第一章『突然の結婚』(1)
3年A組の教室に、
「あんた、昨日の学級日誌、適当に書いて帰ったでしょ!」
「ちゃんと書いたぞ。日直の仕事だからな」
今日の日直の朱音が、才人の机に日誌を
「『本日の感想欄』が『特になし』ってなんなのよ!」
「特に感想のない一日だった」
「科目欄に教科が書いてないわ! 『時間割を参照』ってなんなのよ!」
「特に時間割の変更もなかったからな。必要か?」
才人は肩をすくめた。
「必要だから書くところがあるんでしょ! 黒板もきちんと消してないし、連絡事項も書いてないし! そして欠席者の欄に『
「あー、なんか漢字のデザイン
「格好いいけど!」
「『
合掌する才人。
「果てしなくどうでもいいわ! あんたの落書きに学級日誌を使わないでくれる!?」
「誰も読まないんだから問題ないだろ」
「私が読んだわよ!」
「暇だな」
「暇じゃないわ!」
ぜーはーと息を切らして、朱音は才人を
才人はため息をついた。
「……めんどくさ」
「めんどくさいってなによ!」
「俺にちょっかい出す暇があったら、読書でもしてればいいだろ」
「ちょっかい出してないわ! あんたの腐った性根を
「結構だ。ほっといてくれ」
学級日誌なんて読んだことがない才人としては、なぜ朱音が怒っているのか理解できない。というか、全体的に
朱音の親友の
「もー、朱音ってば、そのくらいにしときなよー。
「俺は断じて泣いてない」
そこだけは譲れない才人だった。朱音から毎日イチャモンをつけられることに
朱音が才人を指差す。
「コイツが悪いのよ。日直としての自覚がないわ。人間としての自覚もないわ」
「人間としての自覚はあるし、人を指差すんじゃない」
「そうね、あんたを指差したら指が腐るわね」
「失礼すぎるだろ!」
さすがの才人も声を荒らげる。
がるるっと猛犬のように荒ぶる朱音を、陽鞠がまあまあと抱きすくめる。
陽鞠の外見はいかにもなギャルだ。
陽光に輝く鮮やかな金髪に、着崩した制服。
派手に見えるが、性格は
「朱音って、どうして
「どうして? どうして……?」
朱音が目を点にする。なぜ空気を吸うのと聞かれたような反応だった。
「考えたこともなかったわ……。顔を見るだけで無性に腹が立つとしか……スリッパの裏で
「生理的に無理ってことだな、ありがとう!」
女子からGと同じ扱いをされ、才人は朱音を
「
糸青は才人と
人形のように整った容姿で、体も小さい。腰まで届く長い髪が、余計に彼女を小柄に見せている。肌はこの世離れして色素が薄く、白タイツが似合っている。
「ケンカはしていない。一方的に絡まれているだけだ」
「兄くん、
糸青が才人の頭を
「分かってくれるのはシセだけだ……」
「そう、兄くんの理解者はシセだけ。シセは兄くんのこと、生理的に無理じゃない」
照れもせずに告げる。
人形そっくりなのは顔の造作だけではなく、普段から表情も口調もたいして変わらない。多くの生徒には糸青の思考が分からないらしく、宇宙人だと思われている節がある。
陽鞠が口元に指を添えて考える。
「でもさー、ここまでしょっちゅう絡むってことは、実は朱音って才人くんのこと気になってたり?」
朱音が
「は、はあ!? あり得ないわ! たとえ世界に才人以外の男がいなくなったとしても、コイツとだけは付き合わないわ!」
あまりにもはっきりと言われ、才人はカチンと来る。
「それはこっちの
朱音と才人は互いにそっぽを向いた。
放課後、
画面には『祖父(
電話に出ると、スピーカーから能天気な声が響いた。
「才人、今から時間はあるか? なくてもいい。ちょっとお茶しようじゃないか」
「悪いがじーさんとデートする趣味はない。今日は読みたい本がある」
「そんなもん、いつでも読めるだろう。お前にはいずれワシの会社をやろうとしてるんだ。少しはご機嫌取っとかんと後悔するぞ?」
あけすけに言い放つ祖父。
「おじーさま万歳万歳」
才人は棒読みでご機嫌を取ってやった。
「おいおい、冷たい反応だな孫。じーちゃんが傷つくだろ」
「アンタはそのくらいで傷つくタマじゃない」
「よく分かってるな。そして利口なお前なら、じーちゃんの命令に逆らえないことも分かってるな? 車は既に送っている」
クラクションが背後で鳴った。
黒塗りのリムジンが、才人の後ろにぴったりとついて来ている。運転手は祖父の屋敷に雇われている
才人は早足でリムジンから距離を稼ぐ。
「逃げたらどうなる?」
「カーチェイスが起きる」
「人対車か」
情けもハンデもなさすぎる。
「そう。ついでに確保するとき、二、三発殴られる。大人しく従っといた方が、身のためだと思うがな」
「そんな悪役みたいな
「ここにいる。ほれ、さっさと車に乗れ」
有無を言わさず通話が切れる。
こういうときの祖父は手に負えない。経営で大成功している人間の常なのかは知らないが、自分のやりたいことを押し通す点にかけては並々ならぬ情熱を注ぐのだ。
本一冊のためにリムジンとチェイスするのも割に合わない。最悪、ヘリも動員されそうな予感がするので、才人は仕方なく車に乗り込んだ。
運転手が丁寧に挨拶する。
「お疲れ様です、
「アンタが謝ることじゃない。悪いのはじーさんだ」
才人は十人乗りの座席に学生
「そう嫌わないであげてください。あの方も悪い人ではないんですよ……いい人でもないですけど」
「いい人じゃないのは知っている」
ドアが自動でロックされ、リムジンが街を走り出した。スモークガラスの向こうには自由が広がっているが、車内にあるのは
運転手はそつなくハンドルを切りながら、なだめるように話す。
「これでも才人さんは溺愛されてるんですからね、お父様とは違って」
「
「壊れているのは間違いないです。天才ってそんなもんじゃないですか?」
才人は否定できない。
四十年前に起きた大不況、そのどん底に沈みそうになった
結果、北条グループは日本有数のIT企業に生まれ変わった。六十を越えた今なお祖父の才気は衰えず、自ら陣頭に立ってAI事業を推し進めている。天竜はまさに天才なのだ。
「で、俺はどこに連れて行かれてるんだ?」
「ついてからのお楽しみ」
「は?」
「との、ご命令です。ホント勝手な当主様ですみません」
「もういい。慣れた」
才人はシートに深々と背を預けた。