第一章 元スパイは三姉妹に苦戦する。 1

「じゃあ、そういうことでクロウくん、あらためて三人のことお願いね! それと、これから長い付き合いになるんだし、クロウくんも三人も互いに堅苦しい敬語は禁止! これ、いま決めた葉咲家ルールだから……って、やだ飛行機の時間!? それじゃあ、おばさんは海外で数ヶ月バリバリ働いてくるからー! みんな、アデュー!」

 口早に言い残し、駆け足で玄関に向かうと、冬子は勢いそのままに家を出て行ってしまった。まるで台風のような女性である。

「まったく、いつも落ち着きがないんだから……」

 玄関を見やり、黒髪セミロング、次女の桜が呆れたようにため息をついた。

 長女の夏海と三女の秋樹も呆れ顔をしていて、特に悲しんでいる様子は見られない。冬子のこうした海外出張は、過去に何度も行われてきたことのようだった。

「元気なお母さまですね」

 気まずい沈黙を作らないために声をかけると、桜は俺の顔を見てなぜか「うぐ」とたじろぎ、平常心を保つかのように咳払いをひとつ。意を決したようにこちらに歩を進め、俺の対面のソファにドカっ、と腰を下ろした。

「け、敬語は禁止だから」

「え?」

「さっき、お母さんが言ってたでしょ? お互いに堅苦しい敬語は禁止だって」

「ああ、そうでした——じゃない、そうだったな」

 諜報部長官であるキャサリンとは上司部下の関係にあったが、基本的にいつもフランクな言葉遣いで接していた。

 そのときの癖が出やしないかと心配していたので、この申し出は素直に助かる。

「それじゃあ、お言葉に甘えて。敬語はなしにして話させてもらおう」

「そ、そう、それでいいわ。見た感じあなたのほうが年上みたいだけど、私たちも気兼ねなくタメ口を使わせてもらうから」

「あはは。お手柔らかに頼むよ」

 軽く笑ってみせると、俺の顔を見た桜が、またも「うぐっ」と胸を押さえて呻いた。

 ……心臓になにか病を抱えているのだろうか?

 俺の顔がトリガーになる病気というのも、あまりに奇病すぎるけれど。

 呼吸を乱しながらも、「じ、じゃあ」と桜はなんとか口を開く。

「採用は決定として、軽く面接させてもらおうかしら。あなたのことを知ってるのはお母さんだけで、私たちはまだ名前すら知らないし。履歴書は持って来てるわよね?」

「もちろん持参しているが……その前にひとつ訊かせてくれ」

 スーツの内ポケットから履歴書の入った封筒を取り出し、俺は続けた。

「どうして俺は採用になったんだ? まだ面接すらしていなかったのに」

「そ、それは……」

 素朴な疑問を訊ねると、履歴書を受け取った桜はついと視線をそらし、キッチン近くのテーブルに座る夏海を見つめた。

 見つめられた夏海は「なッ……あ、あたし?」と狼狽して、スン……と素知らぬ顔で隣に座る秋樹を見やった。

 見られた秋樹は「え……わ、わたし、ですか……?」とオロオロ動揺を見せて、ぷいっ、とキッチン奥にある冷蔵庫に顔を向けた。

 ……冷蔵庫。

 ……冷蔵庫?

 冷蔵庫が、俺を採用してくれたのか……?

 これから俺はどんな気持ちであの冷蔵庫を開ければいいのだろう? とすこし真面目に考えていると、桜が「と、とにかく!」と強引に話を切り替えた。

「採用は採用なの! 採用基準は葉咲家の秘密! 門外不出の最重要機密事項! なにか文句あるッ!?」

「いや、文句はないが……」

「ならいいじゃない! それよりも面接を始めるわよ! えっと……野宮クロウ!」

「クロウと呼んでくれ。俺も、桜と呼ばせてもらう」

「い、いきなり下の名前ッ!?」

「敬語はなしなんだ。なら、ファーストネームで呼び合ったほうがより自然だろ?」

「それは、そうかもだけど……」

「ほら、桜。はやく面接を始めてくれ」

 慣れさせるために、わざと下の名前で呼んでみる。こういうのは回数を重ねるのが大事だからな。

 すると。桜は慌てて履歴書で顔を隠し、気恥ずかしそうな声音でこう応えた。

「わ、わかったわよ……く、クロウ?」

「はい、よくできました。桜」

「~~ッ、いまからでも不採用にしてやりたい……!」

 両足をバタつかせながら、履歴書に顔を埋めるようにして悪態をつく桜。

 履歴書で隠しきれていないその両耳は、彼女の名前のような桜色に染まっている。

 冷静なクールキャラかと思っていたが、葉咲桜、意外と感情豊かな女の子のようだった。



 野宮クロウという人間のプロフィールを確認する、雑談まじりの軽い面接が終わった。

 初対面の男性と話している、という緊張感こそあれ、あの面接映像のときのような警戒心は、三姉妹からは感じられなかった。本当に俺という家政夫を受け入れてくれるつもりでいるらしい。

 こうなると、桜の言う最重要機密事項というのが気になってくるけれど。

 ともあれ——時刻は午後七時。

 夕陽は完全に沈み、夜のとばりもとうに下り切っていた。

「さて。それじゃあそろそろ、俺はおいとまさせてもらおうか。今日は面接だけの予定だったから、夕飯は作らなくても大丈夫なんだよな?」

「うん、昨日のカレーが残ってるから大丈夫……というか、いまから帰るの?」

 桜がすこし心配そうに訊ねてくる。辺りが暗くなっているからだろう。

 俺は「ああ」と答え、ソファの横に置いていた手荷物に手をかけた。

「空港を出てそのままこの家に来たから、まだ宿泊するホテルも確保していないんだ」

「そうなんだ……と、というか、それなら」

「——それなら、うちに泊まればいいんじゃね? てか、住めばいいんじゃね?」

 被せるようにして言葉を発したのは、夏海。

 椅子にあぐらをかき、ニヤニヤと悪戯っ子のような笑みを浮かべながら、夏海は続ける。

「オカンが家政夫なんつーもんを雇おうとしたのも、元々はあたしらを守ることが目的だったんだから、『騎士ナイト様』には家に常駐してもらったほうが合理的だろうよ。幸い、空き部屋はいくつか残ってるし、クロウにしても、わざわざこの家に通う手間が省けるだろうしさ。どうよ?」

「いや、その申し出はありがたいが……俺という男を置いてしまっては本末転倒ではないか? 俺が暴漢やストーカーの可能性だってあるんだぞ?」

「そうやって心から心配してくれてる時点で、クロウは安全だって証明されてんのさ。知ってるか? 本物のクズがく嘘には、どうしたって隠せないまんがまぎれてんだぜ? ——それは、あたしらが一番よく知ってる」

 夏海が真剣な顔つきで言うと、桜と秋樹の表情がわずかにこわばった。

 日本に向かう旅客機の中。面接映像を見ながら、俺は思った。

 三姉妹は全員、美少女と呼ぶに相応しい綺麗な顔立ちをしている。男性からもモテまくるにちがいない——そして、これだけ綺麗なら、おかしな男性が近寄ってきても不思議はない、と。

 実際に、そのおかしな男に言い寄られた経験が、三人一様にあるのだろう。

(それゆえの、あの警戒心か……)

 面接映像で桜が、庭に干していた下着を見ていた、と応募者に指摘する場面があった。

 もしかしたらあれは、三姉妹による『トラップ』だったのかもしれない。

 そこで下着に目を向けるような下心まみれの男であれば、採用する価値はない、と早々に判断できるわけだ。

「なにより、オカンも『長い付き合いになるし』って、住み込みで働くのもOKみてえなこと言ってたんだからさ。それこそ、気兼ねする必要ねえって——どうだ? クロウ。あたしらの騎士になるっつー案は」

 空気を重くしないための配慮だろう。雰囲気をガラッと変えて、おどけた様子で訊ねてくる夏海。

 冬子という大人がいないこの家は、たしかに防犯レベルに不安が残る。夏海は成人を迎えているが、ひどく細身で華奢なスタイルをしている。こう言ってはなんだが、暴漢が襲ってきたら一瞬でやられてしまうだろう。

 俺が返せる答えは、ひとつしかなかった。

「……わかった。みんながよければ、この家を守る騎士にならせてもらおう。いいか?」

「へへ、だってよ? 桜、秋樹」

 夏海が話を振ると、桜と秋樹は気恥ずかしそうにうなずいた。

 俺の肩書きが、ただの家政夫から住み込み家政夫にランクアップした瞬間である。

「さ、さて! それじゃあ、クロウ」

 と。俺の宿泊に関する話がまとまったところで、桜が手を叩き、話を切り替えてきた。

「部屋はあとで案内するとして、すこし私について来てもらえる?」

「かまわんが、どこに行く気だ?」

「お風呂」

「……はい?」

「だから、お風呂だってば——ふたりっきりで、大事な話しよ?」

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