◆第二条 異世界でも、大法廷の秩序を乱してはならない

 ピンクに染まった視界で、見えてきたのは巨大な天秤だった。 

 神々しい黄金に、禍々しい赤い錆。

 人が乗れるほどの二つの皿を吊らし。

 魔法のように浮いていた。

(これは……いったい……)

 天秤は、視界の下方から、浮き上がるように現れて。

 真っ正面、目と鼻の先、すれすれを、上昇していく。

(違う、俺が落ちているんだ)

 立っている感触がない。

 脚をばたつかせるが、宙を蹴る。

 身体は、ゆっくりと、下降しているようだ。

 重力ではない、なにか他の法則をもって。

(どこに?)

 すでに頭上に位置する魔法の天秤から眼を落とし。

 着地しようとしているところを見れば。

 地上は、十数メートルか、下にあり。

 ぼんやりと見えるのは、長大な机に、人影が二名、

「……もう、有罪にしましょう……」「……できませんわぁ……」

 と、話しているのが聞こえる。

(裁判を、しているのか)

 観察する俺の視界を、上から現れた、濃いピンクに光る物体が塞いだ。

 思わず両腕を前に出す。

 まるで──お姫様抱っこをするような、姿勢になった。

 どこかで、誰かが、「天窓から、人が」と言った。

 ついで、驚き、狼狽、好奇……人々のざわめきで騒がしくなる、その場に、

 トン、と着地した──

「えっと、ここは……」

 視界が、晴れていく。

 降り立ったところは、巨大な円形の空間だった。

 広さは、高校の教室でいえば十個分ほどはあるだろう。その壁面は、グレーの花崗岩を用いたようで、厳めしい。

「最高裁判所の、大法廷、みたいな、場所だな……」

 昔、学校の社会科見学で入ったことがある。

 その時は、傍聴席に座っただけで、立ち去ったけれど。

 今、いるところは、ほとんどすべてを見下ろせる。裁判官の法壇の上にいるようだ。

 自分の記憶で白昼夢でも見ているのか。

 戸惑い、呆然と立つ、俺に対して、

「あ、あなた様が──」

 背後から声をかけられ、振り向く。

 裁判官席に座る、ピンクのメイド服を着た女の子からだった。が、

「エクスタシア様、危険です! お下がりください!」

 鋭い声。家臣らしき、スーツ風の衣装を着込み、メガネをかけた女性が、女の子の前に立ちはだかった。

 さきほど『有罪にしましょう』と言っていた声の持ち主だ。

「勇者の裁判を妨害しようとする、不法侵入者かもしれません!」

「勇者の、裁判だって?」

 そのキーワードは、自分の中のどこか本能に近い場所を刺激した。

 俺は首を捻り、法廷の中を見る。

 ──いた。

 証言台と傍聴席の間に設けられたベンチの上には、老年の男性がぎようしていた。

 手枷をはめられ、古びた革の鎧を着ている。ぼうぼうに伸びた白髪。酔っ払った赤ら顔で、いびきをかいて寝ている。周囲には、空になった酒瓶や食べ物のカスが散乱していて、まるで何週間もこの場所にいる、浮浪者のような状態だ。

(あんなのが、勇者? それを、裁いているのか?)

 さらに周囲を観察すれば。

 向こう、傍聴席には、数人程度の人影。

 見上げると、大法廷の天井には、焼えて溶けたような大きな穴が空いていた。

 そこに浮かぶのは、自分の身体が降りていく時に見た、巨大な天秤。

 魔法のような天秤の周囲には、魔法のように浮かぶVRヴアーチヤルリアリテイじみたウィンドウがあり、

【勇者ご一行焼殺事件】

【開廷中】

【お裁き中は☆ご静粛に☆】

 と、ピンク色の文字がフワフワと浮いていた。

(この有様で、裁判中だというのか)

 目の前に広がる現実離れした光景に、あっけにとられてしまう。

「エクスタシア様。残念ですが、召喚魔法は失敗したのです」

 背後では、先ほどの家臣があるじらしき女の子に、諭すように、「召喚されたとしても、このような少年と少女なはずはないのです」と話している。

 思い出し、気づく。

 両手で抱っこしている、物体……

 その全てを覆っていた濃ゆいピンクが、消えていた。

 魔法が終わったかのように、ズシリ、と重みを感じ。

 そこに現れていたのは、

「ふぇ?」

 大きく美しい瞳の、美少女。あどけない、まだ産毛が額に残っている顔立ち。

 それでも居酒屋にいた時と同じ私服を着ている、これは──

「ツカ姉が、若返ってるっ」超常現象に、自分の眼を疑う。

「そう! ホンモノの、ニホンの、裁判官様が、若い娘なわけありませんからなぁ!」

 ビクンっ!

 姉らしき少女は、跳ねるように、俺の腕から飛び降り、法壇の奥の床に着地し、

「ナメた口をきいたのは貴様か」

 仁王立ちで、地獄の閻魔のような恐ろしいガンをつけた。

 背丈は150センチ半ばくらいになっていて、はだけたブラウスが落ちようとするも、胸のあたりで止まる。反則的な細身巨乳の肉体……そんな身体にもかかわらず、発せられた異質な凄みオーラに、スーツ衣装風の家臣は「ひ、ひぃっ!」と怯んだ。

 あらためて見ると、メガネのかかった耳が、長い。怯えてパタパタと動いている。

(もしかして、エルフか……ハーフエルフかな?)

 俺は姉に続くように、法壇から降りながら、その様子を注視する。

「お姉ちゃんわかったわ。ここ、あっくんの夢の中でしょ」

 周囲を見渡した上で、あっけらかんと、「だって、大法廷に証言台なんてないもの」と言ってのける。

「宙に浮かんでる天秤じゃなくてそこか。その発想、ほんとにツカ姉だな」

 目の前の人物は、姉だ。確信した。

「お姉ちゃん飲み過ぎると、あっくんと一緒にいる夢見るからさ。ひっく!」

「俺、起きてると思うんだけど」

「でもね。お姉ちゃんは、たとえあっくんの夢の中でも、ひっく! こんな若造にナメられて、引き下がったりしないわ。ひっく!」

「ツカ姉こそ、ちっちゃめの女の子になってるんだけど」

 鏡でも見せないとわからなさそうだ。

「あれ……【開廷中】って、ここでなにを……ん?」

 姉が、そして俺も、法壇の異様な状態に気づいた。

 ビッシリと、一面に、ピンクの魔法陣が刻まれていたのだ。

(ひょっとして、この魔法陣が、召喚魔法で……姉の身体を変えたのか?)

 思い返せば、居酒屋でこれに似た魔法陣を見た気がする。

「落書きだらけの法壇に──この、赤い球は、なに」

 と、姉が指さしたのは、法壇の上に置かれた球体だ。

「【嘘発見のオーヴ】ですわぁ!」

 家臣の背後から、ピンクのメイド服の少女が、無垢な言葉で答えた。

「嘘偽りの反応で、真っ赤になって、もうずっと、裁判が進まなくって困ってますの──」と続けるのを、エルフ耳の家臣が「エクスタシア様っ」と遮った。

 ……魔法の道具を使って裁判をしていた、と。

 それがうまくいかなくて、停滞して、今の閑散とした状況になっているわけか。

「裁判官の机に、嘘発見器などいらない」

 現状の有様は、姉の裁判官魂に火をつけるのに充分だった。

「裁判は真実を正しく映さなければならない。法の下で明らかにされる真実性とは、嘘発見器なんぞにもたらされるものではない。近代法は、器械による裁判を求めていない。あまつさえ器械に依存するなど言語道断」

 滔々と、語る。

 我妻ツカサの身体は、真っ赤な宝玉を身体の正中線上に捉えていた。

「たとえおかしな夢の中だろうと、裁判所として──」

 握った右手拳を、頭上高く掲げ、

「不正をぉ、許しはしなぁぁぁいッ!」

 ハンマーのように、振り下ろした!

 バッキャアァァァ──

【嘘発見のオーヴ】は、粉々に砕け散った。

「あっくん、見てた? ひっく! お姉ちゃん、格好良かった?」

 こっちを向いてそう言う姉の笑顔が眩しい。

 後ろから、「王家の、こ、国宝級の、スーパーレア魔道具が……突如出現した、娘に、わ、割られてしまった──」家臣が、「げ、現行犯逮捕!」と叫ぶ声。

 その合図よりも先に、疾風のように動いた、忍者のような人影があった。

「きゃっ!」

 姉の身体が、背後から、引き倒され、

「ツカ姉──うわっ!」

 間髪を入れずに、俺も倒される、脚を払われたのだと、仰向けになってから気づく。

 大法廷のカーペットの上で、あっという間に、両手を頭上に上げた体勢にさせられる。

 仰向けの視野に、パラリ、と落ちてきた縄が、魔法のように俺の下半身を拘束した。

「王家に害意を向けた危険人物と判断しました。拘束します」

 手首を拘束するのは、金属底の特殊なブーツ。

 片足で俺の両手首を、もう一方で姉の両手首を固定しているようだ。

 踏みつけることで相手を地面に張りつけるデザインをしているのだ。

 二つの縄の端を持ち、視界の中、上下逆さまで見下ろしてくるその姿は──

「すごいな、ホンモノの、異種族……犬耳のメイド……」

 雪のように白く美しい肌。全身を包むのは、露出の多い特殊なメイド服。作り物のように整った顔立ちに、薄氷じみた碧眼が、眼下の俺をジト眼で見据えている。その頭部には、フワッと豊かな白銀の髪に、可愛らしい犬耳が生えている。

「エクスタシア様。この者らを、いかがなさいますか」

 こちらを窺う彼女の瞳は、感情の揺らめきがない。

「この場で、喉笛を──」

 口から覗く鋭い犬歯は、獲物を仕留めるために使うのだろうか。

 このメイドには、主の命令次第で、人の始末くらいはしそうな雰囲気があった。

 最後の許可を求めるような口調に、しかし。

「いいえ! こちらのお方は──おジャッジ様ですわ!」

 この場に似つかわしくない、朗らかな声がする。

「エクスタシア様、なにを、」と言う家臣に対して。

「だって、ほら。ご覧になって」

「おぉ、【の赤錆び】が……」

 宙に浮かぶ天秤に、異変があった。

 巨大な天秤を覆っていた、禍々しい赤錆びが煌めき、剥がれ、消失していく。

「エクスタシア様のお身体からも……」

 犬耳のメイドが向く方から、同じ煌めきを感じ。

 首を捻って見れば、王女の身体にも付着していた赤い錆が、消えていくところだった。

「疑いを裁いてくれた、おジャッジ様のおかげですわ!」

「いや、しかし……エクスタシア様、ニホンの裁判官は、十代ではなれないのです! 信じるのは危険です! 今のは偶然であるとしか……」

 二人が話しているのが聞こえる。

 肝心の姉は、「破片がチクチクする……え、これ夢じゃないの……」といまだ酔いどれの状態だ。

「あの、すみません」

 俺は、視界の隅に、一緒に落ちてきた姉のバッグを見つけていた。

「姉は、裁判官です。そこのバッグの中の財布に、職員の身分証があります。ほんとは二十八歳ってことも、わかると思います──」

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