プロローグ 「付き合っている」は、突然過去形に変わる その1

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 人生の絶頂期というものがあるなら、俺にとってのそれは、間違いなく中学の卒業式が終わってから数時間後に訪れた。

 その日、二年近く片思いをしていた相手に告白し、OKの返事をもらった。

 それはもう嬉しいどころの話ではなく、帰宅後にずっとニヤついていた俺を見て母親が心配し、相談を受けた姉さんが「何か辛いことでもあった?」と泣きそうな顔で部屋に入ってきたくらいだ。

 彼女いない歴がそのまま人生の長さだった俺に、彼女ができた。

 しかも高校まで同じところに進学が決まっているのだから、人生はバラ色が約束されたようなものだった。

 ――しかし入学して数日で、どうやらそう甘くもないらしいと気がつき始めた。

 同じクラスになれたというのに彼女とはほとんど話せておらず、SNSでのやりとりもなかった。

 だから久しぶりに、今日の朝メッセージの着信表示に気づいたときは、遅れてバラ色の高校生活が始まったのかとそわそわして落ち着かなかった。


『今日早めに教室来れる?』

『学校で話したいことがあるんだけど、目立たない場所ってどこかあるかな』


 目立たない場所。俺も入学したばかりなのでとっさには思い当たらず、学校に着いてから彼女の思いつきで、屋上に続く階段の踊り場までやってきた。

 朝からこんなところに来る生徒はもちろんいなくて、声が響かないように気をつけさえすれば、目立たずに二人になれるような場所だった。

 彼氏彼女がこういう場所を密会――内緒話に使うのかと想像すると、急速に鼓動が速まり始める。

「朝からごめんね、連絡したの気づいてくれてよかった。しばらく話せてなかったよね」

「そ、それは、全然大丈夫だけど……」

 目の前にいる、信じられないほどサラサラした髪をサイドテールにした超美少女が、俺の彼女のはずなのだが。

 いまだに現実感がないし、何かここに来てから、無性に不安になってきている。

 何なんだろう、この落ち着かなさは。悪い予感が当たりやすい人生を送ってきたという事実が思い切り不安を煽る。

「ほら、私先週の金曜早退しちゃったでしょ。ナギ君に授業のことで相談したくて……五限目の数学の課題ってやってある?」

 ナギ君――その呼び方も『なぎ』という名前から、付き合い始めたあとにあだ名としてつけられたものだ。中学時代はせん君と呼ばれていて、今よりずっと他人行儀だった。他人だったのだから当然だが。

「ナギ君? どうしたの、ぼーっとして」

「あ、ああ、ごめん。えっと、課題ならやってあるよ」

「ほんと? 良かったー、まだ他の中学から来た子とかには相談しにくくて。ほら、仕事で休んどいて勉強ついてけないとか、この子なんでうちの高校来たの? って思われちゃいそうでちょっとね」

「それは、確かに……」

 屋上に続く階段の踊り場。『彼女』が選んだこんな人気のない場所に連れてこられたら、おいおい、朝から積極的だなとか、土日の間話せなくて辛かったとか、浮かれたことばかりが頭を埋めてしまうものだろう。

 しかし、俺が拙い受け答えしかできていないのは、浮かれているからというだけじゃない。本気で緊張してしまっているのだ。

 目の前にいるのは、テレビを通して見るときとまったく変わらない『きりたに』――そう、彼女は紛うことなき芸能人なのだ。

 中学時代のドラマ出演を経て、全国区の知名度を得ている人気者。

 本名は芸名とは違っていて『あさたにきり』という。

 彼女は中学二年のときに俺と同じ学校に転校してきた。芸能人として有名になったのは三年になってからだが、二年のうちから可愛いということで噂になっていた。

 初めて彼女を見たとき髪はショートボブで、活発で人当たりが良い女の子という印象だった。ほんの少しの接点で好意を持ってしまうくらい、自分でも生まれて初めてというほど惹きつけられた。

 そんな最初の頃のことを思い返している俺は、やはりショックを受けているんだろう。これは、恋が終わるときに見る走馬灯なのかもしれない。


「やっぱりこういうとき、頼りになるのはナギ君みたいな同中の友達だよね」


 ――終わった。こんな一言で、けれどはっきりと、明確に、恋は潰えた。

 告白してOKされたのに、『彼氏』ではなく『友達』に変わったりするものなのか。そんなきっかけがどこにあったかと言われたら、あらゆることがそうだったように思えてきてしまう。

「さっきの授業もありがとね、当てられちゃったのに助けてくれて。隣の席がナギ君でよかった」

「それくらいなら全然、その、当然っていうか……」

「えへへ、ありがと。持つべきものは友達だね」

 また『友達』と言われて、それを否定できない。

 彼女には全然悪気がないように見えて、それがますます俺を追い詰める。

 あの卒業の日の告白は、夢だったんじゃないか――いや、本当の俺はまだ中学生で、事故にでも遭ってずっと目覚めずにいるんじゃないだろうか。

 現実逃避もいいところだと分かっている。なぜ『友達』の扱いになっているのか、その理由を彼女に聞くこともできない。

 春休みを挟んで高校に入ってみたら、次第に目が覚めて現実が見えてきたのか。

 あの場はとりあえずOKしたものの、やっぱり付き合うのはNGになったのか。

「ねえ、ナギ君は新しい友達ってできた?」

 この会話の先にあるものが何なのか、それが嫌でも想像できてしまう。けれど、踊り場から一段階段を下りたところで朝谷さんが見上げているから、俺は追い詰められた形で逃げることもできない。

「一応、周りのやつと昼飯一緒したりはするけど……」

「あ、私も。もうクラスの中でグループできてるから、そのうちの一つに入れてもらえたの。友達できるかな計画、おたがい大丈夫そうだね」

「ど、どうだろう……」

 いずれ、朝谷さんと一緒に弁当を食べられる日が来るかもしれないとか。朝谷さんが弁当を作って来ようか? なんて言ってくれたりとか。そうでなくても、俺が弁当を作るというのでもいい、こういうときうちの姉はウザいくらいに協力してくれる。

 そんな想像がすべて、泡みたいに弾けて消えていく。バラ色の未来が色を失っていく。

 俺たちが彼氏彼女として過ごせる可能性は、今日より前になくなっていた。俺はそれに今まで気づかなくて、現実を受け入れられずにいるだけだ。

「ナギ君も友達できたら忙しくなっちゃいそうだけど、また勉強教えてって言っても、できれば邪険にしないでね」

 邪険になんてするわけがない。させてもらえるような身分じゃない。

 新入生の中でも最も目立つ、いわばカースト最上位の彼女と、一般人の俺。こうやって話しているところを見られないようにしているのも、彼女に迷惑をかけないようにというのが大きかった。

「あ、もうそろそろ行かなきゃ。ごめんね、わざわざこんな用事で来てもらって」

「あ、ああ。ノートは教室に帰ったら渡すよ」

 隣の席で渡しやすいとはいっても、彼女は常に注目されている。クラスにも朝谷さんのファンがいて、彼女を見ると露骨に態度がおかしくなったりするくらいだ――それはそうだ、俺は有名になる前の朝谷さんを知っているが、同中以外の生徒にとっては芸能人の『霧谷乃亜』なのだから。

「……ねえ、ナギ君」

「えっ……な、何?」

 このまま先に行ってしまうのだろうと思ったが、朝谷さんはそうせずに、俺を見上げていた。

 一瞬だけ、その表情がいつものように明るいだけじゃないように見えて――それは本当に、ほんの一瞬で。

「新しい彼女できたら、良かったら教えてね」

 そう言って、小さく手を振って、朝谷さんは階段を下りていった。

 彼女が告白を有耶無耶にしたとか、『彼氏』というふうには俺を見られなかったとか、そういうことの方がまだ望みは持てた。

「……やっぱり俺、フラれたんじゃねえか」

 普段の俺は、敬語は使わない。朝谷さんに対しては、中学の頃からずっと敬語で――その他人行儀な振る舞いから、付き合い始めてから終わりまで脱却できなかった。

 フラれて当たり前だ。憧ればかりが先走って、好きだというだけで何とかなると思っていた。付き合ってからいろいろ分かるものなんだと、行動せずに期待だけ膨らませていた。

『彼女』ですらなかったというのは、朝谷さん自身が否定したようなものだ。俺のことを彼氏だと思ったことすらなかったのなら『新しい彼女』なんてわざわざ言わない。

 じゃあ俺はやっぱり、朝谷さんが自分のことを俺の彼女だと思ってるうちに、彼氏としてふさわしいことをできなくて、それでフラれたというわけで。

 なぜダメだったのかを教えてくれとか、そんなふうにみっともなく縋りついたら、元彼氏どころか、視界に入れるのも忌々しい存在にまで落ちてしまう。

「ぐぁぁ、死にたい……」

 全身から力が抜けるような気分で、階段を数段下りたところでその場に座り込んだ。

 下の階からは、登校してきた皆のガヤが大きくなってきている。けれど予鈴が鳴るギリギリまで、この場を動く気になれなかった。

 朝谷さんとSNSでメッセージのやりとりはできるし、ノートを貸すという約束もあるから繋がりが完全に切れているわけじゃない。

 しかし席替えがあるので、席が離れれば必然的に話す機会も減る。忙しい彼女にメッセージを送って煩わせるとか、そういうのは絶対駄目だ。

 そうやってちょっとずつ疎遠になって、フェードアウトしていく。そうしたら、俺は彼女を好きになったことも、付き合えたと思った幸せも忘れていけるんだろうか。

「……ん」

 スマホが震えて、メッセージが届く。さっき別れたばかりの朝谷さんからだ。

『そろそろ戻ってこないと先生来ちゃうよ~。私が代返しとこうか?』

「いや、バレバレだろ……っ」

 こんな冗談めいたメッセージを送ってくるあたり、朝谷さんの中では俺をフッたことは特にヘビーな出来事じゃない。これから一年同じクラスなのだから、それは俺としては助かる。胸に刺さったトゲのような痛みは無視するとして。

 俺は立ち上がり、階段を駆け下りていく。時間ギリギリで教室に滑り込んだ俺を見て、朝谷さんは『友達』の顔で笑ってくれるんだろうと思いながら。

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