第一章 第六話 無限の成長

 気が付けば、俺は森の中にいた。

《霊魂化》を解き、異界から戻ったのだ。

 ふと見れば、近くに人一人分の衣服が落ちている。まるで着ていた人間が煙のように消えたかのように。

 その衣服がジレッドのものであることは容易に想像がついた。

「成功したのか……」

 俺は本当に一つになったのだ。

「俺は……誰なんだ? ジレンなのか? ジレッドなのか?」

 自分と《融合契約》することが可能だとは思っていたが、実際に行うとどうなるかはさすがに想像がつかなかった。

 とりわけやってみるまで分からなかったのは、俺の人格だ。

 俺の人格は俺のままなのか、それともジレンとジレッドを足して二で割られたのか、そうなった俺は本当に俺と言えるのか。

 だがやってみた今なら分かる。俺は俺だ。いや違う、ジレンもまた俺なのだ。俺と俺が融合したのだから、俺は俺なのだ。

 今やジレンとジレッドという二人分の記憶は一つになっていた。その結果、行われたのは──脳による取捨選択だ。

 たとえば誰だって今日の朝になにを食べたかぐらいは覚えているだろうが、一〇年前の朝になにを食べたかなんて覚えていない。人間には忘れていい記憶とそうでない記憶があるのだ。ジレンとジレッド、二つの記憶の中から重要なことだけが脳裏に残された──そんな感じだ。

 そのせいか、今の俺には一五歳のジレンと三三歳のジレッド、併せて四八年を生きたような自覚はまったくない。むしろ三三歳のジレッドが一五歳になったという点で、脳も体も若返ったような気さえする。

 厄介なのは、今の俺には二つの〝最近の記憶〟があるということだ。ジレンにとっての昨日と、ジレッドにとっての昨日はまったく同じ時間帯ということになる。だが時間的には同じであっても、俺の中では完全に別々の出来事として認識されており、大変ややこしい。

 とはいえ「昨日なにを食べてなにをしたか」などというさいな記憶は、時間がてば脳により取捨選択されるだろうし、この戸惑いも今の内だけだろう。

「ようするに、俺は俺だ」

 こうなったら戸惑っている場合ではない。今すぐにやるべきことを思い出す。

 それは《精霊感知》を行い、時空をつかさどる精霊クロノスを探し出すことだった。

 もちろん、本来ならそれは不可能だ。《過去転移》を行った時点でクロノスとの契約は因果律によって断ち切られ、二度と探し出せないというのだから。事実、俺が《過去転移》して以降、クロノスの存在を感知できたことはない。

 だが、今の俺はクロノスと契約したジレッドではなく、この世界に元々存在したジレンである。クロノスを感知することはできるはずだった。

 そう考える根拠はある。思考実験として、仮に《過去転移》した瞬間に俺が死んでいたと考えてみればいい。俺という存在は《過去転移》したものの、誰にも影響を及ぼすことなく消滅したと仮定するのだ。

 その場合、この世界のジレンは順調に成長し、やがて歴史通り時空の精霊クロノスと接触を果たさなければならない。因果律が存在するからこそ、ジレンである俺がクロノスと接触できなければおかしいのだ。

「……見つけたぞ」

 俺の考えは正しかった。ほどなくして、時空の精霊の存在を感知することに成功したのである。あとは俺が《霊魂化》してクロノスの元へ赴くだけだったが、その前にすることがあった。

 俺がただ召喚術を極めようとしていた頃のジレッドであれば、そんなことはしなかっただろう。だが今の俺は、この世界で一五年を過ごしたジレッドとジレンの一つになった姿なのだ。


   ◆


「あら、ジレン。どうしたの? こんな時間に」

 俺が向かったのは、シスター・ノアのいる孤児院だった。

 子供たちの世話というのは本当に大変で、彼女は今日も子供たちの夕食を作るために大量の食材と格闘していた。

 そして、無言で俺は彼女を抱きしめていた。

「ちょっと、どうしたの?」

 彼女は動揺一つ見せなかった。

「なにか嫌なことでもあった? 昔みたいになでなでして欲しいの?」

 温和な笑顔さえ浮かべて言う。それは完全に子供に接する保母の仕草だ。今の俺はジレッドではなく、彼女に育てられた一五歳のジレンなのだから当然だろう。

「いや、なんでもない。驚かそうと思っただけだよ。それよりティアナを探してるんだ。どこにいるか知らない?」

「この時間なら外よ。洗濯物を取り込んでるんじゃないかしら」

「分かった、ありがとう」

 いつも通りのシスターだった。どうせならジレンではなくジレッドとして、彼女と最後の別れを済ませるべきだったと少しだけ後悔する。どうせすぐまた会えることになるのだが、少なくともこの世界で共に過ごしたシスター・ノアとはもう二度と会えない。そう考えるとやはり寂しくもあった。

 そしてもう一人、俺がどうしても会っておきたかった人がいる。シスターの手伝いのためこの孤児院に来ていたティアナだ。

「あ、ジレン。どうしたの? いつもより早いよ?」

 孤児院のそばで、大量の洗濯物を取り込んでいたティアナを見つけることは容易だった。

 ジレンとしての俺がこの世界で長い時間を共にしたのが彼女だった。本来は死ぬ運命にあった彼女は、今の今まで生き抜き──そして美しく成長していた。ジレンという俺が好きになるぐらいに。

 だから俺は、無言で彼女を抱きしめていた。

「な、なに、どうしたの!? そういうのは夜に……」

「すまない、ティアナ。しばらく会えなくなるからこうしておきたかったんだ」

「え、どういうこと!? 嫌よ、会えなくなるなんて!」

「大丈夫、ティアナにとっては一瞬だ。でも俺は……二年は会えなくなるから」

 それは不思議な感覚だった。ジレンとしての俺は当然のことをしてるだけだ。だがジレッドとしての俺が、驚きを隠せないでいる。

 俺は、いや、ジレンはティアナのことが好きだったのか──と。

 恐らくこの違和感は当分消えないだろう。なにせジレッドにとってティアナは娘のようなものだったし、そもそも色恋沙汰にもうとかった。

「じゃあ、またな」

 これ以上戸惑うティアナを見ていたくはない。俺はこの場で《霊魂化》し、時空の精霊の元へと向かった。


   ◆


「やあジレン。まさかまた会えるとはね」

 一五年前とまったく同じ不思議な空間で、その少女のような見た目の不思議な精霊と再会する。正確に言えば初対面ということになるのだろうが、前に出会ったという記憶がある以上は、再会と呼ぶべきだった。

 ただし、一五年前と異なっているところがあった。見た目だ。一五年前は幼い少女のような外見だった彼女が、今はティアナと同じぐらい──一二、三歳ぐらいに成長しているように見える。

「久しぶりだな、クロノス。一五年ぶりだからか? 見た目が成長してるようだが」

「成長というのはおかしいね、ただの気まぐれさ。ボクにとっては昨日も今日も明日も同じものだけど、キミにとってはずいぶん久しぶりの再会だろう? だから少し成長した外見になってみてあげただけだよ。もっと大人っぽい方がよかったかな?」

「いや、正直なところ見た目なんてどうでもいいが」

 俺の本音に、クロノスは笑った。

「あはは、そう言うと思ったよ。キミが召喚術のこと以外にそれほど興味はないというのはよく分かったよ、ずっと見てたからね」

 相手は時空を司る精霊である。俺のことをずっと見ているぐらいたやすいのだろう。

「なら話は早い。俺がここへ来た理由も分かっているだろう?」

「もちろん。また《過去転移》したいんだね? でも《過去転移》は一人一回だけだって言っただろう?」

「ああ、確かにそう言われた。だが《過去転移》したのは未来の俺であって、今このときの俺はまだ《過去転移》していない」

「確かに、キミの主観からすればその通りだ。ただね、結局のところは因果律がどう判断するか次第なんだよ、この意味が分かるかい?」

「なんとなくはな。因果律の判断によっては、俺の存在が消去されることだってあり得るってことだろう?」

「その通り」

 クロノスは俺の返答に満足したように微笑ほほえんだ。

「たとえばね、キミがもう一度《過去転移》したとしよう。転移先の世界には、もともとその世界に存在する赤ん坊時代のキミがいる。これをジレン1と呼ぼうか。そして、その世界には前回《過去転移》したキミ、つまりジレン2もやってくる。今のキミをジレン3とすれば分かるだろう、もしキミが《過去転移》を繰り返せば──」

 その言葉の先は、俺にも分かっていた。

「一つの世界に三人の俺が存在することになる。それを因果律が許さないんだろう? もしその方法が許されるなら、最終的に無限の俺が存在することになるからな」

「そういうこと。前に言ったかもしれないけど、ボクにとって《過去転移》は大した術じゃない、息を吐いてホコリを飛ばすようなものだ。因果律が存在する限り、《過去転移》してもなにもできないしね。ただ、因果律が決して許さない《過去転移》もある」

「分かってるつもりだ。だから親殺しの矛盾につながる《過去転移》や、無限にモノが増殖する可能性が生じることはきっと拒絶される」

「その通りだよ」

《過去転移》には制約があった。自分が生まれるより前には転移できず、そして《過去転移》できる回数は一人一度という制約が。それはすべて、因果律に支障が生じることを防ぐためのものだった。

「だからその対策は考えた。前回俺が《過去転移》したのは、フェロキア暦二〇〇年初春の月一五日の日の出の時刻だ。だからほんの数秒でいい、今回はそれより少し前に《過去転移》させてくれ」

「へえ。するとどうなるって言うの?」

「それなら過去の世界に存在するのは、赤ん坊──おまえの言うジレン1と、未来からやってきた今の俺──ジレン3の二人になる」

「でも、数秒経てば前回《過去転移》したキミ──ジレン2がやってくるはずだよ?」

「いや、来ないはずだ。俺の世界の歴史は一本の線で、過去が改変された瞬間に未来も変わるんだろう? つまりジレン3である俺が《過去転移》した時点でジレン2が《過去転移》する未来は変わる。同じ人間が三人存在することは許されないんだろう? ジレン2、つまり前回の《過去転移》は因果律によって行われないことになるはずだ」

「面白い考え方だね。でもそれってジレン2の行為はすべて消滅し、歴史が改変されるってことだよね? その場合、ジレン2の影響を非常に強く受けたキミがどうなるかは分からないよ?」

「そうだな。だがそう影響が出るとは思えない。ジレン3である俺がこれから《過去転移》しようとしている時間は、塗り替えられる以前の歴史だからだ。ジレン2の《過去転移》がなかったことになって改変される歴史があったとしても、それ以前の時代にいれば関係ないだろう」

「そうか、色々考えてはいるんだね」

 クロノスは一度うなずいてから言った。

「一つ教えておくことがある。ボクは時空をつかさどる精霊、つまり未来を知ることは簡単なんだ。興ががれるから過程は見てないんだけど、キミが最後にどうなるかは知ってるんだ。教えてあげよう、キミの未来には─────が待っている」

 不思議なことが起こった。クロノスはなにかを口にしたが、その言葉が認識できなかった。言葉が聞こえなかったとか唇が読めなかったとかそういう類のものではない。ただ認識できないのだ。

「なんだ、今のは? あえて口に出さなかっただけか?」

「違うよ、今のも因果律の修正なんだ。ボクが未来を教えれば、歴史に大きな影響が生じかねない。だからボクが誰かの未来を語ることは、因果律によって禁止されているんだ」

「……興味深い現象だな」

 実のところ、散々クロノスが言及してきた因果律について、存在を実感することはなかった。なにせ死ぬ運命だったはずのティアナは生き残り、過去の俺の人生を変えられたりと、かなり好き勝手に過去を改変できてしまったからだ。だが目の前で実践されれば、いやが応でも実感せざるを得ない。

「ようするに、キミにどんな考えがあろうと、《過去転移》に伴う制約は守った方がいいよ──としかボクには言えないんだ。たとえキミに消滅するような未来が待っていたとしても、ボクには決してなにも言えないし」

「心配は無用だ。おまえも言ってただろう? 過去に戻って人を殺すことは、歴史に大きな影響をおよぼしかねないと。仮に俺が因果律に障害だと見なされたとして、俺個人を消滅させることが簡単だとは思えない。最悪でも《過去転移》に失敗するだけのはずだ」

「それだってキミの推測に過ぎないんだけどね。まあいいよ、どっちにしろキミの意志を尊重するだけだからね」

「ならあらためて頼もう。もう一度《過去転移》してくれ」

「いいとも。それじゃあ《過去転移》にともなう三つの制約について説明しよう」

「またか? 今その制約についての話を散々やったところだろう?」

「何度も言うけど、これはボクにとっての義務だからね。《過去転移》の度に必ず説明する必要があるんだ」

「分かった分かった。仕方ない、最後まで聞こう」

 クロノスの長い説明を最後まで聞き終える。

 それは一五年前に聞いたのとまったく同じ内容だ。

「待たせたね、じゃああらためて契約しよう。ボクの真名はクロノスだ」

 俺という魂が彼女と結びつく不思議な感覚が生じる。一五年前と同じだ。そしてやはり一五年前と同じように、《過去転移》すべき時間を口にする。

「戻りたい時間はフェロキア暦二〇〇年初春の月一五日。日の出より一秒前だ。契約に応じ、力を貸してくれ。時空の精霊、真名クロノス」

「いいとも、異なる世界の召喚士。運がよければまた会おう」

 次の瞬間、俺の体は光に包まれた。足、手、胴、顔。すべてが白い光で塗りつぶされていき、そして──。


   ◆


 目が覚めたとき、俺はどこか見覚えのある野原にぽつんと立っていた。

 自分の体を見直す。なにも変わりはない。所持品もだ。

 ふと周囲を見回す。生後間もない過去の俺──ジレンが捨てられていた。まだ泣いてはいないが、それもすぐのことだろう。慌てて抱き上げる。

 前の歴史であれば、もう既に一度目の《過去転移》した俺がやってきていた時刻だ。だが、今回はその気配もない。

「……成功だ」

 前回の《過去転移》が行われた時間帯は修正が加えられた、あるいは削除されたのだろう。だが俺がこの世界に来たのは、修正が行われた時間帯の前である。因果律の修正対象になることはなかったのだ。

 つまり、《過去転移》を行い過去の自分を教え導き、そして一つになることを繰り返せばいくらでも精霊と契約できる。俺の考えは間違っていなかったのだ。

《なるほど、キミの見立ては正しかったようだね。これは興味深い》

「な、なにっ!?」

 思ってもみなかった声がして、俺は飛び上がらんばかりに驚かされる。

 俺の視界に入ってきたのは──時空の精霊クロノスだった。

《おや、ボクの言葉が聞こえるのかい? それはまた奇妙だね》

「な、なぜだ!? なぜおまえがここに!?」

《なぜもなにも、ボクは時空を司る精霊だよ? どこにだって姿を現すことはできるとも、ボクがその気になればね》

「…………」

 少しだけ冷静になった。時空、すなわち時と空間。この二つを超越できるなら、確かにどこにだって顔を出せるだろう。他の精霊と一緒くたに考えてはいけないのだ。

「だが、俺とおまえの契約は《過去転移》した時点で消失したはずだ」

《契約は関係ないよ、これはボクの趣味だからね。キミは初めて二度の過去転移に成功した契約者だから、ちょっと成り行きを見てみたいと思ったのさ》

 クロノスにも趣味というか興味というものはあるらしい。

「それにしたってなぜおまえの姿が見えるんだ? 召喚に失敗した精霊がこの世界で暴走することはあるが、勝手に出てきた精霊の姿が見えるなんて話は聞いたことがないぞ?」

《そうそう、実はボクもそれが疑問だったんだよ。ボクも様々な世界に顔を出したことはあるけど、こうやってボクの姿を見られたり、会話ができた精霊使いはキミだけさ。一体どういう理屈なんだろ?》

「……さあな」

 考えればいくつか推測することはできただろう。だが今はその時間はなかった。

 俺の腕の中で、ジレンが泣き出したからだ。前回の歴史通りである。

「悪いな、今忙しいんだ。そろそろシスター・ノアがやって来るからおまえと話してる暇はないんだ」

《ボクのことは気にしないでいいとも。どうせ時間はたっぷりあるんだ、またどこかで顔を出すからそのときにでも話し相手になってくれ》

 そう言って、クロノスの姿はかき消えた。消えたという表現が正しいかどうかは分からない。

「まあいいか」

 俺は気を取り直した。とにかく予想通り二度目の《過去転移》に成功し、こうして幼いころの俺に再び会えた。あとは再び過去の俺を精霊使いとして鍛えればいい。そうすれば今より多くの精霊と契約することができ、召喚術の真髄に一歩近づけるのだから。

 そして、間もなく前回と同じシスター・ノアの声が響き渡る。

「ちょっと、誰なのあなた!? その赤ちゃんどうしたの!? 泣いてるじゃない!」


 もっとも。

 ずいぶん後になって分かることだが、俺はこのとき勘違いをしていた。

 なぜ俺が二度以上の《過去転移》に成功したのか。なぜ俺がどれだけ歴史に干渉するようなことをしても、因果律の修正対象とされなかったのかという、その真の理由を。

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