あくる日の早朝。
「うーん!」
空から注ぐ朝陽を浴びながら、ミコはめいっぱい背伸をした。今は春の初めとはいえ、早朝の空気はまだ肌寒い。
それでも大きく息を吸って吐けば、清々しい気分になった。
まとわりついていた眠気も吹き飛ぶ。
(晴れそうだし、服はこれ以上着込まなくても大丈夫かな)
ミコは丈夫な革の編み上げブーツに、しっかりとした生地のワンピースという出で立ちだった。動きやすさを重視しているが、意匠はシンプルながらも女の子らしい。
肩に背負った鞄がアンバランスだけれど、歩くのでそこは仕方がない。
「おはようございます、フクマルさま」
「おはようございます」
挨拶をしてくれたのはがっしりとした体格の壮年の馭者だ。元騎士という経歴から護衛も兼ねている。
街からさらに西に広がる、深く広い太古の森に一番近い領域までは馬車でも一時間ほどかかるらしいので、そこまで送迎してもらうのだ。
「足元にお気をつけください」
「すみません、ありがとうございます」
馭者の手を借りて、ミコは車体が高い座席に乗り込む。
「それでは出発します」
馭者のかけ声とともに、馬車は城壁の外へと続く路に向かって動き出した。
馬車で走ること一時間余り。
城壁から遠くなるほど、徐々に細く人通りがなくなる路から逸れた場所―― 太古の森の領域の手前で、馬車は停まった。
「夕刻にまた、私はここへお迎えに上がります。必ず間に合われますように」
馭者の操る馬車が遠ざかると、ミコは心細さと不安を覚えた。
吹き寄せた少し冷たい風が樹木をざわめかせ、ミコの艶やかな栗色の髪をなぶる。
風だけのせいではないぞくりとした感覚に体中が総毛立った。
(だめだめ、しっかりしなきゃ!)
気合いを入れ直したミコは、いよいよ太古の森へ足を踏み入れた。
樹林の絨毯といった様相の森の中は深い木立があって、木漏れ日が射している。
視認できる範囲には起伏があまりないので見晴らしがきかず、自分がどこにいるのか、あっという間にわからなくなりそうだった。
(遭難したら元も子もないよね)
ミコは一定の間隔を空けて、樹に持参していた細い布をくくりつけていく。
デューイから教わった、道迷い防止のためのもっとも単純な目印だ。
「いったいどこにいるんだろう……」
紫の瞳を有すると云われる『守り主』。
どんなものかわからないので不安はあるが、帰還がかかっているだけに何が出てきてもがんばらないと。……おばけやゾンビでないことを心より願う。
(できれば、もふもふの可愛い動物でありますように!)
希望としてはどんぐりをくれる、ふくよかなお腹と太い尻尾を持った丸いフォルムの生物―― 不朽の某名作アニメに登場する不思議なもののけの姿をミコは脳内に描いた。
そうして、ミコは不安と緊張を胸に森の中を歩いていたのだが――
あれよという間にずいぶんと時間は経ち、空にある太陽はすっかり高く昇っていた。
「……っ、守り主どころか、動物一匹出逢わない……!」
呻きながらミコはその場にへたり込んだ。
かれこれ数時間、独り言と吹き抜ける風の音、あとは自分の足音しか聞いていない。こ
こは無人(この場合は無獣?)の森なのか。
(ひょっとしてわたし、森間違いしてる……?)
一抹の不安が頭をもたげたけれど、街から西にあるこの森が太古の森で間違いない。
「―― よし、ごはんにしよう」
ここまでずっと歩きっぱなしだ。
休憩がてらにと、ミコが持ってきていた手作りのサンドイッチが詰まった籐の箱を開けようとしたときである。
『いたた……』
ふいに、何かの声が聞こえてきた。
声がしたとおぼしき緑の茂みをミコがそっと覗き込んでみると―― ぴんと尖った耳を持つ獣が座り込んでいたのだ。
肢体は月光を縒ったかのような銀毛に包まれている。うるうるの瞳は透明感のある空色だ。外見は犬にそっくりで、ちょっと凛々しいサモエドといった感じである。
『!? にんげん!?』
銀色のもふもふはミコの姿を認めるなり、尻尾を伸ばして威嚇するようなポーズを取る。
しかし、その左の後ろ脚には赤いものが滲んでいた。
『こ、こっちにこないで!』
「あなた血が出てるよ、大丈夫?」
言うと、もふもふはきょとんとする。ミコの言葉が理解できることに困惑したようだ。
「手当てをするから、近づいてもいい?」
『……ボクをつかまえにきたんじゃないの?』
「そんなことしないよ?」
ミコを見上げていたもふもふは数拍経つと、威嚇のポーズをといてまた座り込んだ。
怯えさせないようにミコはゆっくりと近づき、手が届く位置にしゃがむ。
(そんなに傷は深くなさそうだけど……)
「ねえ、どうしたのその怪我?」
『……にんげんにやられたの』
「人間に?」
『うん。みつかっちゃってにげたんだけど、やをよけきれなかったの』
質の悪い狩猟者と遭遇したようだ。それでミコをあからさまに威嚇したのだろう。
(こんなに可愛い子を狙うなんて、許せないな)
ミコはどこの誰とも知れない輩に憤りを募らせながら、持っていたハンカチをもふもふの左後ろ脚に巻いていく。最後はほどけないようにしっかりと結んだ。
「はい、できあがり。きつくないかな?」
『……だいじょうぶ。ありがとうなの』
もふもふは素直にお礼を言う。声と垂れた尻尾に、先ほどまでの張りつめたものはない。
ミコは「どう致しまして」と返事をして、もふもふに笑いかけた。
「わたしはミコっていうんだ。よかったら、あなたの名前を教えてもらえる?」
『ソラだよ。……どうしてミコはボクとおはなしができるの?』
「わたしはいろんな生き物と会話ができる能力があってね。だからわんちゃんのソラくんとも話せるんだよ」
『ミコ、ボクはわんちゃんじゃなくて、マーナガルムっていうげんじゅうなの』
………幻獣って、魔法と並び称される空想の産物の二大巨頭のあれ?
能力なんて摩訶不思議なものがあるくらいだ。幻獣がいてもおかしくはないけれど。
(まさしく異世界だなあ……)
ロマンある空想上の生物との遭遇に驚愕を通り越して、ミコはいっそ感心した。
『ねぇ、ミコはこんなところでなにしてるの?』
「この森に棲むっていう、紫の瞳を持つ守り主に用があって捜しに来たんだ」
『わかった! 《きょだいか》』
ソラがそう叫ぶなり、ミコの視界が見る間に銀色で覆い尽くされ――
大型犬くらいだったソラの肢体が、迫力のある熊ほどに巨大化した。
―― でっかくなって、もふもふぶりは三割増し。
これも能力かな、幻獣にも能力ってあるんだとか、ミコはのんきな感想を脳内に羅列してぽかんと固まる。
『ミコ、あるじにごようがあるんでしょ? てあてをしてくれたおれいに、ボクがつれていってあげるの!』
「……え……?」
思考が鈍っているミコの襟元をくわえたソラは、ひょいと背中にミコをのせた。
熊ではなく、大きな狼(の幻獣)に跨る体勢となったミコは、慌てて銀毛を摑んだ。
『しっかりつかまっててなの』
言うなりソラは力強く地を蹴った。その衝撃で、木の葉が勢いよく旋回しながら舞う。
駆け出すソラの速度は、危険なほど速い。
「うっひゃあああああああああ!?」
アスレチックどころではない恐怖から、ミコは素っ頓狂な絶叫をほとばしらせた。
『あるじはこのさきのねぐらにいるの』
歩くほどに速度を落としたソラが進んでいるのは、無数の枝がアーチ状に重なる樹のトンネルだ。それをくぐった先にあったのは新鮮な陽射しが燦々と降り注ぐ緑地だった。
中央には緑の葉が陽光に揺らめく、樹齢何百年という風情の大樹が空へ伸びている。
ソラが立ち止まったのを見計らい、ミコはソラの背中から下りた。
(地面って落ち着く……。ソラくんの毛並みの手触りは極上だったけど)
『あるじ、ただいまなの!』
ソラが元気いっぱいの調子で話しかけたソレを目にした刹那―― ミコは心臓が口からまろび出そうになった。
(な、な……!?)
自分の目がおかしくなったと、疑わなかった。
陽だまりで日光浴をするようにうずくまっているのは、象を遥かに凌ぐ巨軀。口元からは尖った牙が覗いている。
まっすぐ伸びた螺旋状の角に、この世に砕けぬものなどないであろう鋭い鉤爪のある四肢はまるで巨木だ。
紫を帯びた黒鱗は雨に濡れたように光沢を放っていた。背にもたげた巨大な両翼は空を翔ける折には力強く羽ばたき、風を切るだろう。
(あ、あれってもしかしなくても、竜……っ!?)
他の生物とは一線を画す、絶望的な存在感を前に身体がまるで言うことを聞かない。
全身が震えて、ミコは膝からくずおれた。
『…………ソラ』
牙のある口から紡がれるのは、人外の低い声だ。
ミコと見合った途端に黒竜はグルルと地の底から響くような唸り声を上げた。悠然と構えたままにもかかわらず、視線だけで命を狩ってしまえそうなほどその眼光は鋭い。
下手に猛り暴れるよりも、その静けさが逆に底知れぬ恐怖を生む。
『なぜ人間を連れている……?』
『ミコはボクのけがのてあてをしてくれたの!』
「ソ、ソラくん。わたしは守り主に会いに来ただけなんだけど……!」
ひそひそ声で話の腰を折ったミコに、ソラはあっけらかんと。
『あるじがこのもりのぬしだよ』
「えええええええええっ!?」
大音量の絶叫がミコの喉から飛び出した。
(う、噓だよね? だってそんな……)
これが幻影か何かでありますように。神頼みに近い感覚でミコはこわごわと黒竜を見る。
黒竜の瞳孔は縦に長く、その虹彩は―― 深い紫色。
聞いていた事前情報と合致してしまった。ミコは青ざめた顔で絶句する。よりにもよってなんで竜!?
『それでね、ミコはあるじにごようがあるみたいだったから、つれてきたの!』
恐怖のあまり声も出せずにいるミコとは対照的に、ソラは黒竜に露ほども怯まず、元気よく回答を再開する。
『あとミコはね、ボクとおはなしができるの!』
『……!』
驚いたように、黒竜の目が見開かれる。
―― ファンタジーでは正と邪、どちらにしても竜の位置づけは最強だ。
そして目の前にいる黒竜は語らずともその言語を絶する佇まいだけで、幻獣の頂点にして生物の覇者なのだと本能的に感じ取れる。
(……け、けどもしかしたら、間違いってこともあるかもしれないし)
ミコはありったけの勇気をかき集めて、祈るような気持ちを込めたか細い声で訊ねた。
「あ、あなたが太古の森を縄張りとする、守り主さまですか……?」
『……人間どもがどう呼んでいるかは知らないが、俺が森を侵す強欲な人間を叩き出しているのはたしかだ』
その低めた声からは、黒竜の人間に対する嫌悪と不愉快さが伝わってくるようだ。
自ら背にのせてくれたソラとは違い、どう考えても非友好的である。
(恐いよぉ!)
恐怖が天元突破したミコはソラのもふもふした躰にしがみついた。
「お、怒らせて食べられちゃったらどうしよう……!」
『ミコ、あるじはにんげんをたべたりしないから、だいじょうぶなの』
独り言が聞こえていたようで、ソラから返事がくる。
「……そう、なの……?」
『うん。ボクたちげんじゅうはね、おひさまのひかりをあびれば、ごはんはたべなくてもだいじょうぶなんだ。たべたりもできるけど、にんげんはたべないの』
ソラからもたらされた耳よりな幻獣生態情報により、ミコはわずかに安堵する。
どうやら頭の片隅で危惧していた、頭からむしゃむしゃ食べられる心配はないようだ。
『……お前は何者だ。なぜ幻獣の俺たちと会話ができる』
黒竜の射抜くような視線にあてられたミコは、思わずひっ! と短く声を上げた。
(し、しっかりしないと!)
ミコは胸元を押さえて、恐怖で暴れる心臓を宥めた。落ち着け落ち着けと、しつこいくらい自分に言い聞かせる。
「……わ、わたしは、ミコといいまして、異世界からの召喚聖女でひゅ」
正直に申告したものの、舌がもつれて噛んだ。いくら恐いからって、この状況下で締まらなすぎる!
『異世界からの召喚聖女だと……?』
「は、い。わたしの能力は、《異類通訳》でして……言霊なしで、常にあらゆる生き物と会話ができるんです……」
ミコのおっかなびっくりの説明を聞いた黒竜は数瞬ののちに――
『……人間に用はない、去れ』
黒竜の端的な言は氷片のごとく冷たい。まなざしは突き放すように厳しいものだ。
呼吸が憚られるほど、周囲の空気が重く感じる。
(っ、もう、無理!)
「す、すみせんでした! 今日は失礼します!」
黒竜めがけて言い投げると、ミコは一目散に走り出した。
ねぐらを出ても、恐れをなす身体の震えは一向に収まってくれない。
(……何かをされたわけじゃないけど……)
それでも、畏怖の念を起こさせる竜に拒絶を突きつけられれば、さすがに平常心を保つのは無理だ。
一度退いて、交渉相手が竜だときちんと認識した上で、改めて覚悟を決めて仕切り直さなければならない。
本音ではもう関わりたくないけれど――
(帰還のために、投げ出すことはできないから)
ミコは自分の心を必死に𠮟咤しながら、がむしゃらに足を動かした。