第一章 元スパイは三姉妹に苦戦する。 2

 海外の、ましてやフルピースの施設で十五年間暮らしてきた俺には正確な判断ができないが……葉咲家の一軒家は、日本の一般家屋の中では比較的大きいほうだと感じた。

 豪邸と呼ぶには庶民的だけれど、一般家庭の家にしては豪華すぎる。そんな家だ。

 外観から見た限り、土地は軽く百坪を超えているだろう。家屋内の間取りも、窮屈に感じる箇所が見当たらない。広々でゆったりとした設計になっている。家具などのインテリアも洒落ていて、まるでデザイナーズハウスのような雰囲気を醸し出していた。

(冬子の努力の賜物か……)

 女手ひとつでこんな大きな一軒家を維持し、あまつさえ子供三人を育てているのだ。冬子の仕事の辣腕ぶりは、火を見るよりも明らかだった。

 この広さなら、掃除機をかけるだけで二時間はかかるだろう。

 冬子が家政夫を雇ったのは、だから、三姉妹を守る意図のほかに、純粋に家事を手伝ってくれる人間がほしかったからなのかもしれない。

 そう——つまり、なにが言いたいかというと。

 家政夫とは本来、そんな家事手伝いをしてくれる人間のことを指すのだ。

 決して、うら若き少女と一緒にお風呂に入るような人間を指して使う言葉ではない!

「俺は動かない、ここを一歩も動かないぞ!」

「なんでここまで来て抵抗すんのよ! ほら、いいから入りなさいよ!」

「グッ、十五年鍛え続けてきた俺を引きずる腕力……! 桜、只者ではないなッ!?」

「か、怪力あつかいしないで! 私、そんなに力強くないもん!」

 などと供述しながら、桜容疑者は俺の右腕を両手で鷲掴み、ズズズ、と強引に風呂場に引きずり込もうとするのだった。

 秋の鈴虫が鳴き始めた、午後八時。

 夏海と秋樹が夕食中なのだろう。リビングからカレーのいい匂いが漂う中。俺と桜はふたり、風呂場につながる脱衣所で一進一退の攻防を繰り広げていた。

 なにかの聞き間違いだろうと思い、案内されるがままにここまで来てしまったけれど、まさか本当に風呂に入ろうとするとはッ!

 まだ十六歳だというのに、なんていかがわしい!

 いやまあ、海外では十六歳といったら、それはもう色んな経験をしてしまっている年齢だけれど、日本の十六歳はもっとおしとやか、かつ慎ましやかだと聞いている!

 俺の本分は家事手伝いだが、このあたりの倫理観も教育せねばなるまいて!!

 と。そんな家政夫魂と共に、脱衣所に踏みとどまらんとする俺を力強く引っ張りながら、桜が「とにかく!」と苛立ちまじりに言った。

「実際に入らないと、大事な『お風呂掃除』の説明ができないでしょッ!」

「……風呂掃除、だと?」

「え——、うわッ!?」

 抵抗する力を弱めた瞬間。拮抗する力をなくして、桜が後方に大きく傾いた。

 俺はすかさず駆け寄り、倒れかけた桜の後頭部と腰にサッ、と手を回して受け止める。

 できあがったのは、仰向けになった桜を両手で支え、俺が上から覗き込むという……一介の騎士が一国の王女にキスをせがんでいるかのごとき体勢だった。

 いや、まあそれはそれとして。

「桜。大事な話というのは、風呂掃除のことなのか?」

「嘘でしょ!? このポーズのまま話を進めるのッ!? どんだけシュールなのよ——もう、いいから戻して! 受け止めてくれてありがと!」

「どういたしまして」

 体勢を戻して、桜を慎重に立たせる。

 怒りながらも感謝を忘れないあたり、桜の倫理観は正常のようだ。倫理観というか、道徳心というか。

 まあ。真っ赤に染まった桜の顔は、どう見ても正常ではなさそうだけれど。

「それで、なんで風呂掃除が大事なんだ? 桜」

「普通に話を戻してきたわね……」

 すこし乱れた服装をただして、ため息をひとつ。桜は本題に入った。

「お母さんは家にいることが少ないから除外するとして、うちは三人姉妹でしょ? 三人もいるとなると、お風呂に入る回数も増える」

「? 当然だな」

「だから、その分お風呂が汚れるのも早いのよ。三日お風呂掃除をサボれば、排水溝に髪の毛が詰まって水が溜まり始めちゃうレベル。夏場であれば、そこに水垢なんかの臭いもプラスされちゃうの」

「ふむ……となると、こまめに一日一回は洗っておきたいところだな」

「そうなのよ。でも、この広さでしょ?」

 呆れ気味に言って、桜はこれまた広々とした風呂場内を見渡した。

 浴槽は五、六人は入れるほどに大きく、シャワー台に至っては三つもそなわっている。昔、日本の仁侠映画で出てきた銭湯のコンパクト版のようだ。

「三人で曜日ごとに分担して掃除するにしても、時間がかかりすぎちゃってね……これを掃除するとなると、ひとりで大体一時間は取られちゃうのよ」

「風呂掃除に一時間は長いな」

「でしょ? でも、お風呂は毎日の癒しだから、綺麗に保ちたい——そこへやってきたのが、救世主のクロウってわけ」

「なるほどな。これはたしかに大事な話だ。男女でふたりっきり、一緒に風呂に入ろうとするのもうなずける」

「語弊しかない言い方やめて」

 呆れつつも、「まあとにかく」と桜は話を進める。

「私の話ってのはこのこと。家政夫さんを雇うのならなによりもまず、ここの掃除を優先してほしかったのよ——掃除の仕方や手順なんかは、全部クロウに任せるわ。なんたって家政夫だものね。期待してるわよー?」

「……任せておけ」

 あまりにも急な転職だったため、家政夫としての技能を一切磨いてきていないことは、いまは黙っておこう。追い出されちゃうから。

 ……いいのだ。これから学んでいって、三人にバレないほどの成果を挙げれば、オールオッケーのはずである。たぶん。

「じゃあ、まずは掃除用具の場所ね。このシャワー台の下に一通りそろってるから。洗うためのスポンジとか洗剤も、大体ここにあるわ」

「ふむふむ」

 桜が屈んだのを見て、俺もその隣に屈みこむ。

 その際、左手をなんとはなしにシャワー台に置いたのがマズかった。

「あ」

「…………」

 左手に触れたなにかがクイッ、と上げられたかと思うと、桜の頭上に温かなお湯が降り注ぎ始めた。

 家政夫の技能をまったく持っていない俺でも知っている。

 これは、シャワーだ。

 温かい、シャワーだ。

「えっと、あの、すまない。手が当たってしまって……」

「……い、いいわよ。誰でも失敗はあるものね。うん、大丈夫よ……」

 俺がシャワーを止めると、震え声でつぶやきながら桜は髪をかきあげた。

 怒っていらっしゃる。

 先ほど倒れかけた一国の王女さまが、静かにアングリーしていらっしゃる。

 ここは、これからの家政夫生活を円満なものにするためにも、なにか機嫌のよくなる言葉をかけないと!

「桜ッ!」

「なに?」

「その透けた水玉のブラジャー、とてもよく似合っているぞ!」

「いますぐ出て行けええええええぇぇぇッッ!!」

 ケツを蹴り上げられ、勢いそのままに風呂場を追い出される俺。

 なんてこった! 褒めるべきは下の下着だったか!?

 直後。バタン! と扉が閉められ、ブツブツと桜のぼやきが響いてきたかと思うと、シャワーの流れる音が聴こえ始めた。濡れた身体をそのまま温めてしまうつもりらしい。なるほど。あれだけ広い浴室なら、濡れた服もそこら辺に置いておける。合理的な判断だ。

 俺は扉越しに「すまない」ともう一度謝罪し、トボトボと脱衣所を後にした。

 まったく、我ながら先が思いやられる。



 肩を落としながらリビングに戻ると、そこには夏海の姿があった。

 三女の秋樹はいなかった。二階の自室にでも戻っているのだろうか?

 夏海は、リビングのソファに寝転がりながら、バラエティ番組を見ていた。近くのローテーブルには、日本の発泡酒とツマミが置いてあった。完全にくつろぎモードである。

 となればもちろん、夕飯は食べ終えたのだろう。キッチンを覗いてみると、カレーをよそっていたであろう食器がシンクに積み重ねられていた。

 よし。先ほどの失敗を払拭するためにも、はじめての家政夫業をこなしておくか。

 そう思い、ワイシャツを腕まくりして洗い物に取りかかろうとした、そのとき。

「——お、クロウじゃねえか。桜はどしたん?」

 俺の存在に気づいた夏海が、ソファの背もたれに顎を乗せつつ、そう話しかけてきた。

 俺は蛇口をひねり、カチャカチャと洗い物を始めながら。

「風呂に入っている。俺の不手際で服を濡らしてしまってな……申し訳ないことをした」

「あちゃー。まあドンマイドンマイ。そんな日もあるさ。それに、服を濡らしたってことは、桜の濡れ透け下着も拝めたんだろ? 逆にラッキーじゃん。どうだったよ?」

「しっかりとした性格の割に、存外子供っぽい色合いの下着を着けていたな……って、なにを言わせるんだ」

「アハハハ! そこまで暴露しちゃうんだ! おもしれえなあ、クロウは!」

「まったく……こう見えて俺は仕事中なんだ、夏海はテレビでも見てゆっくりと——」

「クロウってさ」

 ふと。からかう語調が変わったかと思うと、夏海はどこか期待するような表情でこう訊ねてきた。

「彼女とか、いるん?」

「いや、いないが? できたこともないな」

 即答すると、夏海はパチクリと目を見開いて。

「マジで? じゃあ、結婚とかも?」

「もちろんしていない。ずっと、転職前の仕事にかかりっきりだったからな。恋人を作る余裕などなかったよ」

「そうなんだ……へへ、そっかそっか。じゃあ、アイツらにも可能性はあるわけだ」

「? なんの話だ?」

「乙女の話さ——なあ、クロウ。洗い物はもういいから、ちょっとこっち来いよ」

 そう言って、夏海は発泡酒の缶をこちらに見せびらかすようにして振ってきた。

 その表情は、ひどくうれしそうなソレだった。

「お姉さんと一緒に、楽しい楽しい晩酌をしよーぜ」

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