第一章『突然の結婚』(2)
リムジンから降ろされたのは、山奥の料亭の前だった。
ゆったりとした日本庭園に囲まれ、玄関先には
才人の父親は天竜の長男だが、北条グループの役員というわけでもなく、ごく平凡なサラリーマン。その家庭で生まれ育った才人にとっては、日常的に足を運べる店ではない。
まだ祖父は到着していないようだったので、才人は外で待つことにした。高級な店の中にずっといるのは息が詰まる。
長椅子に腰掛け、山の空気を楽しみながら本を読んでいると、近くから声がした。
「な、なんで、あんたがここにいるのよ!」
顔を上げる才人。
「……げ」
そこに立っていたのは、天敵のクラスメイトの
「じーちゃんに呼ばれたからだが……お前は?」
「おばあちゃんに呼ばれたのよ。って、あんたには関係ないでしょ!」
「まあ関係ないが、先に聞いてきたのはお前だぞ?」
才人が指摘すると、朱音はぐぬぬと拳を握る。
ドアのところまで行って店内を
諦めて長椅子の方にやって来ると、才人から距離を置いて思いきり端に腰掛ける。後ろ髪を手ではね上げ、わざとらしくため息をつく。
「あーあ、せっかくおばあちゃんと食事できるって楽しみにしてたのに、あんたに遭うなんて気分が壊れちゃうわ。嫌な偶然ね」
「それは完全に同意だ。読書の邪魔はしないでくれ」
才人が本に目を落とすと、朱音は長椅子に手を突いて身を乗り出してくる。顔がぶつかりそうな至近距離で
「はあ!? 邪魔なんてしないわよ! 私が構ってほしがってるみたいに言わないで!」
「言ってない。お互い用はないんだから、しばらく黙ってろ」
「その態度が気に入らないわ! ちゃんと謝るまで黙らないから! 永遠に!」
「お前は俺が謝るまでついてくるつもりか」
「そうよ! どこにだってついて行くわ!」
言葉だけ聞いていれば
「うざすぎる……」
「うざいのはあんたの存在でしょ!?」
「お前の存在だ。十キロ圏内から消えてくれないか」
「あんたが消えればいいでしょ!」
才人とて、理由もなく朱音に苦手意識を持っているわけではない。こうも毎日突っかかってこられたら、げんなりするのも当然だ。親戚の
今日もまた言い争っていると、料亭の前にオープンカーが走ってきた。
ドゥンドゥンと大音量で音楽を鳴らし、磨き抜かれたボディも
運転席の男は
完全にパリピの
「じーちゃん?」
「おばあちゃん!?」
老いても
「あらあら、もう始めちゃってたのねえ。若い人はせっかちなんだから」
「部屋で待っていれば良かったのに。先に食べていても構わなかったんだぞ」
天竜が苦笑する。
「なんの話をしているんだ……?」
「さあ……?」
才人と朱音は顔を見合わせる。
そんな若人たちを置いて、朱音の祖母と天竜はさっさと料亭に入る。
「二人とも早く来なさい。いつまでそこに突っ立ってるんだ」
「二人って……俺と
「ちょ、ちょっと、どういうこと、おばあちゃん! 全然分かんないんだけど!」
追いかける才人と朱音。なぜ自分たちの祖父と祖母が知り合いなのか、オープンカーで
朱音の祖母が振り返った。
「今夜は四人で食事だからよ」
「なんで!?」
「大事な話があるのよ」
「コイツと食事会なんてムリよ! 気持ち悪すぎて確実に吐く自信があるわ!」
「同じく。せっかくの料理に失礼だ」
才人も主張する。
朱音の祖母がにっこりと
「諦めなさい」
「ふぎゅっ」
祖母に首根っこを
──この女を黙らせることができるヤツがいるなんて!
才人は軽い感動すら覚えるものの、その襟首も祖父に
「窒息死しそうなんだが、放してくれないか」
「死にはせんさ。逃げようとしなければな」
逃げなくても首が折れそうな握力。老人とは思えない。
料亭の従業員たちは口出しをしようとはせず、
四人が通されたのは、離れの個室だった。
広々とした和室に
まずは飲み物と共に突き出しが運ばれてくる。山菜と数の子の油
天竜は日本酒の
「まずは、このめでたい日に乾杯」
「……かんぱい」
朱音はふくれっ面でオレンジジュースのグラスを抱えている。
──めでたい……? なんのことだ……?
才人は胸がざわついた。疑心暗鬼になってしまっているのは、出入り口の戸が固く閉ざされているせいかもしれない。
しかしながら、天敵の女子が横にいる状況では、才人もくつろげない。
「おかわりお願いします」
朱音がグラスを仲居に差し出した。
「お前、さっきからオレンジジュースしか飲んでないな」
才人は思わず突っ込んだ。
「お
「俺もだ。胃袋を収縮させる成分でも出してるんじゃないか、お前」
「残念だわ、すごいご
「お前が量子単位まで消滅してくれた方が早いな」
才人と朱音のあいだで火花が飛び散る。
祖父母が
「わっはっはっ、二人とも仲が良くてなによりだ」
「ホントねえ。私たちの若い頃を思い出すわぁ」
「「どこが!?」」
才人と朱音の両方が声を上げた。料亭に来てからケンカしかしていない気がする才人である。天才天竜もついに衰えたのかと心配になる。
「結局、大事な話ってなんなんだ? 俺たちはどうしてここに呼ばれた?」
祖父母は視線を交わし、うなずき合った。孫たちを見据え、声を
「「結婚しなさい」」
「「………………は?」」
才人と
「今、結婚しろとか聞こえた気がしたんだが……なんの隠喩だ? いや、
「無理やり裏を読もうとするな。結婚しなさい」
朱音が机に手を突いて立ち上がる。
「い、意味分かんないんだけど! 結婚!? どういうこと!? 私たち、まだ高校生よ!?」
「十八歳なら結婚はできるわ。結婚しなさい」
朱音の祖母もはっきりと繰り返した。もはや聞き間違いではない。
天竜は深々と息を吐いた。机に肘を突いて姿勢を崩し、遠くを見るような目をする。
「ワシと
「千代さんって?」
「私が千代です」
才人の疑問に、朱音の祖母が答えた。
「若い頃のワシと千代さんは、ぶっちゃけ相思相愛だった……と思う。だが、すれ違いが続いて結ばれなくてな。ワシは
「それでオープンカー乗り回して千代さんと第二の青春を
才人がつぶやくと、千代は
「私の夫もだいぶ前に亡くなっていたし、今は毎晩、天竜さんのお世話になっているわ」
「そういう話は聞きたくないわ!」
朱音は顔を真っ赤にして叫んだ。才人も同感だった。なにが悲しくて祖父の赤裸々な性事情を告白されなければいけないのか分からない。
天竜が
「で、だ。ワシらはちゃんと人生を楽しんだとはいえ、やはり『もし最初から結ばれていたら……』と考えてしまうわけだよ。きっと最高の人生になったはずだ。だから、自分たちの果たせなかった
千代が優しく語りかける。
「朱音。おばあちゃんのために、結婚、してくれるわよね?」
「嫌よ! そんなの勝手すぎるわ! 結婚っていうのは、本当に好きな人と恋愛して、ロマンチックなプロポーズをされて、自分の意志でやるものよ! 人に言われてするものじゃないわ!」
「乙女だな」
「お、乙女じゃないわっ! 当たり前のことでしょ!?」
「俺も断る。こんなヤツと結婚したら不幸になるに決まっている」
「はあ!? なに失礼なこと言ってるの!? 私と結婚したら幸せになるに決まっているわ! あんたがどんな女の子と結婚するよりもね!」
「お前はいったいどうしたいんだ……結婚したくないのか、したいのか……」
「したくないわ! 特にあんたとは、ぜ────ったいに嫌よ!」
才人は肩をすくめて祖父の
「というわけだ。俺たちは二人とも結婚する気はまったくない。この日本で本人の意志に反して結婚を強要することはできない。悪いが諦めてくれ」
「くく……くくくくく……」
「ふふ……ふふふふふ……」
天竜と
「な、なにがおかしいのよ……」
朱音が
「お前たちがそう答えるのは予想していた。本当にお前たちは……ワシらの若い頃を見ているようだ」
天竜は、どこか
が、神妙な顔をしていたのも
その合図に応え、入り口の戸が開いた。
天竜の秘書が、汚い犬を連れて入ってくる。首に縄をつけられてはいるが、毛皮は泥だらけだし、鼻水を垂らしているしで、明らかに野良犬だ。
「才人。お前がどうしても従わないのなら、
「なんだその犬は!?」
「その辺で拾ってきた犬だ。正直、我が社のトップに立つには実務能力に不安が残るが」
「犬だからな! ハンコすら押せないからな!?」
しかも犬の中でも
「ハンコくらい押せるだろう。専務が肉球にインクをつければ
「
「そうだな。ひょっとしたら
「正気か?」
「正気で会社を経営できると思うのか?」
天竜は、にいっと口角を
──
才人は額を抱える。
しかし、天才天竜ならやりかねない。才人の父親である長男にすら要職を与えず、無能だからという理由で会社から追放した祖父なのだ。その体内には血ではなく、鋼色の液体が流れているとまで
「
「…………っ!」
朱音の顔色が変わり、肩が震え出す。
それを確認した天竜が、満足げにうなずく。
「よくよく考えてみろ。どうするのがお前たちにとって、本当の利益なのか。目先の感情に