4章 あなたのためにできること


(……一回、空気をえようかな)

 ため息ばかりこぼした空間には、目に見えない重苦しいものがよどんでいる気がする。

 ミコはおっくうそうに立って、ちょっとしたウッドデッキが設けられた東側の窓を開けた。今日初めて感じる外のしんせんな空気のさわやかさに、ミコは思わず深呼吸をする。

 耳をき過ぎていく、わずかな風の音のここよさにひたっていると──

『……何をしているんだ?』

「っ!?」

 目の前の光景──青年姿のジルが(なぜかかみぶくろを抱えて)窓の外に現れたことにびっくりしすぎて、ミコは飛び上がりそうになった。げんかく!?

 かくにんのためまぶたを強めにこすってみて、その姿が消えないことから現実だと受け入れる。

「ど、どうされたんですかジルさま?」

『……俺が来てはいけないか?』

「いえ、何もいけなくはありませんけど……」

 いけなくはないが、おかしい。

 だって、人間ひしめくここはジルにとって、好んで近寄りたい場所ではないはずだ。

 実際に歩いてみたら、思いのほか人間の街は楽しかった! なんて、かれたふんなどはなかったはずである。

(どうしたんだろう。何か忘れ物でもあったのかな?)

 と、ミコが推察しているうちにジルは窓から室内に入り、持っていた紙袋をテーブルにのせた。中にはくるみのベーグルと、プレーンマフィンがいくつも入っている。

(あれ? これってわたしの好きな……)

「ジルさま、このパンたちは?」

『……ここに来る途中で、昨日会った丸っこいパン屋の男と火事の現場にいた陽に焼けた男からわたされた』

「パン屋のおじさんたちが? なんでまた……?」

『言葉が理解できないから、俺にもよくわからない』

 説明しながら、ジルはだんの前の椅子にこしを下ろす。ミコも真向かいに座った。

『……ただ、あらあらしさのない顔つきからして、何かいい意味合いだったんだろう』

 そう口にするジルの空気に、冷えたものはない。

(……そのときの様子、見てみたかったな)

 現場にいなかったのでなんとも言えないけれど。

 おそらくパン屋の主人たちは、ジルに何かしらのおせっかいを焼いたのだ。

 そしてジルはジルで彼らをはいすべき敵とみなさず、好意的な態度をおろそかにすることなく受け取った。

「ジルさまが人間のことをわかってくれて、よかったです!」

 ミコはしぼんでいた気持ちを隠して、明るいみを浮かべる。

 これほど落ち込んでいなければ、ジルの認識の変化をもっと喜べたかもしれないと思うと少し残念な気持ちだ。

『──目がれているな』

「え?」

『今日は太古の森に来なかっただろう。──誰かに泣かされたのか?』

 ふいに、ジルのまっすぐな視線がさった。

 れられたわけでもないのに、まるでらえられているような心地になる。

「ぜ、全然違います! ……実は昨日、小説を読んでいたら涙と手が止まらなくて……」

 ミコは顔が暗く見えないように、大げさに笑ってうそぶく。

『昨日、様子がおかしかったことが原因じゃないのか? ……もしかして俺が何かしたのか?』

「いいえ、本当に何もありませんから! 心配をおかけしてしまってすみません」

 ごまかし笑いをつくろったまま、しっかりしろ自分とミコは己を律した。

 なんら悪くないジルにいらぬ心配をさせてしまったことはつうこんきわみだが、これは絶対に隠しておかなければならない。

 落ち込んでいる身勝手な理由を、ジルには知られたくないから。

『……まったく』

 かたをすくめるなり腰を上げたジルはその足で、ミコの真横に立った。

 それからごういんにもミコを椅子ごと自分の真正面に向ける。

 じゅうたんひざをつくジルが下からのぞき込んでくるものだから、だんとの立ち位置の違いにみょうあせりを覚えた。

「ジル、さま……?」

『……似合わなすぎるんだよ』

 しんな光をたたえたふかむらさきの瞳が、こちらをじっとのぞんでくる。ミコは息をんだ。

 あまりに強くてまっすぐなその視線と向き合うのは、後ろめたさを抱えた身ではしんどくて顔をそむけたいのに、ジルの瞳に捕らわれてしまってどうだにできない。

『ミコには噓が似合わない』

 内なるしんえんかすかのようなまなざしと、うったえかける台詞せりふとどめだった。

 そんなものを受けたら、もう、とぼけることなんてできなくて──

「…………わ、たし」

 躊躇ためらいがちに、ミコは重い口を開いた。

「王太子に、お試しで、この世界にばれて。……太古の森で、せきさいくつをしたいから、ぬしを、この能力を使って説得して、転居させることができれば、元の世界に帰してやるって、言われて。……家族に、もう、会えなくなるのは絶対に、嫌で。それで使いとして、ジルさまのところに、行ったんです」

 とつとつと語るミコはげてくる涙をこらえて、ふるえるくちびるみしめる。

 のどめ上げられたみたいに、息がうまくできなくなった。

「だけ、ど、昨日広場で、王都にいるが元の世界に、帰る方法はないって話しているのを、聞いてしまって……別の人にも確かめたけど、やっぱり元の世界に、帰る方法は、ないって……わたし、帰れるって当たり前に、信じてて……」

 しゃべるごとに呼吸が苦しくなる。

 心音がどくどくと、嫌な音を立てていた。

「ジル、さまに、この期に及んで、こんなことを聞くのは、ずうずうしいってわかっているんですが……何か、知っていることがあるなら、教えてください……」

 もくして耳をかたむけていたジルは一度めいもくしてから告げる。

『……しょうかんしきが存在することは知っていた。──だが俺は帰る方法については、見たことも聞いたこともない』

 むやみに安易な期待をいだかせない誠実な返事であり、この上ない決定打だった。

(二百年以上生きているジルさまも知らないのなら……)

 ──元の世界には、もう帰れない。

 タディアスからの話を聞いても、理性はみちを残すようにどこかでまだきょぜつしていた。それが今度こそ本当に可能性をたれて、かつてない失意がミコをおそう。

 瞳からはおおつぶの涙がせきを切ったように流れ出した。

 昨夜もたくさん泣いたのに、ぬぐっても拭っても、涙はこんこんと湧き出てくる。

(涙が、止まらない……)

 瞳の燃えるような熱が、全身をしんしょくしていくかのようだ。

 二度と家族や友人に会えないさびしさとつらさがき上げるこの胸の痛みは、のほほんと生きてきた身には覚えのないするどさで、どうしたらいいのかわからない。

(馬鹿だな、わたし……)

 ミコは泣きながら胸中でちょうする。

 アンセルムの言葉をこれっぽっちも疑わなかった。言われたことをそのまま信じた自分はなんと単純で浅はかだったんだろう。

 帰りたいというエゴにまみれた理由で、やさしいジルを転居させようとしてしまった。

 あふれたこの世界のこと。どこかに創造の神というものが実存していてもおかしくはない。

(きっと、ばちがあたったんだ……)

「……別の場所でのみつりょうの話も、作り話なんです。……身勝手な真似をしてごめんなさい、ジルさま」

『──始めは、ミコを面倒なやつだと思っていた』

 ジルの台詞に、ミコは反射的にびくっと震えた。

 しかしどんなうらごとをぶつけられても、それはすべて自分のせいなのだから受け入れるべきだ。ミコはかくを決めて膝の上にある手を握りしめる。

 けれど──

『だがミコは振られた無茶をへこたれることなくがんばった──俺を森から転居させたい理由が噓だと、なんとなく気づいていたしな』

(……え……)

『目的がなんであれ、ミコは森を大事にあつかい、森にむ生き物たちを守ったんだ。そんなミコを身勝手だとは思わない』

 かけられたジルの声の色は、心にまとわりつくくらやみかしてしまいそうなほどにやわらかいものだった。

 無意識に深くうつむいていたミコはそろそろと視線を上向かせる。

 見上げてくるジルは、ミコに目を注いでいた。

『俺はここが生まれた場所で、ミコが帰りたいと思う気持ちに共感してやれない。それでも家族に会いたいという気持ちなら少しはわかってやれる。──もしまた会うための方法があるのなら、すがりたいと思うのが当然だ』

 ──どうして、ジルさまは。

 こんなにも、苦しい心を軽くしてくれるような優しい言葉をくれるのだろう。

 なんのおもねりもてらいもないから、水のようにすんなりと、胸の内側にみ込んでいく。

『自分を責めなくていいから、泣くな。……ミコに泣かれると落ち着かない』

 やにわに視線を外したジルは、立ち上がりざまその大きな手をばしてきて──

(……頭、を?)

 でられている。

 まるで初めて子犬を撫でる小さな子どもみたいにぎこちなく、しんちょうな手つきで。

「ジ、ルさま、何をして……?」

『ソラはぐずっているとき、こうするとむ。……痛く、ないか?』

「……え、はい。ちっとも……」

『……ならいい』

 ジルは肩の力が抜けたようにつぶやいて、『これは?』といちいちうかがいながら、ミコを撫でる手の力加減をさぐるようにして、じょじょに変えていく。

 予期せぬ事態にほうけるミコの瞳からは、涙がすっかり引っ込んでいた。

(どうして、ジルさまはこんなことを……?)

 ソラへもこうしているようなので、もしかしたらたいした意味はなく、単純に泣き止ますための手段を取っただけかもしれない。

 ただ、ジルはミコへの加減を間違えないように並々ならぬ注意をはらっている。

 そのことだけは、置いた手の優しさから容易に察せられた。

(人間ぎらいのジルさまが、人間にこんな真似をしたことがあるとは思えない)

 だが不慣れな手つきからはこちらを傷つけるつもりがないと伝わるので、きょう感はない。それどころか、大きな手に包まれている感じにはあんさえ覚えた。

 おくられた言葉と手がくすぐったい。

 でもそれ以上にジルの思いやりがとても嬉しくて、ミコは自然と笑った。

はげましてくれて、ありがとうございます。……ジルさまは本当に優しいですね」

『……そんなことを言う人間はミコぐらいだ』

 たんせいぼうは表情の変化がけんちょではないため、感情のあくできない。

 けれど、ジルは種族やきょうぐうが違うからとあきらめるのではなく、わかることから考えてミコにおうとしてくれる。

 そのあたたかみのある気持ちは手のひらからひしひしと伝わってきて。

 ジルの静かな優しさにくるまれていると、胸がいっぱいになってまた涙が出そうになる。

(……ごめんなさい。その優しさに、少しだけ甘えさせてください)

 ミコは心の中で謝り、ぎこちない大きな手に頭をそっとすり寄せた。




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