後日談EX2 田島雅はやきもち焼き
「あたし、大きくなったらパパと結婚するー!」
我が家のリビングにて。ソファに並んで座っていた俺の娘が無垢に笑ってそう口にした。目の前にあるテレビでは、娘と一緒に見ていたアニメ映画のエンドロールが流れている。どうやらエンディングで主人公とヒロインが結ばれて結婚式を上げていたシーンに触発されたらしい。
「はは、そっか嬉しいな。期待して待ってるよ」
俺は優しく微笑んで我が子の頭を愛おしむようにゆっくり撫でる。今で五歳になる俺の娘のミサキ。あと何年、こんな嬉しいことを言ってもらえるだろうのか。
たぶんどこにでもあるような、父と子のやり取り。
が、それをよしとしないものが、すぐ隣にいて――
「だ、駄目だし! パパはママのものだから、ミサキは他の子と結婚しなさい」
娘とは逆側に座っていた妻の
「いやー。あたしもパパと結婚するのー」
雅の強い視線に怖じ気付くことなく、対抗するようにミサキも俺の腕にしがみつく。
何だこのプチ修羅場……。
胸中で両手に花なこの状況に苦笑しながら、俺は雅の方に向けて囁いた。
「おいおい子供の言うことだろ。何ムキになってんだよ」
「わ、わかんないじゃん。子供の言うことだと真に受けずに流してた結果、もし最初からずっと本気で
「死ぬって大袈裟な……。ミサキの本心はともかく、そもそも冷静に考えて俺が実の娘をそういった目で見ると思ってるのか」
「思う」
「へ?」
「だってこの子、小さい時のアタシにそっくりなんだよ。ってことは、アタシを好きになった愛斗がミサキを好きになる可能性だって十分ありえちゃうわけだよね。そうなったらもう、若さで圧倒的にアタシが不利じゃん」
大ピンチとばかりに顔を青くさせる雅。そうは絶対にならないから安心して欲しい。
「あーもうこんな時間だ。俺はミサキを風呂に入れてくるから、雅は夕飯の準備をしてくれるか?」
余り深入りしすぎるのはよくない。そう直感的に悟った俺は、ちらり時計を見るとミサキを抱っこして立ち上がった。
が、雅に服の裾をぎゅっと握られて引き止められて、
「ほらぁ、言った傍からアタシを除け者にしてミサキとえっちなことするつもりじゃん……」
「おい、何でそうなる」
♡ ♡ ♡
あたしは田島ミサキ。今年十三歳になる中学一年生だ。
中学生になって早半年。といっても体感的には子供にちょっと毛が生えた程度で、心も体もまだまだ発展途上中なあたしだけど、それでも小学生の頃にはちっとも疑問にも思わなかったあることが最近無性に気になって仕方がなかった。
それは――
「スンスンスン――へへっ、愛斗の匂いがする♥」
……うちのママはヘンなのかもしれない。
お家のリビングにて。パパの洗濯物に顔を埋めて気持ちよさそうな表情をしているママに、あたしは呆れた視線を向ける。それはもう、中学に上がってからパパとあたしの服を一緒に洗わないでとお願いしてるあたしにとって、理解し難い光景だった。
それだけじゃない。
友達の話によると、普通の家の母親は父親のいないとこで娘や周囲に向けてよく旦那の愚痴をこぼすものらしい。ずっと一緒にいると息が詰まると。小学生の頃は夫婦って好きな人同士でなるものだから、ずっとラブラブなのが当たり前だと思っていたけど、中学に上がってそうじゃないことを知った。そりゃあ、あたしが生まれる以上も前から一緒にいるのだから愚痴の一つや二つ、あって当然だと思う。娘のあたしですら、パパには色々と言いたいことがあるのだから。
けど、あたしはママからパパの悪口を全く聞いたことがなかった。ママは言いたいことをズバッと口にするタイプだから、心の奥にため込んでるってわけでもなさそうだし。
そんなママだけど、たまにパパに対してもの凄い不満そうな顔をすることがある。
それは、パパがママ以外の女の子と仲良くしている時だ。
仲良くと言っても、普通に日常的なお喋りをしている程度のレベル。それでもママにとっては面白くないらしい。この前、家庭訪問でうちの担任だった美人先生が来た時のこと。ママは出かけててパパが対応したんだけど、その最中に帰ってきたママが談笑する二人の姿を目にした時の顔と言ったらもう、寒気を覚えるくらいぞっとするものだった。家庭訪問終了後、先生が座っていた場所をまるで汚物を扱うがごとく徹底的に消毒していたママ。何がママをあそこまで駆り立てるのだろう。そういやあの家庭訪問以降、その先生がよく「お父さんは元気?」とか聞いてくるようになったんだけど……うん、余計なことは言わない方がいいよね。
ほんと、あんなパパのどこがいいんだろ? 特にイケメンでもなければ、運動会の保護者参加リレーで一回走るだけですぐヘトヘトになるへっぽこだし。お医者さんなのは凄いと思うけど、家では単なるぐうたら怠け者にしか見えないんだよね。後、最近ちょっぴり臭う気もする。
ま、かくいうあたしも、小っちゃい頃は「大きくなったらパパと結婚するー!」なんて口にしてたらしいけど……。
「ねぇママ」
「ん、どうしたのミサキ?」
「あたしが未だにパパと結婚するの狙ってるって言ったら、どうする?」
好奇心に駆られるがままに尋ねてみる。
すると、ママは驚いたかのように目をぱちくりと見開くと、数秒後神妙な顔つきになって深くため息を吐き出した。
「はぁ……遂にこの日がやって来たってわけね。思ってたり早かったなー。先に言っとくけど、アタシ実の娘が相手だからって、パパのこと譲る気ないからね」
え、何この反応!? ママの背からヒリヒリとしたオーラが漂ってるつーか、何か蛇に睨まれてる感じがして怖いんだけど……。
戸惑うあたしを余所に、ママは何かを思い出すように天を仰いだ。
「思えばミサキが最初にパパと結婚するって言い出したのは五歳の時だっけ。あれから早八年、ママがなーんの対策もしないままでいたと思う?」
「へ?」
お、思うでしょ。だってあんなの子供の戯言じゃん。現にあたしは、今の今まで忘れてたくらいだし。真に受ける方がおかしいじゃん。
「確かにミサキはママに似てるし。親のひいき目抜きにしてもかわいいと思う。けどね、結婚ってかわいいだけで長続きするもんじゃないんだよ。パパは家だとなーんもしてない人に見えるかもだけど、実はアタシが意図的にそうさせてるの知ってた? お仕事が大変なパパに家では楽して欲しいってのもあるけど、パパにはママが必要だと身に知って欲しい部分もあるんだよねぇ。今更そんなパパを、ミサキが満足させられるとは悪いけどママ、思わないなぁ」
ママがにっこりと笑う。それはどう見ても笑顔のはずなのに、恐怖しか感じられなかった。し、知らない。パパって単なるずぼら人間じゃなかったの?
「特に料理。料理研究家であるアタシを差し置いてパパの舌を唸らせるのはなかなか難しいと思うなー。長い結婚生活の中で、パパの好みはばっちり把握してるし。パパだって今更ママの料理なしじゃ生きられないんじゃないかなぁ」
ママが自分の仕事をひけらかしてしたり顔になる。そういや田島家って、焼き肉とか寿司でもない限り、ほぼほぼ外食ないんだよね。パパが食べたいってリクエストしたもの、ママが殆ど完璧に作れちゃうから。
「と、まぁこんな感じだけど、それでもミサキの気は変わらない感じ? やっぱママとしては実の娘と出来れば争いたくないわけだから、諦めてくれると嬉しいなぁ」
「も、もーやだなぁ冗談に決まってるじゃん。ちょっとからかいたくなっただけっていうか、ママったら本気にしないでよね。ほら、よく考えてみてよ。あたし、自分の洗濯物とパパの洗濯物を一緒に洗わないでってお願いしてるじゃん。普通、結婚したいと思ってる人相手にそんなことしないでしょ」
これ以上はやばい。本能がそう訴えかけてきたような気がしたあたしは、苦笑して必死に言葉を並べた。
「……あ、なんだ冗談か。もーミサキってば、本気かわからない冗談はやめてよね。心臓に悪いじゃんか」
ほっと胸に手を当ててヒリヒリとしたオーラを収束させたママが、人懐っこい笑みを浮かべる。いや、今の話を真っ直ぐ本気だと受け取るの、たぶんママくらいだと思うよ……。
「ねぇ、ママって、どうしてそんなにパパのことずっと大好きなの? 友達の話とか聞いてるとさ、普通の家庭は少しは愚痴とか不満とかあるみたいだよ。ずっと一緒にいたら息が詰まるって」
「んー余所はどうかしんないけど。アタシはパパに人生救われてるところあるからさー」
「人生救われてる?」
初めて聞いた、そんな話。
「そ。人生ノリでなぁなぁに生きてきたアタシを、ちゃんとしたレールに乗せてくれたのがパパだからさ。パパと出会わなければ、まず大学になんて行ってなかっただろうし。この料理研究家なんて天職にありつけたのも、医学部の勉強で忙しいパパに美味しいものを食べさせてあげたのがきっかけだったしね」
「へーそうなんだ」
「そう。パパはママにとっての運命の人なの!」
そう言ってはにかんだママの笑顔は、それはもうとっても幸せそうだった。
正直、まだあたしには恋ってものがよくわかってないし、興味あるかって言われたら微妙なラインだ。
けど、いつかはママにとってのパパみたいな存在に巡り合えたらいいなって、そう思ったのだった。