第一章 二つの記憶 その2

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 俺は一人机に向かう。書庫から持ってきた本で机のほとんどが埋もれており、置ききれなかった分が床にまだ積んである。俺はカーラが持ってきてくれたサンドイッチを頬張りながら、まず一冊目の本に目を通した。

 文字が日本語ではないことに今更のように違和感を覚える。ただそれは日本人が英語の文章を理解できることと大した差はなかった。俺はペンを取り、情報を紙へと書き写していく。既に知っている事実でも構わない。今肝要なのは情報を整理することだ。


 この世界には大きく分けて三つの大陸がある。

 今俺がいるのはその中で最も小さな大陸にある国の一つ『マギア王国』である。

 地図を眺めて一旦考える。この世界の地図がどれほど高精度かは知らないが、地図の右端と左端はどうやら繋がりを持っているようだ。この世界においての記憶でも、本の記述でも、宇宙という概念はこの世界にはない。

 だが窓の外には太陽が照り、夜には星空が同じように見えていた事を考えれば、惑星という形を取って恒星の周りをまわっている可能性が高い。だがあくまで、可能性が高いにとどめておくべきだと思う。

 地球の歴史を鑑みても『天動説』が『地動説』へと移り変わるには多大な労力を要したし、世界が平らだと考えられていた時代もあった。そもそも世界線が違うのだから、別次元の概念で成り立った世界という事もありうる。

 着目すべきは、この世界も概ね二十四時間で一日がサイクルし、四季があり、晴れや雨があるという事実だろう。これは地球における物理法則が、この世界でも通用するという証左だ。重力があるので雨は地上に降って来る。雨が降って日光が差せば、熱エネルギーで水分が蒸発し空気中に反射して虹もかかる。俺がこうして呼吸ができているのは空気中に酸素があるからだろうし、という事は突き詰めれば原子と分子も存在する可能性が高い。科学技術が発展していないだけで、元の世界とこの世界の物理法則は非常に近しい――――、一旦そう仮定しても問題ないはずだ。

「ここまでを前提として、この世界で科学技術が発展しない唯一にして最大の原因が、これというわけだ」

 俺はそう言いながら、本の山からひと際分厚い一冊を引き抜いた。タイトルは『正・魔法歴史書』である。

 この世界は物理法則の他に、もう一つの要素【魔法】によって成り立っている。むしろ重きを置かれているのは圧倒的に【魔法】の方だ。この世界では誰もが魔法を扱うことができる――、そういう前提で全ての文化が形成されているのである。(俺のようにこんな年齢になっても一切の魔法が使えないような奴は、数十万人に一人だ)

 おかしな話だとは思うが、俺のような欠陥品の体の中にも【魔力】は流れているらしい。血液が流れていない人間がいないように、この世界の誰しもに当たり前に流れているのが【魔力】なのである。

 そしてこの書物曰く、それは人間にだけ流れているものではない。

【魔力】とは【精霊】が与えた万物の源――、ゆえに、動物、魚、植物にも魔力は流れているし、地面や水の中、空気中にさえ魔力は存在している。……これが果たして、この世界感独特のスピリチュアルな表現なのかどうかは判然としない。

 だが、この【魔力】というものを、仮に【素粒子の一つ】と仮定するとどうだろう。人間の中にも、動物の中にも、自然の中のどの物体にも、それは含まれている。そう考えれば俺にも理解ができるようになる。

 要はその未知の素粒子が、元の世界とこの世界の明確な違いであり、魔法という文化を生み出している原因であるのだ、と。

「だとしても、それが他の物理法則に干渉してくるというのは不思議だ。魔力というもの自体は火でも水でも電気でもない。それが個人の素質や意思によって大きく結果を変えるのは何故なのか――……」

「兄様、何やってるの?」

「うおっ!?」 

 唐突に横から声がしたので、俺は本を落としそうになる。

「ヨ、ヨハン、何だ随分早かったな」

「何言ってんの。前話してからもう五時間は経ってるよ? むしろいつもより長引いちゃったんだ」

 そう言われて窓の外へ目をやると、確かに夕日が山際へと差し掛かろうとしていた。

「いつの間にかそんなに経っていたのか……。にしても、ノックくらいしないと驚くだろう」

「したよぉ、何回も。……随分集中してたみたいだね、兄様」

「ああ、ちょっとな」

 ヨハンは「ふーん?」と言いながら、本の山を見上げた。

「……兄様って本とか読むタイプだっけ。しかもこんな大量に」

「しばらくは部屋で静養が必要なんだ。読書くらいしか時間を潰す方法がないだろう?」

「暇なら僕と遊べばいいのに」

「ヨハンは勉強や稽古で忙しいじゃないか。大丈夫、俺の事は心配するな」

 俺がそう言っても、ヨハンは納得しきれない風に首をひねった。

「…………んん、やっぱりなんか変だ。喋り方も、前の兄様と別人みたいだよ。自分の事も『俺』なんて呼んでなかったし、ノックにも気づかないくらい本にのめり込んでるのも初めて見た」

 ヨハンはそう怪しむような目を向けながら俺の周りをぐるぐると回り、体を指でつついてくる。

 一人称が変わればそりゃ違和感はあるだろうなと思うものの、ヨハン相手に前世の記憶が蘇ったなんて説明する訳にもいかない。

 俺が横腹をつつかれながら、どうしたものかとため息をついていると、ヨハンが不意に指を立てて、こんな事を聞いてきた。

「…………僕の好物を言ってみてよ」

 俺はすぐに意図を理解し、即答してみせる。

「街のパン屋のベーグルサンドだろ」

「僕と兄様で一番やった遊びは?」

「かくれんぼだな、次が宝探し」

「十日前にやったボードゲームの勝敗は?」

「俺の負けだ、通算三十七勝二百九十二敗目」

「僕がずっと飼いたいって言ってた動物は?」

「猫。毛がふさふさなやつ。お母様がアレルギーだから飼えないけどな」

「お父様には言えない、僕の最大の秘密は?」

「買ってもらった指輪をトイレに流して失くした事」

「正解だなあ……」

 ヨハンは腕組みをして唸る。

 当たり前だ。いくら出来の悪い兄だったとはいえ、ヨハンと過ごした十二年の月日が失われたわけではない。ただもう一つの記憶が蘇ったというだけなのだから。

「じゃあ本当に兄様なんだ」

「当たり前だ、見たら分かるだろ」

「でも明らかに雰囲気が違うんだよ。なんて言うんだろ、喋り方も爺くさくなってるし」

「爺……!? いやまあ、頭を強く打ったわけだし、数日意識も飛んでいたわけだから、そのあたりでまだ多少混乱を……」

「まあ兄様が兄様なら、僕は別にどっちでもいいんだけど」

「いいのかよ」

 そんな所で一応納得してくれたらしく、ヨハンは俺の隣に腰掛ける。

「それで? 何の本を読んでたの…………、うわ、すごい。メモがびっしりだ」

「いい機会だから魔法の歴史について復習してたんだ。これでなかなか目から鱗な情報もあってな、ほらこれとか――」

「………………」

 メモを指さしてヨハンに見せると、目線が紙ではなく俺に注がれていることに気付く。

「僕は別に、兄様が魔法を使えなくても兄様が好きだよ」

「ん? ……ああ」

 気を遣わせてしまったかと思い、俺は慌ててヨハンの頭を撫でた。

「違うぞ、ヨハン。俺は別に劣等感からこんな事をしてるわけじゃないんだ。せっかく時間が余っているんだから、単に魔法について勉強し直したいと思った。ただそれだけだ」

 俺が弁明するようにそう言っても、対するヨハンは無言で口をとがらせるだけだった。

 賢く優しい子だ、と思う。よくこうもまっすぐに育ったものだと感心する。出来そこないの兄と良くできた弟。これは世界を隔てても聞き飽きたような設定だ。

 両親から呆れられ、諦められ、いないものとして扱われている俺。

 両親から期待と愛情を掛けられ、それに応えて余りあるほどの才覚を示したヨハン。

 身体能力、頭脳、魔法能力、いずれをとっても俺が及ぶことは一つもない。普通に行けばもっと擦れた子に成長してもおかしくはなかった。実際に両親は、兄のようにだけはなるなと繰り返しヨハンに注意をしている。ヨハンの教育にあたって、俺は分かりやすく駄目な見本なのである。

 だけれどヨハンは決して俺を見下すことがなかった。あくまでも兄として慕い、接してくれている。魔法も使えない俺に、存在価値を見出してくれている。魔法が使えなくても好きだと言ってくれている。今までその言葉にどれだけ救われたか分からない。ヨハンがいなければ、俺はとっくのとうに逃げ出していた事だろう。

 両親はヨハンを跡取りにしたいと思っているはずだ。そして、俺もそれを心の底から願っている。だけれど生まれの順番はいかんともしがたく、そう簡単にはいかないからこんなにも悩ましい。

「わ、分かったから、もういいよ」

 ヨハンがいい加減恥ずかしそうに、頭を撫でていた俺の手を振り払う。

「ねえ、せっかく暇なら今度は僕と遊ぼうよ。何する? ボードゲーム?」

「そうだな。この本をもうちょっとキリのいいところまで読んだら……」

 俺はそう言いかけて、ふと思いつく。

 研究には実験が必要だ。だが実験するにも俺は魔法が扱えない。ならどうすればよいのか。その正解が今目の前にある。

 手伝ってもらえばいいのだ。

「なあヨハン、俺の勉強に付き合ってくれる気はないか?」

「え、何で!? やだよ、そんなの!!」

 即答かつ全力で拒否された。

「……成績いいくせに勉強嫌いなのは変わらないんだな、お前は」

「だって、ついさっきまでみっちり稽古だったんだよ? なのに何で今からまた勉強しなきゃいけないのさ!」

「いや、お前に勉強させようっていうんじゃない。ただ少し魔法を見せてほしいんだ」

「……魔法を兄様に見せる? どうして?」

 不思議そうに首をかしげるヨハンに、俺は机の上の本を手にとって見せた。

「本を読み直して分かった。この世界の本には【魔法の扱い方】は書いてあっても【魔法の発生原理】は書いてないんだ。まあ、誰もが生まれた時から使えるから当たり前なんだろうが、俺に言わせれば根本的な部分をすっ飛ばしてる。現にこの立派な本だって、精霊への感謝を抱き~とか、強く念じて前に飛ばし~とか、できるまで繰り返し~とか、抽象的な記述ばっかりだ。これは全く以て科学的ではない」

「………………カ、カガクテキ?」

「どうして魔法が何もないところから生まれるのか、どうして念じた通りの現象が起こるのか、まずはその原理を知るべきなんだ。原理を解明できれば、俺に魔法が扱えない理由も分かるかもしれない。正しいステップさえ踏めば、俺にだって魔法が使えるようになるかもしれない。科学とはそういうものだ」

「な、な、何言ってるかよく分からないけど……、に、兄様はやっぱり魔法が使えるようになりたいってこと?」

「うん? いや違うな。俺はただ魔法を解明したいだけだ。その結果、俺が魔法を使えないとしても、それもまた十分な研究結果じゃないか」

「ああダメだ、何言ってるか一個も分からない」

 ヨハンは妙にテンションの高い兄を見て怪訝そうな顔をした。だけれど、俺は知の喜びに打ち震えている。だって、この世界には誰も解明しようとしていない美味しそうな不思議現象がわんさか転がっている。ワクワクするなと言う方が無理な話ではないか。

「前までの俺はただできないと決めつけて諦めてた。でもその実、何も努力なんかしていなかったんだ。あえて言おう、今までの俺は愚かだったと。だがその十六年間の無念に、今の俺が報いてやる。魔法の方程式とやらを奴らにつきつけてやろうじゃないか」

 俺は笑みを浮かべ、空中で拳を握った。横のヨハンが呟く声が聞こえる。

「ほ、本当に頭打っておかしくなっちゃったんだ…………」

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