようだった。
まず部屋を眺め見て、家電製品の類が一切ないことに違和感を覚える。電灯もない。テレビもない。クーラーもない。パソコンもスマホもゲーム機も何もない。あるのは古めかしい木製の調度品と、コンセントの繋がっていないランプがあるのみだ。
今までそんなところに違和感を覚えたことなどないはずなのに。
「……ところで、俺はどのくらい寝てた……?」
俺はそう呟いて窓の外を見やる。
ガラスの向こうには朝焼けの、淡い赤黄色の空が覗いていた。
「階段から落ちたのが、確か朝食を食べ終えてすぐのはず。つまり、少なくとも丸一日近く寝ていたことになる訳か……」
――――ガチャリ。
そんな風に状況の推測を行っていたところへ、思考を打ち切るように部屋の扉が開かれた。
隙間からメイド服の女の子が心配げな顔を覗かせている。
「あっ、お、お目覚めになられましたか……、ロニー様……」
たどたどしい口調で部屋に入ってきたのは、茶髪で頬のそばかすが特徴的な十三、四歳ほどのメイド服の少女である。
「カーラか」
彼女は不出来な長男に対しても丁寧に対応してくれる数少ない使用人だ。働き始めて間もないという部分が大きいのかもしれないが。
「も、もう起きて大丈夫なのでしょうか。頭は、痛くはありませんか? あ、あの、血がすごい出ていて、階段が、それはもう大変なことに……」
「ん……、ああ、痛みはするが傷は深くはないようだ。問題ない」
「そ、そうですか……、それなら、あの、えっと、よかったです……」
カーラはそう言いながら、恐る恐るといった風に俺へと近寄る。右手には汚れを拭くための布と、替えの包帯が用意されていた。
「どのくらい寝ていたんだろうか」
「へっ? 何がですか? カーラがですか? カーラはぴったり八時間睡眠で……」
「お前の睡眠時間は聞いてない……。階段から落ちて、俺はどのくらい寝ていた?」
「はっ、失礼しま――――……。お、おれ……?」
カーラは俺の質問の途中で、妙なところに反応して首をかしげる。
ああそうか、これまで一人称は【僕】だったのか。
しかし今更自分の事を【僕】と呼ぶ気にはなれないので、訂正せずにおく。
「えーと、あの、そうですね……。ロニー様は三日くらい、ずっと目を覚まされる様子がなく、眠っておられたかと……」
「三日もか……。どうりで腹が減っているわけだな」
「は、そうですよね。今すぐ何かご用意いたします。しょ、食欲はありますでしょうか。サンドイッチでいいですか?」
「……有り難いが、その前に包帯だけ替えて貰ってもいいか」
「そ、そ、そうでした。失礼いたしました。すぐ取り替えますですっ」
「頼む」
カーラはあわあわとせわしない様子で、俺の頭の包帯に手をかけた。
髪の毛を引っ張られるような感覚とともに、ペリペリと乾いた血の音がした。
「…………」
しかし三日も寝ていたとは驚きだ。視界がブラックアウトした次の瞬間にはここにいたという印象なのに、実時間では七十時間も経過しているらしい。
俺は包帯を取り替えてもらいながら、右手のひらを開いたり閉じたりしてみた。さしあたって痛みや痺れは感じられない。
すると唯一にして最大の変調はやはり、この不可解な記憶の混濁――、ということになる。
頭を強打したことによる脳震盪、および失神。
それが引き金となって、この現象を引き起こしたことはほぼ間違いない。
俺は元々、前世の記憶などという不確かな都市伝説を信じてはいなかったが、事がこうなると否が応でも受け入れざるを得ないだろう。
今の俺は十六歳の少年、【ロニー・F・ナラザリオ】であると同時に、二十八歳物理学者【
【山田陽一】としての二十八年分の記憶を鮮明に思い出すことができ、かつての両親の名前、通っていた小学校、浪人して合格した大学、そしていつどこでどうして死んだかも思い出すことができる。
これが偽りの記憶や、気のせいだとは信じられない。
にもかかわらず。【ロニー・F・ナラザリオ】として生きてきた十六年間も事実としてあるのだ。例えるなら、世界が二重に見えているような不思議な感覚。
――まったくもってオカルトだ。
だが、自分の身に起きているとなれば、否定をしようにも本能がそれを許さない。
何かこの現象に論理的な説明を行うことができるだろうか……。
「はい、終わりました。ど、どうですか、きつかったりしませんか?」
いつの間にか包帯を巻き終えたカーラが顔を覗き込んでくる。
「いや、問題ない。ありがとう」
「見た限りですが、血も止まっているようなので……、もう少し傷がふさがったらお風呂に入られてもよろしいかと思います」
「……ああ、すまない。少しにおったか。自分で付け替えればよかったな」
「い、いえいえ! そういう意味で言ったのでは……! …………………………えっと、あ、あ、あの、ロニー様……?」
「ん?」
「ほ、本当に、何ともありませんか? 頭をしたたかに打たれたのです。傷はふさがっても、他に何か悪影響が残っているやも……」
「……俺は、何かおかしく見えるか?」
「いっ、えっと、あの、何と言いますか……、いつものロニー様と少し雰囲気が違うように見えたもので……。す、すみません、決して変な意味で言っているのではなくてですね……」
汗をかきながらする必要のない弁明を行うカーラ。
俺は思わず笑いをこぼしながら、膝の上の毛布を取り起き上がった。
「心配するな、問題ない。ところで――」
「?」
不意に俺が立ち上がったのを見て、カーラは驚いた顔をする。
「こんなダメ息子でも、お父様に一応なり無事を報告せねばならないだろう。今はどちらにいらっしゃる?」
〇
コンコン、というノックをするとしばしの沈黙ののちに「入れ」という低く短い返事が返ってくる。
「失礼します」
扉を開けると、この世界におけるわが父――、ドーソン・F・ナラザリオが執務机に座っていた。ドーソンは一瞬だけ俺を見ると、すぐに手元の書類へ視線を戻す。
「…………怪我の具合はどうだ。随分と長く眠っていたようだが」
「おかげさまで、少し傷跡が残る程度で済みそうです。ご心配をおかけしました」
「……そうか、それは何よりだな。まがりなりにも当家の長男だ、万一のことがあってはまずい」
「ええ、以後このような事がない様に気を付けたいと思います」
「そうしてくれ。……それで?」
ドーソンは下を向いたまま問う。
「は?」
「用件は以上か? すまんが書類仕事が残っているのでな」
「……はい、ではこれで失礼いたします。お母様は何か言っておられましたか?」
「エリアか? もちろん心配していたとも。一緒に何度か部屋を覗いたのだがな、なかなか目を覚まさないと今もまだ気を揉んでいる事だろう。挨拶をしてくると良い」
「分かりました。では」
俺は短い挨拶を交わしたのちにドーソンの部屋を後にした。
扉が閉まる際に横目に父の様子を見る。彼はついに最後まで、手元の書類から目を上げることがなかった。
中庭に行くと、木陰のベンチに座る女性を見つけた。
母――、エリア・F・ナラザリオである。
「お母様、おくつろぎの所失礼いたします」
俺がやや離れた場所からそう声をかけると、母はこちらに気づき、帽子のつばを微かに持ち上げる。
「…………あら、ロニーではありませんか」
「ご心配をおかけしたとお父様からも聞きました。ですがこの通り無事に復調いたしましたので、そのご挨拶にと」
「まあまあ、そう畏まらないでいいのよ。あなたが無事なら私はそれでいいのだから」
「眠っている間に何度か足を運んでいただいたそうで、申し訳ありません」
「足を運んだ? ――ああ、そうね、大切な息子の事ですもの。心配するに決まってるじゃない。怪我は本当にもういいのかしら? もう少し安静にしていたら?」
「そうですね。まだ少し痛みますので、もうしばらく療養に努めたいと思います」
「そうするといいわ。何かあったらカーラに言いつけて。食事もしばらくは部屋で摂ると良いでしょう」
「お気遣い感謝いたします」
俺はそう一礼し、場を去ろうとする。
するとエリアが俺を呼びとめた。
「ねえ、ロニー」
「はい?」
「ヨハンちゃんを見かけなかったかしら。そろそろ授業の時間なんだけれど、まだ来ないの。家庭教師の先生ももうすぐいらっしゃる時間なのに」
「いえ、まだ見かけておりませんが……。見かけたら中庭でお母様が呼んでいると伝えておきましょうか」
「そうしてくれるかしら。来月には王都の高名な魔術師様が、ヨハンちゃんの噂を聞いてこの家に来てくれるそうなの。だから今のうちから練習しておかなくてはね。優秀すぎるあまり、勢いで魔術学校にスカウトされちゃうかも。そうしたらどうしましょう」
「そうなったら凄いことですね。でもお母様、魔術学校に通えるのは十六からですよ」
「そうね、ちょっと気が急いちゃったかしら。ともかく見かけたら早く来るように言ってちょうだい」
「ええ」
エリアはニコニコとしたまま、再び木陰のベンチへと戻った。
母は弟の話をするばかりで、十六歳という年齢を聞いても俺の誕生日を思い出すことはなかったようだ。
「――兄様!」
屋敷に入り自室へと引き返そうと階段を上った所で、頭上から俺を呼ぶ声がする。
「早速いたな、ヨハン」
「ついさっき兄様の部屋に顔を出したら、姿がなくて慌ててたとこなんだ!」
そう言いながら、十二歳になる我が弟が階段を駆け降りてくる。
「お父様とお母様に怪我の具合の報告をしていたんだ」
「てことは、もう大丈夫なの? 血がいっぱい出たって聞いたけど!」
「ああ、もう少し安静にしてたら傷も治るだろう」
「退屈だったんだよぉ、三日も眠ったままだから! 死んじゃったらどうしようかと思ったんだ!」
「……それは悪かったが、お前が退屈なはずはない。今ちょうど中庭でお母様がお前を呼んでいたぞ? もうすぐ家庭教師が来るんだろう?」
「えっ、もうそんな時間? やだなあ、面白くないんだもんあの先生」
「そう言うな。終わったらまた俺の部屋に来るといい」
「うん、そうする! じゃあ、ちゃっちゃと終わらせちゃうからね!」
「ああ、頑張れよ」
ヨハンは俺の手を握りブンブンと振った後、正面玄関へと降りて行った。
その背中を見て、俺は一つ思い出したように問いかける。
「そう言えばヨハン」
「ん、なに?」
「お父様とお母様は俺が寝ている間どんな様子だった?」
「どんな様子って…………。うーん、兄様のお見舞いに誘っても『今忙しい』としか言わなかったから、よく分かんないけど」
「…………そうか。ならいいんだ」
「?」
俺は父と母と弟、それぞれに挨拶を終えて自室へと戻ってきた。
ベッドのシーツがいつの間にか取り替えられている。もうすでに姿はないが、カーラがやってくれたのだろうと思われる。
「病み上がりで屋敷の中を歩き回ると、さすがに疲れるな」
俺はため息を漏らしながら、ベッドの端に腰かけた。
家族それぞれとの会話は短いものだったが、今の頭で改めて自身の立ち位置を確認できたという意味では、意義あるものだったと言えるだろう。
父と母は俺の意識が戻ったと聞いても、まるで興味がない様子だった。眠っている間に様子を見にきたというのもどうやら嘘で、本心から心配してくれたのは四歳下の弟、ヨハンだけのようである。
だがいまさらその事を、薄情だどうだと言うつもりはない。
ロニーという人間は十六年の間、幾度となく両親の期待を裏切り続けてきたのだ。何のとりえもない息子を勘当もせず、表面上でも心配する素振りを見せてくれるだけまだマシと言うべきだ。
加えて、今の俺はそんな肩身の狭さなど、どうでもいいと思うようになっていた。むしろヨハンのように習い事に追われることもなく自由に動き回れる時間がある事を、幸運だとさえ思っている。
――――今の俺にはやりたい事がある。
その為には、きっと時間と労力がかかるはずなのだ。
「し、失礼いたします」
背後の扉が再び開かれる。カーラがお盆に載ったサンドイッチと紅茶を持ってやってきたのだ。
「食事をお持ちしました」
「ありがとう、いいタイミングだったな」
「あ、はい、中庭からお屋敷に入られるのが見えましたので……」
「皿はそこの机に置いておいてくれ」
カーラは頷いて、言われた通りにする。
「食べたらまたお休みになられますか?」
「…………ああ、いや、ちょっと書庫に用があるんだ」
「しょ、書庫ですか? お暇でしたら、カーラが本を持ってきますが」
「大丈夫だ、多分言っても分から…………、待てよそうだな」
俺はそこまで言って、思いとどまる。
「どうせならまとめて本を持って来よう。大量にあるんだ、カーラも手伝ってくれるか」
「た、大量に本を……? もちろん、お手伝いいたしますが、でもどうしてそんなに本がいるんでしょう?」
「いずれ話す。今はとりあえず運ぶのを手伝ってくれさえすればいい」
「………………」
俺が再度そうお願いをするが、すぐに返事はない。カーラは顎に手を当てて、眉根を寄せている。
「……どうした?」
「いえ、本当に、いつものロニー様ではないようで…………。本当の本当に、怪我は大丈夫なのですよね?」
俺は心配げな表情を向けるカーラの頭にポンと手を置いた。
「本当の本当に、大丈夫だ。むしろ曇りが晴れたように頭がすっきりしているんだ」