④
(すー、はあー。……よし、落ち着いてきた)
歩きながら深呼吸をやり続けているうちに、ミコの心の
お手軽
戻ってきた広場では
(えーと、パン屋さんの露店は……)
ミコは人がごった返す会場のそこかしこに視線を運ぶ。
しばらくそうしていれば、『数量限定販売! 美味!
(あれだっ!)
パン屋の露店はちょうど人の列がはけたところだった。ミコはジルに「見つけました!」と報告して、突撃する。
「おー、ミコちゃん! 来てくれたんだな」
「おじさん、こんにちは」
「ミコちゃん、これまたとんでもない男前を連れてるなぁ。初めて見る顔だが、お兄さんは
『……この人間はミコの知っている奴か?』
「あれ? 聞こえてない?」
意思
「すみません、おじさん。彼は別の大陸から来た方で、この国の言葉が解らないんです。なのでわたしが通訳を」
「そうだったのか! いやー、お兄さん、遠いところからようこそ!」
パン屋の主人は白い歯を見せて笑いながら、ジルに歓迎の意を示す。
「ジルさま。こちらはわたしの知り合いのパン屋のご主人です」
パン屋の主人には聞こえないように、ミコはひそめた声でジルに紹介する。
『パン屋?』
「パンという食べ物があって、それを売るお店のことです。ご主人がジルさまに質問していたので、この国の言葉が解らない別大陸の方だと説明しました。ようこそって、歓迎してくれていますよ」
『……別に歓迎される
一言落とすジルの語気にきつさはそれほどなかった。
(表情は全然変わらないけど……)
ジルの声や雰囲気から冷えた
ぶっきらぼうな言いぶりだったが、それは意地によるところが大きいのだろうと予想できるので、なんだか微笑ましかった。
「にしても別大陸の外国語が解るとは、ミコちゃんはたいしたもんだ!」
「そこだけが取り
本当のことを教えたらきっと後ろにひっくり返ってしまうに違いないので、ミコは笑って受け流す。けれど、
それはそうと──
「おじさん、フルーツサンドってまだありますか?」
「運がいい、残りあと三つだった」
危ない、完売寸前だった。
「その残り三つを売っていただくことはできますか?」
「ミコちゃんがこれからも他のパン屋に
茶目っ気たっぷりな笑い顔を作るパン屋の主人に、ミコは
「あはは、ありがとうございます! またおいしいパンを買いに行きますね」
「毎度あり! 準備するから、前のテーブルにかけて待っててもらえるかい?」
「わかりました」
ミコは先に代金を
思い思いに盛り上がるテーブルにはスイーツから食事までいろんな料理が並んでいた。そこかしこから胃にくるいい匂いが漂う。
『……ミコ、さっき渡していた丸いものはなんだ?』
「丸いもの? あ、もしかしてお金のことですか?」
ミコは
手のひらにのせたそれをジルはしげしげと観察する。
『……色が違うんだな』
「色ごとに価値が違うんですよ。人間は何かを売ったり、どこかに勤めたりして得たお金でいろんなものを売り買いするので、生活には欠かせないものですね」
『ないとどうなるんだ?』
「まずひもじい思いをして、最悪の場合は死に至ります」
『金というものが人間には必要であることだけはわかった……』
ジルは気持ち
「ちなみに、さっき買ったフルーツサンドを売るパン屋さんのパンはどれもおいしくて。ジルさまにもぜひ食べてもらいたかったんです」
『フルーツサンド?』
「果物とクリームを使った甘い食べ物です。ソラくんのぶんもあるので、持って帰ってあげてくださいね」
『……そうか。ソラは果物や
「ジルさまは食べ物の
幻獣の主食は日光だ。食物を
『……特にはないが、肉は食べないな』
「? どうしてですか?」
『食べなくても生きていけるのに、わざわざ命を奪って食す必要はないだろう』
──理由に
ジルは生物としての領域をぶっちぎったハイスペック最強種だ。
それなのに、性格には人間嫌いという一点は置いておくとして、鼻持ちならない感じや
種族の差とか関係なく、ジルの
(知れば知るほど、いい方なんだよね)
動物や幻獣たちが、ジルの守る森で安心して暮らせる気持ちがよくわかる。
「ジルさまが転居に応じてくれたとしても、他の生き物たちから反発されそう……」
『……そのことだが、ミコ』
心なしか改まって、ジルは言った。
『時折なら、太古の森とは違う別の場所に
「!? ど、どうしたんですか
転居を一部認めるという急展開にミコは目を丸くした。
『俺にとって太古の森は特別な場所で完全に
──わたしのために、
そう思うのは
「い、いいんですか……?」
『森を
(もしかして、川の
ジルがミコのことを少しでも慮り、思いを
それだけ仲良くなれて嬉しいと、ミコの心は浮き立つ。
「……ありがとうございます。また、王太子
『ああ』
元の世界に帰るための条件は、
完全にとはいかないが転居の
『ミコの願いが叶うといいな』
無表情ながら、思いやりのある言葉をかけてくれるジル。
帰ってしまえば、二度とジルに会うことはできなくなるだろう。
(……? どうして?)
小首を傾げてしまったけれど、理由はすぐに思い当たる。
ジルは本来の竜形も別形態の人形も威圧感とか冷たい印象が強いが、中身は深い
今やこうして、
──幸せな時間を過ごしてほしい。
そう心から願い、かけ
(……帰るときは、ちゃんとジルさまに挨拶しないと)
別れの挨拶は笑顔でしたいと思う。けれど、今からすでに
ジルさまも少しは寂しがってくれるかなと、ちょっとだけ感傷的になるミコが想像を
「「久々の再会にかんぱーい!!」」
センチメンタルを根こそぎ吹き飛ばす、
「ぷっはー! やっぱ王都と違って、解放感しかねえ地元で吞む酒はうめえ!」
「王宮勤めの騎士さまはご苦労なことで」
ミコに聞き耳を立てるつもりはないが、席が真後ろかつ声が大きいので、会話は丸聞こえだ。
「それで、何か
「おっ、あるぜ。聞いて驚け、王宮に聖女が現れたって話だ」
「けほっ!?」
こんなところで、見知らぬ若者たちの
『ミコ?』
「な、なんでもな、けほ。ちょっと、空気が変なところに入って……」
『……大丈夫ならいい』
大事ないことを確認したジルは腕を組んで口を
ミコは呼吸を整えることに集中して、
その間も、あいている
「オレは見たことねえが、ちびっこみたいなナリらしい。あと、規格外の能力持ちとか」
「規格外?」
「
「どうせならちびっこより、豊満美女に来てほしい」
「そりゃそうだ!」
げらげら笑う若者二人に、ミコが「ストレスで頭のてっぺんに十円ハゲでもできちゃえ!」と
「でも異世界から召喚ねえ。異世界が本当にあるんなら、ちょっと喚ばれてみたいよな」
「ばーか。喚ばれたが最後、戻れなくなるらしいぞ」
────────えっ?
青年が落とした軽い一言で、ミコは冷や水を浴びせられた
(何を、言って……)
「戻れなくなる? なんでだ?」
「考えてもみろよ。なんかすげー力を持った奴を喚ぶんだぜ? そうほいほい帰すか?」
「あー、言われてみればたしかに。取り込もうとするな普通は」
青年らからの次の言葉が、たまらなく恐ろしくなった。
「そ。魔法師のツレ
「その聖女がまじで異世界から喚ばれたんなら、ちょい気の毒だな」
「まあなー。俺なら知らねえ世界で死ぬまで暮らすなんて、ぜってー
(──違う)
頭の中でミコは打消しを
こんなのはただの
そうでなければ、いけないのだ。
「ミコちゃん、おまちどお! フルーツサンド三つね」
「──……あ。ありがとうございました、おじさん」
パン屋の主人から包みを受け取ったミコは、椅子から飛び上がるように立った。
ミコは胸の内にある不穏な影を追いやるように、努めて明るい笑顔をジルに向ける。
「ジルさま、広場を見て回りましょう!」
『……もう大丈夫なのか?』
「はい! あ、あっちで何か催しが始まったみたいですよ!」
『慌てるな、転ぶぞ』
言って聞かせるような物言いのジルと一緒に、ミコは祭り見物に身を投じる。
けれど、拭いきれない不安を表に出さないようにすることに必死で、何を喋ったのかほとんど覚えていなかった。
──
母屋に
二人の住む母屋は書店と壁一枚を
玄関ホールの右手一番奥にあるのが、
「お
「あら、ミコちゃん」
「ミコや、祭りは楽しめたかのう?」
「……タディアスさんに教えてもらいたいことがあるんです」
何か真面目な話だと察した二人に、暖炉の前にある椅子に座るよう
──ただの酔っぱらいの話。
それを
けれど、昼間の青年らの会話が頭にこびりついて忘れられなかった。
事情に通じていそうな人に話を聞いて、確かめないことにはこのもやもやは晴れないだろう。
正面から向き合うのが恐い気もする。……でも、不安の気配がついて回るのも嫌だ。
(フォスレターさんに手紙を送っても、きっと返事に数日はかかる)
それにデューイはアンセルム直属の
ミコはデューイを親切で
博識なタディアスはその方面に深い
膝の上で一度手を握り、ミコは意を決した。
「元の世界に帰る方法というものは、あるんでしょうか?」
「…………ミコ、もしやおぬし……」
「教えて、ください」
みなまで言わせぬミコの
そして、まるで聖職者が教えを説くようにしめやかに語る。
「儂の知る限り……方法はないのう」
「……ない、んですか……?」
「異界の存在を喚ぶ
(噓……!)
ミコは必死に否定の言葉を
けれど──ふと
気にも留めなかった、召喚されたときに鼻をかすめたあの、何かが焦げるような匂い。
思考は否定し続けているのに、光が閉ざされた真っ暗
「……ミコは、このことを知らんかったのか?」
心配そうな顔つきで問いかけてくるタディアスに、ミコはわずかに顎を引いた。
「……元の世界に帰れるって、ずっと思っていて……」
瞳が涙でかすんでしまい、ミコは咄嗟に顔をうつむかせる。
「ミコちゃん……」
今の一言で事情をおよそ察したのだろう。横に来て気遣わしげに肩をさすってくれるモニカにミコはそのままもたれかかる。
走ってもいないのに、息が上がって呼吸が苦しい。
それでも、空気の足りなくなった肺よりも、
──もう帰れない。
自分の中にあったはずの上向くような気持ちは