前世の記憶を思い出してから、四ヶ月が過ぎようとしていた。
その日の夕方も、私は治療院から帰るなり王宮の図書館に向かった。周りに人がいないのをいいことに、いつもの席に陣取って持ってきたノートを開く。私はため息をこぼした。
このノートには、前世の記憶と今世で私が経験したことがメモしてある。それらを何度見比べても、やっぱりわからない。今、一番好感度の高い攻略キャラは誰なんだろう?
たぶんラルスは違う。彼のアナリーに対する思いは忠誠心のようだし、ぶっちゃけ最近は彼より私の方がアナリーといちゃついている。だってアナリー、かわいいんだもん。
じゃあレナルドかと思いきや、それも違う。彼は光の乙女を探すべく、教会へ通って乙女候補たちに面談までしたらしいけど、そこにアナリーはいないんだよね。
ゲーム中では、下町を散策中に怪我したレナルドの手当をアナリーがすることで、二人は出会うはず。しかし、そういった話はまだ誰からも聞いていない。
残る攻略キャラは第二王子のリアムだけど、やっぱりこれも違うんじゃないかな?
リアムは自分の部屋に引き籠もってばかりいて、同じ王宮住まいの私ですらあまり会うことがないんだもの。当然だけど、アナリーと出会わなければ、何も始まらない。
このままアナリーが誰とも恋愛せずに分岐点となる舞踏会イベントを迎えたら、どうなるんだろう? 攻略キャラが決まらなくても、私は殺されちゃうの? そんなの嫌だ!
ノートをにらみながら、思わず頭をかきむしった。その時だった。図書館の奥の方で、ドサドサッと雪崩を打って本の落ちる音がした。え、誰? というか今の音、大丈夫?
「あの、すごい音がしましたけど、平気ですか?……って、リアム?」
秘密のノートを抱え、化学の棚を覗きに行った私は驚きに目を瞠った。
本棚の上の方にある本を取ろうとして、失敗したのだろう。床に落ちた大量の本に囲まれ、涙目になったリアムがダークブロンドの頭を押さえている。
「リアム、大丈夫? 怪我してない?」
リアムがハッとして振り返る。長い前髪の下から覗く顔は驚きに満ち、やがて今の失敗を見られて恥ずかしくなったのか赤くなり、最後に私の顔を見て真っ青になった。
「ご、ごめんなさい。僕……」
「もしよければ、本の片付けを手伝うわよ」
「いえ! 大丈夫です!」
リアムが勢いよく立ち上がる。彼はさっきの失敗が嘘のように機敏な動作で落ちていた本を拾い集めると、私に向かってぺこりと頭を下げた。
「僕はこれで……その、失礼します!」
リアムはその礼儀正しい挨拶と裏腹に、脱兎のような勢いで図書館を飛び出して行った。
何もそこまで恐がらなくたっていいのに……。まぁ、今までの私の言動を思えば、リアムがそうなるのも仕方ないか。前世を思い出す前の私は他の多くの貴族たちと同じように、「リアムは王族にふさわしくない」と、彼の陰口ばかりたたいていたからね。
次にリアムに会うのはいつになるだろう? 今度は少しでも普通に話せたらいいんだけど。
私はため息を吞み込み、席に戻った。ノートに書いたリアムの項目を更新し、今後の破滅対策に思いを馳せる。そうこうしているうちに、夜はだんだんと更けていった。
◆◆◆◆◆◆◆
「お姉様、お顔の色が優れませんが、大丈夫ですか?」
アナリーが心配そうに話しかけてきたのは、翌日の治療院でのことだった。
いけない。仕事中なのに、うっかり船を漕ぎそうになっていた。
「昨日は調べ物をしていたせいで、寝るのが遅くなっちゃって。あ、カルテの整理は終わったから安心して。今週は喉の痛みを訴える患者さんが多かったわね。乾燥してるからかしら?」
私は説明しながら、患者さんのデータをグラフや表にまとめたノートをアナリーに渡した。
アナリーが最新のページにざっと目を通し、感嘆の吐息を漏らす。
「いつもありがとうございます。お姉様がこうやって患者さんのデータをまとめてくださるおかげで、薬草の在庫管理や準備もすごく楽になったんですよ」
「そう? 役に立てたのなら、嬉しいわ。私もあなたを過労で倒れさせたくないからね」
私がさらりと答えた、その瞬間、アナリーが不満そうに唇をとがらせた。
「その言葉、そのままお姉様にお返しします。お忙しいのはわかりますが、どうか睡眠時間はしっかり確保なさってください。いくら私が元気でも、お姉様が倒れては困ります」
「うっ……うん、そうだよね。ごめん」
アナリーの言う通りだ。せっかく治療院も軌道に乗ってきたのに、ここで私がダウンするわけにはいかない。私が今夜は早く寝ようと思っていると、アナリーがフフッと笑った。
「お疲れのお姉様に、今日はいいものがあります。少々こちらでお待ちください」
急にどうしたんだろう? アナリーがいたずらっ子のように目を輝かせながら、奥に引っ込んでいく。やがて戻ってきた彼女の手を見た瞬間、私は顔が引きつるのを感じた。
もしかして私、アナリーへの愛情を試されているのかな? 彼女が持ってきたグラスは縁の際まで青緑のねっとりとした毒々しい液体で満たされていたのだ。
「最近お疲れのようでしたので、疲労回復に効く薬草をブレンドしてみました」
アナリーが善意百パーセントのキラキラした目で見上げてくる。いや、待って。薬草にしても、この乾いた牧草のような匂いはヤバくない? 飲んで平気なの?
「お姉様、薬草は苦手でしたか? なんか表情が険しくなっていらっしゃるような……」
「え、そんなことないわよ? わーい、ありがとう。早速いただくわね」
アナリーが私のために作ってくれたものをむげに扱えないでしょう。良薬は口に苦しと言うし、多少は我慢して……うっ、何これ! もったりとして青臭く、まずさに隙がないだと!?
ちらっとアナリーの様子を窺うと、彼女は聖女のように清い笑顔で私を見守っている。
リバースだけは絶対にダメだ。アナリーを悲しませてしまう。ここは耐えるんだ、自分!
私は足を踏ん張って仁王立ちになり、胸を張って腰に手を当てた。頭の中にあるイメージは温泉牛乳の一気飲み。この勢いで最後まで飲みきってみせる!
私が固く決意した、まさにその時、後ろで治療院の扉の開く音がした。
「こんにちは……って、お嬢ちゃん!? 何してんだ!?」
「ヴィオラ様? その格好はいったい……」
ラルスがダミアンを連れて来たようだが、今の私に構っている余裕はない。
最後の一滴まで飲み干した私は力尽き、近くの椅子にドサッと倒れ込むように座った。その手からカランと音を立ててグラスが転がり落ちる。ラルスはその音で我に返ったらしい。
「アナリー様! まさかあの薬草ジュースをヴィオラ様に飲ませたのですか?」
「え、ええ。疲労回復にいいと思って」
「ダメじゃないですか! あれは鍛練を積んだ騎士でも卒倒するほどのまずさなんですよ!」
私はなんてものを飲まされたんだろう。道理で死ぬほどまずいはずだ。
かすかに目を開けると、ダミアンがこちらを見下ろしながらニヤニヤ笑ってるのが見えた。
「大の男が気絶するほどまずい薬を仁王立ちで一気飲みかぁ。ただもんじゃないと思っていたが、惚れ惚れするほどの男前だねぇ」
「お姉様、ごめんなさい。私はこういう仕事をしているせいか、薬草に対する味覚が人とずれているのかもしれません」
アナリーがしゅんと肩を落とす。私は見ていられず、残った力を総動員して微笑んだ。
「アナリーは私のためを思って行動してくれたんだから、気にしないで。今回のことは、私の舌が軟弱すぎただけの話よ」
「お姉様……! 本当にごめんなさい!」
アナリーが抱きついてくる。その背中を「よしよし」となでていると、ラルスが新しいグラスを私の前に差し出してきた。
「もしよければ、お口直しにどうぞ」
「ありがとう、ラルス。……はー、甘くておいしい。これはなんのジュースなの?」
「……ただの水ですが」
「え?」
硬直する私を見て、ダミアンがゲラゲラと大声で笑い、ラルスとアナリーが苦笑する。
は、恥ずかしい! 水のおいしさが傷ついた心と舌に染み渡ったとはいえ、まさかジュースと間違えるなんて……!
「おかわり、いりますか?」
ラルスに聞かれ、私は首を横に振った。気まずすぎて、残りの水も飲めやしない。無言でグラスを見つめる私を、ダミアンが爆笑しながら見ていたことはきっと一生忘れないわ。
「それでダミアン、今日はなんの用? まさか私をからかいに来ただけじゃないでしょう?」
一息ついて落ち着いた私は治療院の外に椅子を出し、ダミアンと並んで座った。
「そうイライラすんなって。そんなに目をつり上げてちゃ、せっかくの美人が台無しだぜ」
「残念ながら、この悪役顔は生まれつきよ」
「それもそうか。悪い、悪い」
この男は……! 一度殴ってもいいかしら?
私の視線がきつくなったことを察したのか、ダミアンが笑いを引っ込める。
「冗談はこのくらいにしておいて、今日は瓶詰めのことで相談に来たんだ」
「何? 大量生産を始める前の試作段階で、何か問題が生じたの?」
「いや、問題は納入先の方だ。思ったほど瓶詰めの注文が取れてなくて、困ってる」
「え……」
ダミアンの答えを私は心底意外に感じた。瓶詰めのように便利で保存の利く商品があったら、絶対にヒットすると思ったのに。
「売れない原因に心当たりは? 具体的にはどういう人たちに営業をかけて、どういった理由で購入を断られることが多かったの?」
「うちとつき合いのあるビストロを中心に声をかけたんだ。だが、『普通に魚屋で魚が売られてるのに、なんでわざわざ瓶詰めの魚を買う必要があるんだ』と馬鹿にされたらしい」
「それは完全にターゲティングを間違えたわね」
「ターゲ……って、なんだ?」
いけない。つい前世の専門用語を使ってしまった。そりゃあ、わからないわよね。
「えーと……ダミアンは、魚を瓶詰めにして売ることの最大の利点はなんだと思う?」
「そりゃあ、長持ちさせられることだろう?」
珍しく自信なげに答えるダミアンを見て、私は「そうね」とうなずいた。
「じゃあ次に、そういった保存食を必要としているのはどういう人たちだと思う?」
「身体が悪くて、日々の買い物にも不自由してる奴とか……あ! 新鮮な魚介類を入手しづらい内陸部の人間なんてどうだ? 王都で人気の魚だって宣伝すれば、きっと売れるぞ」
「その案、すごくいいわね。ただ、私はそれ以上にもっと大口の顧客がいると思うの」
「そりゃあ、誰だい?」
「軍よ」
ダミアンが息を吞む。その目が「本気か?」と尋ねている。私は確信を持ってうなずいた。
瓶詰めのように保存の利く食料は行軍や訓練時の携行にピッタリだ。さらに魚の摂取によって栄養バランスを改善できるし、城や砦を攻められた時には籠城食にもなりえる。
唯一の難点は、瓶詰めは重く割れる可能性があることだ。この点はガラス瓶の強化・軽量化や缶詰の開発によって改善が見込める。だから、十分に商機はあると思ったんだけど。
私の説明を聞いたダミアンは、顎をなでながら「なるほどなぁ」とうなった。
「お嬢ちゃんの戦略はわかったよ。で、俺たちの瓶詰めをどうやって軍に売り込むんだ?」
「ダミアンに軍関係の知り合いは」
「いるように見えるか? どちらかと言やぁ、俺たちは軍に煙たがられる存在だぜ」
意味もなく胸を張るダミアンを前にして、私は頭を抱えた。
顔の広いダミアンのことだから、軍に知り合いの一人もいるだろうと思い込んでいた。だけど冷静に考えてみれば、彼みたいな義賊タイプの人間と軍人の相性がいいはずない。
一国の王女である私は一応軍につてがある。しかし、最近の私は貴族たちの間で「ヴィオレッタ様、国王試験のプレッシャーに耐えられずにご乱心」だの、「真面目に勉強する振りをして、裏で陰謀を画策している」だのと好き放題に言われている。
そんな私が軍に声をかけたら、どうなるか。ありもしない陰謀を疑われたあげく、王位簒奪のゲームシナリオに突入してしまうかもしれない。そういう身を滅ぼしかねないリスクはできる限り避けたい。でも、瓶詰めは売り込みたいし……どうしよう?
悩む私の耳に、その時、ダミアンがぼそっとつぶやく声が聞こえた。
「ひょっとして、あいつなら軍につてがあるんじゃないか?」
「誰? それってどういう人? 王都の商人?」
とっさに食いついた私の反応が意外だったのか、ダミアンは軽く目を瞠り、苦笑した。
「俺の知り合いに、ちょっと面白い奴がいてさ。噂では男爵家の次男だか三男だって話だが、とにかく顔の広い奴だから、軍に知り合いの一人や二人いてもおかしくねぇ」
「相手は貴族なのに、仲が良さそうね」
貧富の格差に憤っているダミアンのことだから、てっきり「王侯貴族は全員滅びろ」くらいに考えていると思っていたのに。
ダミアンにも私の疑問が伝わったのか、彼はちょっと照れくさそうに笑って答えた。
「あいつは特別さ。貴族の坊ちゃんのくせに気さくで、俺たちともよく馬鹿話をしてくれる。そうと決まりゃ、善は急げだ。今日は水曜日だから、いつものカフェにいるはずだ」
「ちょっと待って! まさか私も一緒に行くの?」
「何言ってんだ? こういう時、言い出しっぺが一緒に来ないでどうする?」
うっ、ごもっとも。ただ理屈はわかっても、私には同行したくない事情があった。男爵家の人なら私の顔を知ってるかもしれない。ダミアンの前で、私が王女だとバレたらどうしよう?
「相手は貴族でも本当にいい奴だから安心しなって。ただ、奴はかなりの美形だから、お嬢ちゃんはうっかり惚れないように気をつけな」
ダミアンが茶目っ気たっぷりに笑って、私の肩をたたく。これは何があっても私を彼に引き合わせる気だ。ここで過度な拒絶を示せば、逆に怪しまれるかもしれない。
私は仕方なくダミアンと並んで治療院をあとにした。今の私にできるのは、祈ることだけだった。その男爵家の人が、私を見てもヴィオレッタ王女だと気づきませんように、と。