②
(……一回、空気を
ため息ばかりこぼした空間には、目に見えない重苦しいものが
ミコは
耳を
『……何をしているんだ?』
「っ!?」
目の前の光景──青年姿のジルが(なぜか
「ど、どうされたんですかジルさま?」
『……俺が来てはいけないか?』
「いえ、何もいけなくはありませんけど……」
いけなくはないが、おかしい。
だって、人間ひしめくここはジルにとって、好んで近寄りたい場所ではないはずだ。
実際に歩いてみたら、思いのほか人間の街は楽しかった! なんて、
(どうしたんだろう。何か忘れ物でもあったのかな?)
と、ミコが推察しているうちにジルは窓から室内に入り、持っていた紙袋をテーブルにのせた。中にはくるみのベーグルと、プレーンマフィンがいくつも入っている。
(あれ? これってわたしの好きな……)
「ジルさま、このパンたちは?」
『……ここに来る途中で、昨日会った丸っこいパン屋の男と火事の現場にいた陽に焼けた男から
「パン屋のおじさんたちが? なんでまた……?」
『言葉が理解できないから、俺にもよくわからない』
説明しながら、ジルは
『……ただ、
そう口にするジルの空気に、冷えたものはない。
(……そのときの様子、見てみたかったな)
現場にいなかったのでなんとも言えないけれど。
おそらくパン屋の主人たちは、ジルに何かしらのお
そしてジルはジルで彼らを
「ジルさまが人間のことをわかってくれて、よかったです!」
ミコはしぼんでいた気持ちを隠して、明るい
これほど落ち込んでいなければ、ジルの認識の変化をもっと喜べたかもしれないと思うと少し残念な気持ちだ。
『──目が
「え?」
『今日は太古の森に来なかっただろう。──誰かに泣かされたのか?』
ふいに、ジルのまっすぐな視線が
「ぜ、全然違います! ……実は昨日、小説を読んでいたら涙と手が止まらなくて……」
ミコは顔が暗く見えないように、大げさに笑って
『昨日、様子がおかしかったことが原因じゃないのか? ……もしかして俺が何かしたのか?』
「いいえ、本当に何もありませんから! 心配をおかけしてしまってすみません」
ごまかし笑いを
なんら悪くないジルにいらぬ心配をさせてしまったことは
落ち込んでいる身勝手な理由を、ジルには知られたくないから。
『……まったく』
それから
「ジル、さま……?」
『……似合わなすぎるんだよ』
あまりに強くてまっすぐなその視線と向き合うのは、後ろめたさを抱えた身ではしんどくて顔を
『ミコには噓が似合わない』
内なる
そんなものを受けたら、もう、とぼけることなんてできなくて──
「…………わ、たし」
「王太子に、お試しで、この世界に
「だけ、ど、昨日広場で、王都にいる
心音がどくどくと、嫌な音を立てていた。
「ジル、さまに、この期に及んで、こんなことを聞くのは、
『……
むやみに安易な期待を
(二百年以上生きているジルさまも知らないのなら……)
──元の世界には、もう帰れない。
タディアスからの話を聞いても、理性は
瞳からは
昨夜もたくさん泣いたのに、
(涙が、止まらない……)
瞳の燃えるような熱が、全身を
二度と家族や友人に会えない
(馬鹿だな、わたし……)
ミコは泣きながら胸中で
アンセルムの言葉をこれっぽっちも疑わなかった。言われたことをそのまま信じた自分はなんと単純で浅はかだったんだろう。
帰りたいというエゴにまみれた理由で、
(きっと、
「……別の場所での
『──始めは、ミコを面倒な
ジルの台詞に、ミコは反射的にびくっと震えた。
しかしどんな
けれど──
『だがミコは振られた無茶をへこたれることなくがんばった──俺を森から転居させたい理由が噓だと、なんとなく気づいていたしな』
(……え……)
『目的がなんであれ、ミコは森を大事に
かけられたジルの声の色は、心にまとわりつく
無意識に深くうつむいていたミコはそろそろと視線を上向かせる。
見上げてくるジルは、ミコに目を注いでいた。
『俺はここが生まれた場所で、ミコが帰りたいと思う気持ちに共感してやれない。それでも家族に会いたいという気持ちなら少しはわかってやれる。──もしまた会うための方法があるのなら、
──どうして、ジルさまは。
こんなにも、苦しい心を軽くしてくれるような優しい言葉をくれるのだろう。
なんのおもねりも
『自分を責めなくていいから、泣くな。……ミコに泣かれると落ち着かない』
やにわに視線を外したジルは、立ち上がりざまその大きな手を
(……頭、を?)
まるで初めて子犬を撫でる小さな子どもみたいにぎこちなく、
「ジ、ルさま、何をして……?」
『ソラはぐずっているとき、こうすると
「……え、はい。ちっとも……」
『……ならいい』
ジルは肩の力が抜けたように
予期せぬ事態に
(どうして、ジルさまはこんなことを……?)
ソラへもこうしているようなので、もしかしたらたいした意味はなく、単純に泣き止ますための手段を取っただけかもしれない。
ただ、ジルはミコへの加減を間違えないように並々ならぬ注意を
そのことだけは、置いた手の優しさから容易に察せられた。
(人間
だが不慣れな手つきからはこちらを傷つけるつもりがないと伝わるので、
でもそれ以上にジルの思いやりがとても嬉しくて、ミコは自然と笑った。
「
『……そんなことを言う人間はミコぐらいだ』
けれど、ジルは種族や
そのあたたかみのある気持ちは手のひらからひしひしと伝わってきて。
ジルの静かな優しさにくるまれていると、胸がいっぱいになってまた涙が出そうになる。
(……ごめんなさい。その優しさに、少しだけ甘えさせてください)
ミコは心の中で謝り、ぎこちない大きな手に頭をそっとすり寄せた。