◇金魚と他殺志願者 その4

「私、水が怖いんです」

 一〇分後。落ち着いた所で、浦見から説明が始まった。

「雨が降ると、母は不機嫌になる人でした。頭痛がひどくなると言っていました」

 いるよな、そういう奴。俺の周りには二人、いや三人いたか。

「そういう時、母は水を張った洗面器に、私の顔を沈めました。虐待の痕跡を残したくなかったのでしょう」

 淡々と語られる過去にぞっとした。その手のことは色々と経験してきたが、窒息系は特に苦しい。殺される時も、溺死だけは嫌だ。

 ……絞殺されたいのに、窒息したくないって、矛盾してるな。

「以来、水が怖くなってしまいました。水の中に入ることは勿論ですが、水が一気に口の中へ入り込むとパニックに陥ります」

 口元に手を当てる浦見。それを見て思い出す、喫茶店での注文。

 何を飲む時も、彼女は必ずストローを頼む。あれには理由があったのか。

「……だから、先週と先々週は駄目だったんだな」

 浦見は無言で頷いた。

 せっかく出かけても、終始雨に怯えていては楽しめない。当然の判断である。

「普段、雨の日はどうしてるんだ?」

「傘があれば、辛うじて動くことは出来ます。けど、今日は忘れてしまいました」

「いつも持ち歩いてるのに?」

「……舞い上がっていたんです。初めてのデートだったので」

 申し訳なさそうに、浦見は目を伏せた。発言と態度が合っていない。

「……ははっ」

「な、何がおかしいんですか?」

「別に。案外そそっかしいんだなぁと思っただけ」

「うるさいです」

 俺の肩を軽く殴る浦見。いつもの調子が戻ってきた。

「そういえば、水族館は大丈夫だったのか? 周り、水だらけだぞ」

 問うと、また浦見の表情が翳る。

「……機嫌のいい時、お金に余裕があると、母が連れていってくれたんです。水族館が好きなのは、その影響だと思います」

「……なるほど」

 皮肉だ。思い出も、トラウマも、水が絡んでいるなんて。

 強烈な体験は、良くも悪くも人生に多大な影響を及ぼす。

 プラスの体験はプラスの影響を、マイナスの体験はマイナスの影響を及ぼす。

 マイナスの体験をばねに成功した人間は『あの経験が今に活きている』などとほざくが、それは嘘だ。マイナスの体験を経た成功者は、プラスの経験を経ていればもっと大きな成功を掴むことが出来た人間である。

 マイナスの体験は、マイナスな影響を及ぼし、マイナスの人間を作る。マイナスの人間は、他者にマイナスの体験を与える。この繰り返し。

 結論。マイナスはマイナスしか生まないbyマイナス。

「あーあ。最悪です」

 周囲にマイナスイオンをばらまいていると、浦見が嘆息してうなだれた。

「どうして?」

「知られたくなかったんです。面倒な奴だと思われたくなかった。嫌われたくなかった」

「……そんなこと思わないし、嫌いにもならない」

「……ありがとうございます。嘘でも嬉しいです」

「ひねくれてるなぁ……」

 まぁ、好きでひねくれた訳じゃないんだろうけど。

 一人の人間から、マイナスとプラス両方の強烈な影響を受けると、人の行動に対して望ましい反応が出来なくなるのだ。円滑なコミュニケーションが難しくなる。

 なぜ相手が怒ったのか、褒めてくれたのか、分からないから。素直に受け取れない。

 この影響は『自分が何をしようと、こいつは気まぐれで怒るし殴るし褒めるし笑うのだ』と気づいてからも続く。

 消えず、残る。染みつく。蝕む。

「ていうか、もし俺に嫌われても、お前にとっては問題ないだろ」

 彼女の目的は、最愛の人間を殺すこと。相手が自分をどう思っているかは関係ないはず。

 浦見が不服そうに眉根を寄せて言った。

「私は最愛の人を殺したいんです。最愛の人に嫌われたくはありません」

「……………………へ、へぇ」

 不意を衝く愛の告白。まともに顔を見られない。

 浦見も気付いたらしく、薄紅の顔を逸らした。

「今の話は仮定です。まだ貴方のことを愛してはいないので、勘違いしないでください」

「し、知ってるよ」

 百も承知だ。言われるまでもない。お前のことなんか、何とも思ってないんだからね。

「……」

「……」

 駄目だ。頭が茹って正常に働かない。正常に働いた所で大した処理能力はないけど。

「……傘、買ってくる。手、放しても大丈夫か?」

「……大丈夫です。ありがとうございます」

 了承を得て、軒先から飛び出した。

 地雨の降る中、駆け足でコンビニへ向かう。

 彼女との遭遇がマイナスの出来事であるとするならば、それも悪くないと少し思った。



「寒っ」

「早く着替えないと、風邪を引きますよ」

 濡れた身体を震わせると、隣の浦見が気遣ってくれた。

「大丈夫だ」

 風邪を引いた所で、苦しさは感じない。

 ただ、出来れば風邪は引きたくない。自覚のないまま、倒れて動けなくなるのは嫌だ。

 ビニール傘を掲げた二人が、歩道を占領して最寄り駅へ向かう。

「傘、ありがとうございます。私の分まで」

「あの流れで一本しか買ってこないほどアホじゃねぇよ」

「……アホだから、二本買ってくるんですよ」

「え? どういうこと?」

「うるさいです。アホなりに考えてください」

 言われて、アホなりに考えてみる。

「……傘とレインコートを買ってきて、好きな方を選んでもらうべきだったということか」

「アホですね……」

 おい、女川。選択肢を提示して選ばせてあげれば間違いないんじゃなかったのかよ。不評だぞ。どうなってるんだ。責任取れ。

「へくちっ」

 可愛らしいくしゃみ。出所は浦見。

「寒いか?」

「許容範囲です」

 そこそこ寒いってことか。どうしよう。

 服を貸そうにも、雨の中を走ったせいでずぶ濡れ。コートの類も持って来ていない。買うか? 水族館にしか行っていないため、予算には余裕がある。

「お風呂に入りたいです」

「……は?」

 突然の要求。浦見はこちらを見ないまま繰り返す。

「寒いので、貴方の家のお風呂に入りたいです」

「……何で?」

「湯船に浸かりたいんです」

 質問の答えになっていない。湯船ならお前の家にも…………あれ?

「さっき、水に入れないって」

「貴方と一緒なら、大丈夫だと思うんです」

「……え?」

 意味不明の応酬。そろそろ処理落ちしそう。

 オーバーヒート直前の脳髄に、浦見がとどめを刺した。

「お風呂、一緒に入ってください」



 道中。俺は何度も尋ねた。

「マジで一緒に入るのか?」

「嫌なんですか?」

「嫌ではないけど……」

「だったら、何が不満なんですか?」

「不満っていうか、不都合っていうか」

「貴方の都合など知りません。親の葬式だろうと私を優先してもらいます」

「もういねぇよ」

 いや、片方はいるかも。いた所で何も変わらないけど。

「ていうか、普段はどうしてるんだ?」

「必要最低限のシャワーで済ませてます。それでも、慣れるまで数年かかりましたけどね」

 ……………………。

「…………………………分かったよ。入ればいいんだろ」

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