⑤
「……はあー……」
太古の森の中にある水底が見通せるほど澄んだ池の
『家へ帰る、絶対に』を合言葉に、ミコはこれまで気持ちを保っていた。母直伝のおまじないで勇気を奮い起こしてきたのだ。
けれど、自分の中で顔を出してはやりすごしてきた不安を、頭は忘れずに
―― 昨日の黒竜の
森へ来るなり、昨日と同じ川の場所へ行ってみると、麻袋はすべて
念のために岸を下ってもみたけれど、どこにも不法
(……わたしのこの一週間は、なんだったの)
黒竜の手のひらで転がされただけ。少しは打ち解けたかもと思っていたのにあんまりだ。
職務を
ゆえにこうして、川から
「……大丈夫、余裕だから……」
ミコはおまじないを
顔も笑顔には程遠く、
(……お母さんとお兄ちゃん、どうしてるかな……)
きっと
スマホも
「……みんなに、会いたい」
郷里への
今泣いてしまったら、きっと立ち上がれなくなる。そんな気がして。
(このまま暗くなっちゃだめだ!)
「よし! 今日はもう色々考えずに、元気と英気をチャージしよう!」
決まり、とミコは脇に置いてあった鞄をごそごそ
―― 「無理しないで、疲れたら甘いものでも補給してね」
出がけにモニカがそう言って、持たせてくれたのだ。
タディアスもモニカもお役目の内容について
押しつけがましくない気配りと優しさは、ミコにとってとても心休まるもので。
大げさかもしれないが二人はミコにとって、この世界での祖父母のようなものだ。
(ありがとうございます。タディアスさん、モニカさん)
胸の中で感謝して、
「いただきますっ!」
ぱんっと手を合わせたミコは誰も見ていないからと、
外側のパイ生地は
と、ミコがアップルパイを存分に
『―― くそ! 放せえっ!』
(この声は)
聞こえたのは耳に覚えのある声だったが、どこか
声が流れてきたと思われる方角にミコは小走りで向かう。
(こっちかな。そんなに遠くないと思うんだけど……)
ミコが天を突くような樹々の間に生える茂みをかき分けて、その先に飛び出すと―― カーバンクルたち小さな幻獣が、縄のようなものでがんじがらめにされた状態で樹の幹にくくりつけられていた。
「みんな、どうしたの!?」
『ミコ!!』
相当きつく
(なんてひどいことを!)
「待っててね、すぐに逃がしてあげるから……」
「―― なんだこのガキ!?」
振り返った視線の先にいたのは、使い込まれた武器を
―― 縛られた幻獣ではなく、ミコに驚いた
「この子たちは渡しませんっ!」
「いきなり現れて、何ふざけたことぬかしてんだてめえ?」
(っ!)
平然と人を手にかけていてもおかしくない殺伐とした視線を向けられたミコは、悲鳴をどうにか押し殺して一歩後ずさった。
が、ミコを睨みつけた密猟者のうちの一人にあっという間に距離をつめられる。
男はミコのナイフを握ったままの腕をなんなく摑んだ。
「痛っ……!」
「―― 捨てられたのか肉づきはちと
(!?)
腕を摑む男が、買い物ついでみたいな調子で恐ろしいことを口走った。
「な、―― っ!」
手にしていたナイフを落とされ、後ろから手で口を
「おとなしくしてりゃ、何もしねぇよ」
全力でもがいてみるが、
いてぇ! と叫んだ男が腕の
「おとなしくしろっつっただろ! 傷がついたら商品価値が下がるんだからよ!」
(恐い、誰か……!)
声にならない願いとは裏腹に、男の手が迫ってくる。
元の世界に帰ることもできないばかりか、このまま幻獣たちと一緒に売り飛ばされてしまうかもしれない。
―― そんなのってない!
絶望の
『《
人のものではない、恐ろしくも低い声が響いた。
瞬間、天を割るようにして生じた
びりびりと空気を
『……
風に吹かれて揺れ動く樹の間から、ゆらりと現れたのは―― 人に畏怖の念を
「りゅ、竜!? ま、まさか、守り主……っ!?」
男たちからは顔色が
先ほどまでの
けれどそれはミコも同じだ。少しは見慣れたと思っていたが、幻獣の王者が
した圧倒的な迫力のあまりの恐ろしさに、息を吸うこともできない。
『俺の縄張りで
吐き
男たちは全員真横に吹っ飛んで地に沈む。まともに喰らった物理
『またこの森に踏み入ってみろ―― 命はないぞ』
男たちには黒竜の恫喝が理解できずとも、その背筋の
(た、助かった……?)
へなへなと
黒竜はといえば、
『お前……』
(そうだ、みんな!)
黒竜の低めた声で正気づいたミコは、落ちたナイフを手に拘束されたカーバンクルたちに駆け寄った。
「みんな大丈夫!? すぐに縄を切るから、ちょっと待ってね」
ミコは幻獣たちを傷つけないよう、ナイフを慎重に動かしてぶちぶちと縄を切っていく。
最後の縄を切り落とすと、解放された幻獣たちは地面にしゃがむミコの足元に
一同を代表して、カーバンクルが成り行きを見守る黒竜に言い募る。
『黒竜さま、ミコはさっきの人間どもに捕まっていたオイラたちを助けてくれようとしたんだ』
『………………』
黙ったままの黒竜に、カーバンクルは訴え続けた。
『ミコは人間だけど、あいつらと違って悪い奴じゃないよ』
『……わかっている。……ところでお前たちに怪我はないのか?』
無事だとカーバンクルが返事をすると、黒竜は『……ならいい』と話を
『……もう行け。利己的で強欲な人間は他にも大勢いる。今後はさらに用心しろ』
『わかった! ありがとう黒竜さま。ミコも、助けてくれてありがとな!』
姿が見えなくなると、黒竜はおもむろにミコの方へ歩み寄ってきた。そのままミコと視線を合わせるように、長い首を
―― こんな間近で黒竜を見るのは、初めてかもしれない。
だからなのか不思議と恐くはないが、つぶさに観察されているような気がして、ミコは落ち着かない気持ちになった。
『……なぜ、人間のお前が幻獣を助けた』
黒竜の表情から内面は少しも読み取れない。けれども、その語感はこれまでにないほどに冷たさが
「カ、カーバンクルくんたちが捕まっているのを見て、助けなきゃと思ったので……」
『自分は自衛の
「……なんというか、体が先に動いてしまった感じで。顔見知りの子たちだし、放っておけなくて……」
『我が身を
黒竜は呆れたように言う。
『……《
しかし、黒竜の口をついて出たのは短い言霊だ。
時を移さず、黒く巨大な姿が白い
「っっっ!?」
ミコはぎょっとした。
数秒前まで黒竜の姿だったのに、煙が切れるようにして晴れた場所にたたずむのはどう見ても人間の青年ではないか!
(し、信じられない!)
感情が読めない無表情だがしかし、その顔立ちは
口元からわずかに覗く尖った犬歯がこれまた
「……黒、竜さま? その姿は……?」
『これは別形態だ』
竜のそれとは違う、低くてどこか甘い美声だった。
人に近い姿となったことで
『カーバンクルたち小さな幻獣は力が弱く、人間どもに狙われやすい。……同胞を助けてくれたこと、感謝する』
(………………えっ?)
ミコは言葉を失った。
なぜなら、黒竜がお礼を言ったばかりでなく、手を差し伸べてきたからだ。
『……感謝するとき、人間は手を握るんだろう?』
まさか、そのためにわざわざ人形になってくれたのだろうか?
ミコは
―― 指が長い。綺麗だけど、筋張った手は大きい。
竜だと知っているのに、人に近い姿になったせいか変に緊張してしまう。
でも、いつまでも手を出させたままにしておくのは失礼だ。ミコはおずおずと自分の手を黒竜のそれに重ねた。
黒竜は握った手を引いて、ミコを立ち上がらせてくれる。
『改めて礼を言う、ありがとう』
ありがとう!?
予想だにしないあたたかな言葉にミコは激しく
「い、いえ! 結局、あの密猟者たちを退散させたのは黒竜さまですし……!」
『お前が助けず見過ごしていれば、あのカーバンクルたちは今頃奴らの手に落ちていた』
黒竜から紡がれる声には、安心したかのような穏やかな響きがあった。
(……黒竜さまって……)
たぶん、この太古の森に棲む生き物たちを、とても大切に思っているのだろう。
だから不作法に森を
ただ
『お前、……いや、名前はミコだったな』
ふいに名前で呼ばれて、ミコの心臓が
なんでもないことなのに、なぜか
かまっても懐かなかった
(って、わたしまだお礼を伝えてなかった!)
「あの、こちらこそ危ないところを助けてもらってありがとうございました、黒竜さま」
『……ジルだ』
「え?」
『俺の名前だ。……言っていなかったからな』
ミコへと向けられた黒竜―― ジルの深紫の瞳にはいつもの
「どうして、急に名前を……」
『……ミコになら教えてもいいと思った』
それだけだ。短く吐き出したジルがほんの一瞬、口端を上げたのをミコは目撃した。
ただ、すぐさまジルは元の無表情に戻ってしまう。
それでもどこか穏やかだった表情は、ミコの瞳にしっかりと焼きついている。
(……少しは心を開いてくれた……のかな?)
ジルの気持ちの動きは摑めないが、もしかしたらお役目の進展に
それも大事なことだけれど―― これまでの行動とやりとりから、ミコに歩み寄ってもいいかもしれないとジルの心に変化を
(なんだろう……もっと、ジルさまのことが知りたい)
今までミコはやらなければという義務感から、黒竜と対峙するだけだった。
―― でも、ジルさまがこうして
自分もジルのことを知りたいと思った。
それはミコにとっても、ささいなようで大きな気持ちの変化であった。