③
──お母さん、お兄ちゃん。天国にいるお父さん、コタロウ。
残念ながら、元の世界に帰ることはできなくなりました。
悲しいし、寂しい。あんまり孝行できなかったなとか、大事に育ててくれた感謝をきちんと言葉にして伝えられなかったとか、心残りもいっぱいある。
だけど現実から目を背けてずっと
泣いても、笑っても、流れる
だったら笑って過ごす方がいいに決まっているから、わたしは──
この世界で、できることを全力でがんばって生きていきます。
(……って、胸の中で決意を語れるようになったのに……!)
昨日のジルのお宅訪問を機に、ミコは思考を前向きに
元気を取り戻してくれたそのジルから太古の森へ来るように言われたため、ミコは昼前には太古の森へとやってきていた。
──来たのだが、彼女は森の入り口近くの草むらで
『ミコ、だいじょうぶ?』
ミコの足元でおとなしく待機しているソラが首を横に
「だ、大丈夫だよソラくん」
(ここに来てなんでこうなるんだろう……)
ミコは恨みがましい視線で頭上を
森の上に広がるのどかな青空では、鳥が輪を
しかし、ミコの心象風景はまったくの真逆で、発達した台風が
「ソラくん、ごめんね。もうちょっとだけ待ってくれる?」
『うん! ボクまつの!』
(わたしの平常心、どこに行ったの……?)
一言で言えば今のミコは、ジルに会うのが
──立ち直れたのは、ジルが励ましてくれたおかげだけれど。
昨日、ジルが帰って時間が経つごとに平静さを取り戻すのと
──『お
──『……どうしてだろうな、ミコの声は俺の耳によく届く』
──『……ミコが危ないと俺が苦しくなる』
──『自分を責めなくていいから、泣くな。……ミコに泣かれると落ち着かない』
(もう
ミコは内心で
おかげでミコは
(馬車の中で、だいぶ心の準備をしたはずなのに……)
全然だめだった。いざ太古の森に足を踏み入れたら、
そうこうしている間にも、ミコには出逢いから現在までのジルとの思い出が引かない波のように打ち寄せ続けている。
(色々と思い返してみると、ジルさまは二百三十八歳だけあって、ここぞというときの余裕と
その慣れていない感が、いっそ
(……すごく、あったかかった)
自分たちの体温差についてはわからないけれど、ミコがそう感じたのはたぶん、励まそうというジルの気持ちがのっていたからだ。
恥ずかしさはあるものの、できるものなら、また……
「撫でてほしい……」
口をついて出た自分の願望があまりにも正直で恥ずかしい。
自分で言っておきながら
心音が耳元で聞いていると
何か──体の中でずっと眠っていたものを揺り起こされるようで、ミコはどぎまぎしてしまう。
「…………これって……」
と、ミコが
『──こんなところにいたのか』
ふいに視界が
目の前にはジルそのひとが立っている。
今の今まで考え続けていたため、ミコはこれまでにないほど
「じ、じじじじ、ジルさまっ!?」
『……何もとって食いやしないから、そう
「いえ、あの、怯えているわけではなくて……」
動転しただけです。だっていきなり現れるから!
「な、なんでジルさまがここに?」
『ソラが迎えに行ってから、時間が経ったからな。……何かあったのかと思った』
(……どうしよう)
嬉しい。ジルが自分のことを気にかけてくれていることが、すごく。
胸がどうにもきゅんとして、頰がだらしなくゆるんでしまうのを止められない。
「ご足労をおかけしてすみません、ジルさま。なんでもありませんので」
『……ここから直接向かった方が近いな』
ぼそりと言うなり、ジルはこちらへやおら
逞しいそれは流れるようにミコの背中に回され、左腕は膝裏に差し入れられる。
そのままなんと、ジルはミコをひょいと抱え上げてしまったのだ!
『……軽いな。ちゃんと食べているのか?』
「○×□△!?」
口から心臓が飛び出しそうになり、言葉も
人生初となるお
石像ばりに
『心配しなくても、ミコへの力加減ならもう覚えた。……
(ちか、ちか、近いいいっ! その筋の通った鼻がわたしの鼻に当たりそうっ!)
異性とのスキンシップにはてんで
「ジ、ジルさま、あの、腕が痛くなりますから、おろ、下ろしてくだひゃいっ」
『
「却下!?」
『このままの方が早いからな。──行くぞ、ソラ』
『はーいなの!』
「えっ? あの、この体勢でどこ──」
なぜなら──信じられないことにジルはミコを横抱きにしたまま、背の高い大樹の
(なんて身体能力……!)
ジルは高所の
恥じらいよりも恐怖の勝ったミコは、ジルの逞しい肩に
『……コ。ミコ』
耳の
太古の森の奥を目指していると、途中で
『着いたぞ』
言って、ジルはミコを地面に下ろした。
恥ずかしい姫抱っこから解放されたミコは四つん
『ミコ、どうしたの?』
呼吸の大切さを実感しているミコの横から、ひょこっと顔を覗かせてくるのはソラだ。
『どこかくるしいの?』
「大丈夫だよ、ソラくん」
足元にソラを
目の前には
小川のその奥には、緑が
(緑をはぐくむ洞窟に、光る金色の薔薇……!)
「う、わあ……!
心が洗われるような絶景にうっとりするミコの横で、ジルは目を細める。
『ここは太古の森の中でも深部に位置する、
「すごいですね……空気が
自然に囲まれていると心身の
「こんな、夢みたいに綺麗な景色を見るのは初めてで、感動しました……っ!」
『……気に入ったのか』
「はい! 一生の思い出になりそうです!」
『見たいときは連れてきてやるからいつでも言え。……太古の森には他にも美しい場所があるから、いずれそこにも案内する』
「……ジルさまがですか?」
『他に誰がいるんだ……?』
それはつまり、ジルもつき合ってくれるということだ。
ミコには
それでもこれまでと変わらずジルと交流したいが、あちらはどうなのだろうと
「じゃあこれから、太古の森のことをたくさん教えてくださいね!」
ミコは満面の笑みを浮かべた。
『……ああ』
「ありがとうございます! ジルさまのおかげで、これからのことを
『これからのこと……?』
「はい。わたしはこの世界で生きていくので」
今のミコにはジルを転居させるつもりなど毛頭なかった。
そうなると、自分が今後どういった立ち位置になるのかはわからない。
(王太子との取引を無効にすることになるんだよね)
なんらかの
「
『……なら手始めに、あの洞窟にある魔石でも持っていくか?』
「魔石?」
『オリハルコンという、能力の
申し出についてはすごくありがたいのだけれど。
『必要なら採ってくるぞ?』
「え、と、実はあれを必要としていたのが、わたしをここへ使わした王太子で……」
『……悪い、連れてくる場所を間違えた』
正直に白状してしまうと、決まりが悪そうにジルは目を
ミコは
「いいえ、連れてきてくれて本当に嬉しかったです! ──そういえば、どうしてわたしをここに?」
『ミコは落ち込んでいただろう。……綺麗な景色でも見れば、少しは気晴らしになるかと思っただけだ』
──元気づけるために、連れてきてくれたの?
そうだとしたら言葉に
これまでジルはたくさん話をしてくれた。
辛くて
ジルからの思いやりは枚挙にいとまがないのに、自分は何もできていない。
「……気持ちは本当に嬉しいです。……わたしはジルさまには助けてもらってばかりですね……」
『俺は何もしていない。……だが、ミコにそう思われているならよかった』
頭に手が置かれる。ぽんぽんと、軽く
こんなふうに大切にされたら、無意識に自重していた気持ちのタガが外れる。
──その心に踏み込むことが、許されるのでないかと。
「…………ジルさま。気になっていたことを
『ん?』
「こんなにも優しいあなたが、どうして」
きゅっとスカートの
「──人間を、
ジルの目がほんのわずかに揺らいだ。
『………………』
落ちた
ミコから目を
『……ソラ』
ミコの足元で伏せをしていたソラが、呼びかけに応じて『なあに?』と首を傾げる。
『ミコと話をするから、向こうで遊んでいてくれるか』
『うん! じゃあボク、おさんぽしてくるの!』
よい子の返事をしたソラは軽い身のこなしで茂みに飛び込んでいった。
『……少し長くなるが、かまわないか?』
「──はい」
ミコが
少し
『俺は生まれてすぐ捨てられたのかはぐれたのかで両親の
ジルが言うには、一角獣とは額に角が生えた馬のような
『ラリーは幻獣の中では
とにかく
『だが六年前、──ラリーは人間に殺された』
「っ!!」
『その日、俺が太古の森の外から帰ってくると、武器に
「!? そ、んな……」
『そいつらは俺に気づいてたちどころに逃げた。俺はそんなことよりもラリーの容態の方が重要で、すぐに息を確かめたが……
守れなかった。
『一角獣の角は毒に
──わたしも。
大事な家族を
それでも生きてほしい、助かってほしいと願わずにはいられなくて。
息を引き取ったとき、この世の終わりのように悲しくて仕方がなかった。
(それが、
事故でもなく、心ない存在によって命を無理やりもぎ取られたら、どれだけ絶望し、
『この太古の森はラリーと過ごした場所で、動物や弱い幻獣の
かけがえのない場所なのにミコの願いを
(わたし、何も知らずに……)
「……大切な方を無理やり奪われて、辛かったですよね。人間を、許せませんよね……。ジルさまの心情も考えず、本当にごめんなさい……」
『俺が何も言ってなかったんだ。……だから泣くな』
言われて初めて、自分でも気づかぬうちに
『親とはぐれて
自分に
──ジルは優しくて
人間に
胸がちぎれそうで、涙が止められない。
ミコはしゃくり上げながら口を
「……わたしが……ひっく。ジルさまと同じ状況で力を持っていたら、
『いや、ミコはそんなことしない』
ジルはやけにはっきりと言いきる。
『たとえ憎んだとしても、力を振るう前に非道な奴ばかりじゃないと
ジルは黒髪をかき上げるなり、ミコに視線を集中させた。
美しい深紫の瞳に見つめられると
『そんなミコがいたから、俺は人間が全部同じじゃないと思えたんだ』
──心の針が、激しく揺れ動いた。
そんな感覚だ。時を同じくして自分の中に、火が
言いようのない
(……こんなふうになるのはひょっとして……わたしは、ジルさまのこと……)
彼に出逢うまではなかった感情と、この熱の正体。
家族への情愛とも、タディアスたちへの親愛とも別物で。ぼんやりとしていたその何かが、ジルからの思いの丈に触れたことで
──わたしはジルさまが好き。
そんな
まだ口にする勇気は持てない。だけど、口に出すのも
ミコはふわりとはにかんで、今の自分の
「わたし、この能力でよかった。……ジルさまと出逢えて、本当によかったです」
「じ……る、さま……?」
『────悪い、自分からは放してやれない。嫌なら全力で拒んでくれ』
拒め、と言いながら、ジルはミコに
まるで縋られているようで、抱かれているはずの自分が彼を抱いているような気がしてくる。
羞恥が
生まれて初めての
──触れたところから、じんわりと
恥ずかしいのに、不思議と安堵の方が大きかった。
「ジルさまに
『……そうか』
いつも堂々としたジルのほっとしたような
精根をすっかり使い果たしていたミコは、あっという間にまどろみに落ちていった。
すうすうと眠ってしまったミコの頭を、ジルは慎重に自分の膝の上に横たえた。
そのままでは身体を冷やすかもしれないので、自らの上着を彼女にかぶせる。すべらかな頰に垂れた長い
ジルはそっと指で払う。
(……ずいぶん泣いたな)
自分とは無関係な痛みを、まるで自分のことのように。
だが、さほど
(……いつからこうなったのか)
直接的にはわからない。
ただ日増しに、ミコの明るい振る舞いや、
ミコが
(むしろ、らしいと
他者のためにすら全力で動くミコが、
──「……別の場所での密猟の話も、作り話なんです」
──「……身勝手な真似をしてごめんなさい、ジルさま」
耳に
ミコはよく笑う。
そんなミコが泣きじゃくりながら、消え入るような声で謝罪を口にしたとき。
胸の一番深いところが、痛かった。
──怒っていないから謝るな。自分がそんなに傷ついているのに。
ジルはどうしようもなく落ち着かない気持ちと、励ましたい気持ちがせめぎ合ってない交ぜになり、気づけば壊すかもしれないという不安を
指先に全神経を集中させることも、力加減をしくじらないよう死ぬ気で覚えようとしたのも初めてだった。
自らの予期せぬ行動に混乱する一方で、ジルは強烈に思ったのだ。
──笑っていてほしい。
苦痛から、恐怖から、彼女を傷つけるすべてのものから守りたいと。
そうして今しがた、少し
何かに突き動かされるように、ミコを腕に抱いた。
(……この腕をミコが受け入れたことに)
心底ほっとした。同時に、胸の中に溢れ続けていた不可解な感情が急に形を成したように感じたのだ。
人間でも異世界人だから。言葉が
そうやってありえない理由を掲げていたが、もうごまかしが利かない。
覚えのない、胸の高鳴るこの想いを認めるほかなかった。
ミコは何よりも
(ミコを悲しませた王太子は
ジルは無防備に眠るミコのさらさらした髪を愛おしむように指で
すると、服の
『……ミコがいなくならずにすんで喜んでいる俺こそ、身勝手なんだよ……』
低い声で毒づいたその直後に下から、「ん……」というあえかな声と、もそもそ動く気配がした。
長い
『起きたのか』
「……? …………っっっ!?」
目が合うなり、ミコが音だけの悲鳴をほとばしらせて飛び起きた。
ただでさえ大きな瞳がまん丸になっているし、顔は
この反応からすると、起き抜けで寝落ち前の記憶がまだ判然としていなさそうだ。
「な、なんでジルさまがひ、
『ミコが寝たからだ。地べたにそのまま横たえさせておけないだろう』
「お、お
『……別に
「警戒?」
ミコはぽかんとした顔になる。
そんな彼女から続く言に、ジルは同族の竜からしたたか
「いえ、ただわたしが恥ずかしくて困るといいますか……嫌じゃないんですけどこういうの、慣れてなくて……」
──なんなんだこの生き物は。
頰を上気させてまごつくミコを腕の中に引きずり戻してやろうかという欲求を、ジルはぎりぎり堪えた。危ない。
素直なミコは不意打ちで、ジルを
「あの、ジルさま?」
どうしたんだろうとでもいうようにきょとんとするミコは、自分が年上の竜の心をかき乱しているなど、夢にも思っていないのだろう。
(……天然ほど
その辺にいる若造めいた
◆◇◆
陽が傾きかけた頃。
またしてもジルに横抱きにされた状態で、ミコはブランスターへと戻ってきた。
ミコはいつものように迎えの馬車で帰ろうとしたのだが、どういうわけかジルが送ると言って聞かず、
(は、恥ずかしかった……!)
込み上げる照れくささを散らそうとするけれど、これがなかなか難しい。
ミコは年齢と
押しつけられた硬い筋肉の質感や、回された腕の力強さ、自分よりも低い体温がはっきりと伝わってきて──
(思い出したら顔から火が出る! うう、顔が熱いよぉ)
恥じ入るミコとは対照的に、ジルの無表情は小揺るぎもしていない。
相手は天変地異が起こったとしても
ちょっとだけ不満に感じてしまうのは
『……顔が赤いぞ。体調が悪いのか?』
あなたのせいですとはとても言えない。
「なんでもありません! それよりあの、腕は痛くないですか?」
『軽くてやわらかいミコを抱きかかえたくらいで、俺がどこか痛めるとでも?』
(恥ずかしい感想を通常のテンションで言わないで──っ!)
ミコは恥じらいの悲鳴と髪をくしゃくしゃにしたい衝動を意地で堪えた。
どうして発言者が寸分も動じず、こちらが狼狽えなければならないのだろうかと、ミコは羞恥とどうにも
「よ、よかったです? ……あの、明日もお
『……当たり前だろう。なんなら俺が
ほっとした矢先にとんでもない
「それは結構です! 今までどおり通わせていただきますから!」
『俺が運んだ方が早いし安全だろう』
身辺的にはそうかもしれないけど、精神的には羞恥で
「そ、そういう問題ではなくてですねっ」
『じゃあ何が問題だ……?』
なおも食い下がるジルへの返答に窮したミコは、
「えーと、ジルさま! これから一緒に例のパン屋さんに行きませんか? 昨日のお礼も言いたいですし、明日の朝食も買いたいので!」
『……別にかまわないが』
「じゃあ行きましょう!」
とりあえず送迎の件についてあやふやにすることに成功した。ミコはジルから見えない位置でこっそり額の
『ミコはあのパン屋とやらによく行くのか……?』
「行きますよ。ご近所ですし、どれもすごくおいしいので! 料理は好きなので、将来はパン職人を目指すのもいいかもしれませんね」
『……人間社会のことはよくわからないが、ミコが必要なら俺の力と
心意気はありがたいものの、
「……仲良くしてもらえるだけで十分なので、気持ちだけいただきます」
『物理的にも受け取ればいいものを……』
なんでちょっと声が不満げなの?
「じゃあ、もしもわたしが採取屋デビューをすることになったら、
『ミコはそうするつもりなのか?』
「ただの案です。あ、万が一そうなったとしても、
『……だろうな』
ジルは身を屈めて、ミコを覗き込みながら頭をごく軽くぽんぽんしてくる。
穏やかなまなざしと動作が言葉よりも
(……ジルさまはわたしのことを、どう思っているんだろう……?)
知りたいが、確かめるのは告白のようなもの。そんな
だがこうしてかまってくれているので、思い上がった勘違いでなければ知り合いよりは上のはずだ。ソラと同類な感じも
(欲を言えば、気の置けない友達くらいに思われていたいけど)
『……ミコ。あれはなんの集まりだ?』
「なんでしょう? 樹の下にたくさんいますね……」
大通りの開けた場所に植えられた、大きなもみの樹の根元に人だかりができている。
なぜか皆顔を上へ向けていた。
『あそこにいるのは、昨日丸っこい男と一緒だった奴だな……』
「あ、火事の現場でジルさまに真っ先に声をかけた方ですね」
肌が陽に焼けた逞しい体つきの男性は、もみの樹に立てかけた
「棟梁、どうですか!?」
「やっぱ梯子だけじゃ無理っぽいな」
近づいてみると、そんなやりとりが耳に入った。上に何かいるのかな?
「あの、何があったんですか?」
「棟梁さんとこの
たちまちその場がざわついた。
上へ注がれていた視線は余すことなく空前の美丈夫へと移る。常人であればまとわりつくそれにたじろぐところだが、ジルは
「よお、黒髪の兄ちゃん! 相変わらず男前だな!」
梯子から下りながら、男性は首を
「一緒にいるあんたが、パン屋の旦那が言っていた通訳のミコちゃんかい?」
「はい、そうですが……」
「いいねえ、二人で仲良くデートか」
「っ!? 違いますっ!」
言葉の矢が脳を直撃した。ミコは
照れるな照れるなと、
『ミコ、あの男になんて言われたんだ……?』
「えっ! えーと、あの、その……本日はお
『……絶対噓だろ』
すっとぼけてみたが、
デートの件をリピートするのは恥ずかしすぎるので、ミコはジルのつっこみを聞かなかったことにした。
と、そこへ──
『こわい……』
上から降ってきたのは、弱々しいかすかな声だ。
目を
「あんなに高いところに……!」
「窓を開けた
やたらと愛らしい名前の
「早く助けてやりてぇんだが」
「そうですね。いくら
『……落ちる前に下ろす』
えっ? ミコが訊ねようとする前にジルが横からいなくなった。
………………。
(わたしを除く全員が
それも無理からぬことである。
という地上の状況はさておき。
うずくまる黒猫は突然現れたジルに
黒猫を大事そうに抱えて、ジルは空気を震わさずしなやかに着地した。
『……猫はふわふわしているんだな』
(っ、その顔でそんなこと言うのは反則……っ!)
心なしか嬉しそうに呟くジルが可愛いやら
『……助けてくれて、ありがとう』
黒猫はつぶらな黄色の瞳でジルを見上げながら、そう言った。
『こうやって猫に触れるのも、ミコへの力加減を覚えたおかげだな』
「お、お役に立てて何よりです? ──ジルさま、猫ちゃんが助けてくれてありがとうって言っていましたよ」
『……わかった』
通訳ありがとうとばかりに、ジルは猫を抱いていない方の手でミコの後頭部を撫ぜる。
その仕草にそこはかとない甘さが秘められているように思えて、ミコは頰をぽっと染めた。
ジルは黒猫を抱えたまま、
『……ほら』
すっと、黒猫を陽に焼けた男性に差し出したのだ。
わざわざ、人間の元へ自らの足を運んで。
(ジルさま……)
「っ、すっ、げーな黒髪の兄ちゃん! 魔法だけでなく、身体系の能力もあるのか!」
そう
「まじでかっこよかったぜ! なあ!」
「はい! 男のオレでも
「女のあたしはすでにメロメロだよっ!」
「バツイチのおばさんは引っ込んでてよ! ちなみに私は
「盛り上がってるとこ水を差すが、黒髪の兄ちゃんはすでに売約済みだぜ」
「──といった会話が
『…………』
ミコの
「っと。黒髪の兄ちゃんは言葉が解らねえんだったな。ミコちゃん」
「は、はい」
「うちの大事な猫を助けてくれてありがとうって、伝えてもらえるか?」
「もちろんです! ジルさま」
男性からの言葉をミコが口にすると、ジルはそっぽを向いてぽつりと。
『……別に、猫のためだ』
「──だ、そうです」
「だっはっは! 黒髪の兄ちゃんはクールだなあ! そんじゃまあ、何もしないのもあれだしここは一つ感謝を込めて」
男性は隣の若者に黒猫を預ける。
「さあ黒髪の兄ちゃん、いざおれとハグェ!」
ミコが止める間もなく、タックルするような勢いで飛びつこうとした男性は額をジルの左手でがっちり
「ジ、ジルさま。棟梁さんは感謝の抱擁をしようとしただけで、決して
『……むさくるしい奴に抱きつかれるのは
ジルは小さくぼやく。体格による圧からして、気持ちはわからなくもない。
「……ミコちゃん、黒髪の兄ちゃんはなんか言ったか……?」
捕らえる対象に届かずに空を
「むさくるしい方に抱きつかれるのは御免だと……」
「正直な通訳ありがとな……」
男性は力なく笑いながら後ろに下がるなり、申し訳なさげに
「ミコちゃん、ありがとよ」
「へ? わたしはただ言われたことを伝えただけですが……」
「それがすげぇんだよ。ミコちゃんの通訳がなけりゃ、おれらは黒髪の兄ちゃんと話がずっと一方通行だ。ミコちゃんがいてくれてよかったぜ!」
『……この間と違って、ミコがいてくれて助かった』
なんの裏表もない言の葉から生まれた嬉しさが体中をたゆたうようで、こそばゆいのに心がぽかぽかする。
「──よかったです、少しでも役に立てて!」
ミコは
直後にジルはどうしてなのか口元に手を当て、陽に焼けた男性は破顔する。
「さあ、ハーティちゃんも無事だったし邪魔者は退散っ退散っ! 人の
歌うような男性の指示で、その場にいた者たちは興奮冷めやらぬままに散開した。
その場に残るのはミコとジルだけになる。
「……なんだか
『まったくだな……』
ジルは
『知らないとはいえ竜に突っ込んでくるとは……ずいぶん命知らずな人間がいたものだ』
呆れたようにそう言った。
──あんなに、人間を
タディアスたちに邪気を感じないと言ったように。
人間が全部同じじゃないと思えたという想いのとおりに。
(ジルさまはきっと、変えようとしているんだ)
〝人間〟を一
ゆえに、先ほどの街の人たちへの空気がやわらぎ、まなざしに剣吞さもなかったのだ。
彼らを
「──ジルさま。太古の森の他に、オリハルコンが採掘できる場所ってありますか?」
『? それならここから南に下った
「そうですか、よかった」
『……急にどうしたんだ?』
ジルは
──途中まで、気づく余裕がなかったけれど。
ジルは歩くときは速度を、話すときも躰を屈めたりして、それとなくミコに合わせてくれている。
ジルのそれは
「もうわたしには、王太子の希望に沿うつもりはありません」
ジルは積年の
多少
(わたしもこのままじゃいられない。──今のわたしに、できることと言ったら)
「わたしは王都に行って王太子にかけ合ってきます。『守り主』は太古の森に必要だから、魔石の採掘は別の場所にしてくださいと」
『!』
不意を突かれたようにジルは目を
(わたしは社会的にも肉体的にも精神的にも、まだ甘い)
そんな自分にできることは限られている。
だからせめて、この能力で役に立てれば、少しはジルにお返しができるかもしれない。
他者のために心を砕く、その優しさに救われたから。たくさん助けてもらったから。
他ならぬジルのために──何かがしたい。
「ジルさまがわたしや街の人たちに寄り添ってくれたように……今度はわたしが、ジルさまのためにできることを全力でやってみます!」
にっこりと笑ったミコは、明るい声に強く頑なな意志を込めて宣言した。