プロローグ 「付き合っている」は、突然過去形に変わる その2
◆◇◆
なんとか担任が来るまでに教室に戻ってきて、自分の席に座る。
「あはは、ナギ君すごい汗。ごめんね急がせちゃって」
「だ、大丈夫……俺が悠長にしすぎただけだから」
朝谷さんと話していると、やはりチクチクと刺さる視線を感じる。
入学当初からなので慣れてはいるが、「なんであの霧谷乃亜と冴えない男子が仲良いの?」という目で見られてしまうのだ。男子も女子も、少なくない人数がそう思っているらしい。
昼飯仲間として話すようになった二人も「朝谷さんって住む世界違うよな」「なんでこの学校来たのかな」と、気になっている様子だった。
その二人に「実は俺、朝谷さんと付き合ってるんだ」とか言わなくて良かったと心から思う。もし言っていたら、高確率で俺の妄想だと思われただろう。同情の視線で見られていたのは想像に難くない。
俺もこんなにあっさりフラれるなんて、夢にも――多少はそうなるかもしれないと思ってはいたものの、それが今日だとは思ってなかった。
この教室で、朝谷さんの座っている右側を見たのは何度くらいだろう。真正面どころか横顔を見ることさえ、恐れ多いと思っていた。
今日の終わりのSHRは延長される予定で、その時間に席替えがある。フラれたその日に席が替わるというのも、いいのか悪いのかという巡り合わせだ。
席が替わっても同じクラスなのは変わりない。朝谷さんが同じ教室にいること、彼女の姿を見ることに少しでも慣れなくては――そう思って、右横を見たとき。
「っ……あ、朝谷さん?」
朝谷さんがこっちを見ていて、手を伸ばしてきていた――何かと思ったら、ウェットシートのようなものを手に持っている。
「ちょっと汗かいてたから、拭いてあげようかと思って。シート使う?」
「い、いや、もらうのは悪いし……」
「遠慮しなくていいよ、男子でも使えると思うし」
「あ、ありがとう……」
そう言われても、受け取った汗拭きシートは見るからに甘いというか、女子向けの香りがする。
彼氏ではなく友達という間柄で、こんなに甲斐甲斐しくしてくれるものなのだろうか。
もっとも、一応『彼氏』として認識されていたらしい今までも、一度もこんなことはなかった。季節柄汗をかかないというのもあるが。
(……最後だからってことか。フラれたし、席も替わるし、恨みっこなしということで……いや恨んではいないが……)
自分の卑屈さが嫌になってくる。汗拭きシート一枚でやるせないほど葛藤している。
こんなことでやっぱり好きだと思ってしまう。それはそうだ、俺が彼女を嫌いになったわけじゃないし、彼氏としては見られないという結果になっても、憧れは消えない。
それでも忘れるしかない。忘れる、忘れろ、忘れた――そう自分に言い聞かせ、シートで汗を拭く。
「首のとこも拭いておいた方がいいよ、こうやって」
「っ……あ、朝谷さんっ……」
朝谷さんは自分の分もシートを取り出すと、サイドテールをかきあげて首筋を拭く。襟元もサッと拭いていたが、一番後ろの席だからといって、大胆すぎやしないかとこちらが焦ってしまう。
「はぁ、結構さっぱりするね。私、これと似たやつのWEB限定CMに出るんだよ。試供品もらったのに、他社の商品使っちゃった」
「は、はは……すごいね、CMなんて」
「ほんとにー? ほんとにすごいと思ってる? ナギ君、私の仕事って全然興味ないもんねー」
――ないわけがない。むしろ、俺は紛うことなき『霧谷乃亜』のファンだ。
しかしファンだから告白したわけじゃなく、あくまで好きになったのは学校で見る朝谷さんだ。それを誤解されたくなくて、彼女の出るドラマを見ていることなども、言えずにここまで来てしまった。
「……でも、ナギ君がそういう人だから安心できるっていうのはあるんだけどね」
学校では『霧谷乃亜』として扱ってもらいたくないと、彼女はクラスの女子に早いうちから頼んでいた。
しかし今の話だと、俺が彼女の芸能人としての活動を応援していると素直に言った方が、喜んでくれたんじゃないかと思える。
今からでも遅くは――いや、言っても困らせるだけだ。
安心できると言ってもらった以上は、大それたことは望まない。彼氏に復帰できるなんて期待を持ってはいけない。それくらいの潔さは、俺にだってある。
「そのCMは、公開されたら俺も見るよ」
「……偶然見ちゃったら仕方ないけど、自分から見るのは禁止ね?」
「え……」
やっぱり俺には見られたくないのか。そう思って凹みかけるが、ずっと悪戯っぽい微笑みを浮かべていた朝谷さんが、恥ずかしそうに頬を押さえる。
「だって、CMのセリフとか知ってる人に聞かれるの恥ずかしいし……」
その恥じらう仕草に心臓を撃ち抜かれ――てはいけない、俺はもうフラれたんだから。
彼女のファンとしては心臓がなくなるくらいに興奮してしまっているが、ミーハーとは思われたくないので、必死で緩みそうな頬を引き締める。
「そ、そうだ、これ……」
「ん、ありがと。昼休みのうちには返すね」
課題を見せてほしいと言われていたのを覚えていたので、ノートを渡す。せっかく清涼感があるシートだったのに、興奮してまた汗をかいてしまうところだった。そんなことで、どうやって朝谷さんにフラれたことを忘れられるというのか。
「……あ。ちょっと見られちゃったかな?」
「だ、大丈夫だと思うけど……」
朝谷さんは、廊下側の席に座っている一人の女子を見ている。
新入生代表として挨拶をした、
その名前はこの学校のカースト最上位に君臨するだろう彼女にあまりに似合っていて、整いすぎた容姿とモデルのような長身もあいまって、代表挨拶の最後に名乗ったときから印象に残っていた。
朝谷さんと鷹音さん、違うタイプの美少女が同じクラスにいる。それで男子たちの中にはどちらにしようかと目移りしているやつもいて、お前じゃ全然釣り合わないと突っ込まれていた。朝谷さんと釣り合わない俺にも刺さるのだが。
「…………」
その鷹音さんが、少しの間こちらを見ていた。ノートを貸すところを見られたりしていたとしたら、不真面目なことをしていると思われたかもしれない。
鷹音さんは何も言わずに前を向く。前の席の女子に話しかけられていたが、特にこちらのことを話してる様子はなかった。
「鷹音さん、すごく可愛い子だよね。北中で生徒会長やってたんだって」
自己紹介ではそこまで話していなかったので、生徒会長というのは初耳だ。教室の前に立つだけでクラスの空気が変わるくらい雰囲気があって、俺もそれに呑まれていた。
それにしても朝谷さんとはタイプがまったく違うのに『すごく可愛い』ということは、朝谷さんも鷹音さんのクールな振る舞いに憧れるということだろうか。クールというのは自己紹介のときの淡々とした口調から思ったことで、実際どうなのかはわからないが。
「ナギ君は見たことある? 鷹音さん、毎日学校来た時に『挨拶参り』されちゃってるんだって」
「え……そ、そんな物騒なことが学校で?」
「あはは、お礼参りとかじゃなくて、挨拶に来てる人たちがいるってこと。大変だよね、鷹音さん背が高いから、遠目にもすぐに分かっちゃうし」
そういえば、そんな話をチラッと聞いた――というか、実際に見かけた。
このあたりの地域では有数の進学校とされているうちの高校だが、二年、三年と進級するにつれてはっちゃけていく生徒は少なからずいて、校則ギリギリの範囲で髪を染めて、耳にピアスの穴を空けているような人もいる。
そういった上級生に、鷹音さんが声をかけられていた。登校中の人が多い中なので、俺も何ができるというわけでもなかったのだが――どんなやりとりをしているか聞き耳を立てたりしたら、それこそ不審に思われるし。
「あんまり大変だったら先生に言ったりとか、うちの学校の掲示板で悩み相談するっていう手もあるけどね。ナギ君は見た?」
「あ、ああ。一度はログインするようにって言われてたから」
「やっぱり学校の掲示板だから、みんな真面目な話してたね。部活の募集が今は一番賑わってたけど」
朝谷さんは学校に来ない日もしばしばあるだろうから、困った時に相談できるような場所として掲示板に興味を持ったのだろうか。
俺でも良ければ相談に乗るよ、なんてサラリと言えればと思いながら、言葉にできない。俺の方こそ、掲示板で悩み相談したいくらいだ。匿名の先輩方が人生相談に乗ってくれるのかは、まだ詳しく見てないのでわからないが。
そのうちに担任の先生が入ってくる――まだ若い先生だが、風格はベテランというか、忌憚なく言って姉御という雰囲気だ。この学校の教師生活はそんなにやさぐれるものなのだろうか。
「みんなおはよう。今日も全員揃って何よりです。今日は先週言ってた通り、帰りのホームルームで席替えをします。どうしてもこの席がいいって場合は、各自根回ししておくこと。先生からは以上です。えーと、クラス委員は水曜日に決めるので、それまではそこの君、
「は、はい。きりーつ」
先生が一気に連絡事項をまくし立てたあと、授業前の五分休みで教室がにわかに賑やかになる。
あまり見たりするのは良くないと思ったが、鷹音さんの方を何となく見やる。すると彼女は、教室を出ていく先生を見ていた。
「…………」
何か話したいことでもあったのだろうか。朝谷さんの言っていた『挨拶参り』について、先生に相談したいとか――と、勝手にそんな心配をするのはよくない。
「乃亜ちゃん、昨日テレビ出てるの見たよー。あれって番宣ってやつ?」
「うん、そんな感じ……あ、でもそっちの名前で呼ぶのは学校ではNGね」
「ごめんごめん。でもうちのTLでもめっちゃ盛り上がってたよ、リュウトくんも出てたし」
リュウト――確か、
バラエティ番組では朝谷さんは天然キャラと言われているが、俺と話す時の彼女はそうでもないように思う。
気まぐれで掴みどころのない、けれど時々こちらを向いてくれる――まさに、俺にとっての猫のイメージそのものだ。うちの飼い猫も未だに俺にはなつかず、たまに寄ってくることがあったかと思えばおやつをねだっているだけだったりして、だがそれが可愛いから困ったものだ。
「リュウトくんと一緒でも全然緊張してなかったよね、朝谷さん」
「二人とも同じチームで息ピッタリだったから……ねえ? その、何ていうか」
「あはは、ネットの記事は信じちゃ駄目だよ。深川さんは仕事場で彼女は作らないって言ってたしね」
「えー、そうなんだ。朝谷さんくらい可愛い人なら……ってみんな言ってたよ」
朝谷さんは軽く笑って受け流す。それを聞いて安心しながら、いつか本当の交際報道が出たりしてしまったとき、俺はどう受け止めるだろうかと思う。
考えているうちに、朝谷さんの周りに集まっていた女子たちが急に声のトーンを落とした。それでも隣の席に座っているので聞き取れてしまう。
「朝谷さんって、隣の席の……えっと……」
「千田くんでしょ。名前くらい覚えてあげなよ、かわいそー」
「ごめんごめん。で、その千田くんと、同中だったんだよね。それで仲いいの?」
探りを入れられている――朝谷さんが俺と話すことがあるというのは、やはり違和感があると思われている。
「うん、中二のときから知り合いなんだ。そうだよね、千田くん」
「あ、ああ……」
「同中ならしゃべることもあるよね、それは」
「えーなにそれ。そんな言い方したら千田くんに悪いじゃん」
ずけずけと無神経に言ってくれる――だがそれよりも、『友達』と『知り合い』はほぼ同じ意味なのか、それとも皆の手前、そういう言い方にしたのか。そちらの方が気になってしまう。
女子たちが席に戻っていったあと、朝谷さんはスマホを机の下で触っているみたいだった――誰かに連絡してるのだろうか。
そう思っていると、机の横にかけたバッグの外ポケットに入れていたスマホが震えた。
『ごめんね、知り合いなんて言っちゃって。あの子たち大げさに話を広げちゃいそうだから』
言っていることと、思っていることは違う。そう分かっていても、こんなにジェットコースターのように感情を揺さぶられたら目眩がしてきてしまう。
『気にしないでいいよ』
そっけなく見えるかもしれないと思いながらも、そんな返事をするくらいで、今の俺にはいっぱいいっぱいだった。
本当に、俺は朝谷さんのことが何も分からないままだ。気まぐれで、掴みどころがなくて――けれどやっぱり可愛い。やはり俺とは釣り合わない、そんな美少女だということ以外は。