第一章 元スパイは三姉妹に苦戦する。 4

 夏海の部屋を出てリビングに戻った俺は、晩酌の缶やツマミの袋を片付けると、名誉挽回とばかりに保留していたシンクの水垢取りに入った。

 三姉妹をサポートする家政夫にもかかわらず、次女をズブ濡れにした挙句、長女夏海をも辱めてしまった……まさか、初日で二度も失敗するとは。

「元スパイが聞いて呆れる……」

 スパイ映画の『ジュテーム・ボンドリン』のように、スマートにはいかないらしい。

 ぼやきながら蛇口を止め、シンクの掃除終了。

 気づけば、時刻は午後九時半を回っていた。

 すこし廊下に出て耳を澄ましてみると、風呂場からのシャワー音は聴こえなくなっていた。桜はすでに風呂を上がり、二階の自室に戻ったようだ。

「部屋の案内……は、いまさら頼めないか」

 俺が寝泊りする部屋は桜が案内してくれる予定だったが、あんなことをしてしまったあとではそれも気が引ける。

「自分で探すしかない、か」

 先ほど夏海を運んだときに確認した限りでは、二階の部屋数は五つ。そのうちの三つに、三姉妹の名前を記したプレートが飾られていた。

 残りの二つの部屋には『冬子』と『しげる』と書かれたプレートがそれぞれかけられていた。冬子は当然母親として、茂とは他界した父親の名だろう。

 まさかその父親の部屋を借りるわけにもいかず……となれば、二階は三姉妹の領域、と考えておいたほうがよさそうだ。

「一階の空き部屋を探すか。この広さなら一部屋ぐらい空いているだろう」

 つぶやきつつ、俺は手荷物を持ち、一階の散策を始めた。



 これだけ広いとなると、三姉妹を守るためにも、家の中に監視カメラを仕掛ける必要があるかもしれない。

 なんてことを考えながら、空き部屋を探すこと数分。

 薄暗い廊下の先で、ぼんやりと明かりが漏れていることに気づいた。

 わずかに扉が開かれているそこは、最後に覗こうと思っていた一室だった。予定を変更して、光に群がる蛾のようにその一室に向かう。

「おお……これはすごい」

 そこは、書斎だった。

 扉を開くと、一メートルにも満たない目前に、何列もの本棚が整然と並んでいるのが見える。圧迫感を覚えるほどのソレは、まるで図書館の一画を切り取ったかのようだった。

 室内は十二畳、いや十四畳ほどだろうか?

 所狭しと並べられた本棚には、小説や絵本、辞書や図鑑までもが陳列されていた。

 これだけの量を、若い三姉妹がそろえられるとは思えない。

 とすると、これは亡くなった父親の書斎か?

「——だ、誰?」

 ふと。本棚の陰から怯えるような声が聴こえたかと思うと、ひょこっ、と三女の秋樹が顔を覗かせてきた。

 秋樹は、恐怖をまぎらわすかのごとく一冊の小説を胸にぎゅう、と抱いていた。

「俺だ。家政夫の野宮クロウだ」

「あ……く、クロウさん、でしたか……」

 俺の姿を確認すると、秋樹はわずかに安堵した表情を見せる。

 が。本棚の陰から出てきてくれる様子はなかった。

 採用時のあのうなずきを見るに、家政夫になることは認めてくれたようだが、いまだに警戒心は持たれているらしい。

 いや、まあこれが普通の反応なのだろう。桜と夏海が異常に人懐っこいだけなのだ。

 自分の家に他人が住むとなれば、むしろこれぐらいの警戒はして然るべきである。

「驚かせてすまない。明かりが漏れていたから、すこし気になって入ってしまった。色んな本が置いてあるんだな」

「父が遺してくれた書斎なんです……く、クロウさんも、本がお好きなんですか?」

「ああ。知識は得がたい宝だからな。いくら詰め込んでも、損することがない。そして、知識は生活を豊かにしてくれる種にもなりうる」

 スパイ活動の中でも、本好きの対象者ターゲツトと会話を弾ませるときに役立ったしな。

「し、至言ですね」

 ススス、と秋樹の身体が半身だけ本棚から出てきた。

 同じ本好きの匂いを察知し、警戒を緩めてくれたのかもしれない。

 なんか、日本に伝わる『天岩あまのいわ』の話のようだ。

「秋樹はどんな本が好きなんだ? その胸に抱いてるのは、日本の小説のようだが」

「す、推理小説が好きです……これは、『とうとうかいかく』さんっていう若いミステリー作家さんの、『パズル・ウォー』っていう小説です」

「ほう。どんな内容なんだ?」

 本好きの対処法はただひとつ。本に関する質問をすることだ。

「あ、あの、えっとですね」

 ついには身体をすべて出し、秋樹がトトト、とこちらに歩み寄ってくる。

 なんだか小動物みたいだな。

 岩戸が開き、世界に光が戻った瞬間である。

「世界の全システムが『ファイアーパズルウォール』っていうシステムに挿げ替えられた、いわゆるディストピアものなんですけど、システムを統治するAIがバグを起こして殺人を犯していく、というお話なんです——ディストピアもの特有のファンタジー感がありながらも、現実のパズルに即した推理を展開していくせいで、そのファンタジー感もひっくるめて現実なんじゃないかという錯覚に陥るんです。まるで、そのディストピアが隣に存在しているかのような」

「ふむふむ」

「いまわたしが読んでいる第二章では、『水平思考パズル』が出てきているところなんですが。ご、ご存知ですかね? 水平思考パズルって」

「もちろん知っている。『ウミガメのスープ』だろ?」

 有名なシチュエーションパズルだ。

 なにより、水平思考はスパイに求められる思考法のひとつでもある。あらゆる状況を想定、対処できるようにするため、柔軟な思考を身につける必要があるのだ。

 まあ、いまはもうスパイでは(以下略

「そうですそうです! よくご存知ですね!」

 同志を見つけた、とばかりに興奮気味に近づき、こちらの顔を見上げてくる秋樹。

 その黒縁眼鏡の奥の瞳は、うれしそうにキラキラと輝いていた。

「わたし、これがどうにも苦手で……この作中に出てくる問題も、いまだ解けずにいるんです。普通に読み進めれば答えがあるんでしょうけど、すぐに答えを見るのは、なんだか悔しくて」

「根っからのミステリーマニアだな。作家の挑戦は受けて立つ、という精神なわけだ。ちなみに、どんな問題なんだ?」

「えっと……」

 眼鏡のズレをなおして、秋樹は胸元の小説を開いた。

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