第一章 第二話 変わる歴史

 またたく間に二年余りの時が流れた。

 我ながら一文で表すなら実に簡単だ。だがこの間、もちろん信じられないほど多くの出来事があった。

 俺は赤ん坊の俺──ジレンを見守り続けた。それはまさに昼夜を問わぬ激務でもあった。赤ん坊の世話とはそれほどに大変なもので、俺を一人で育てたというシスター・ノアがつくづく超人のように思える。

 ただ、大変なだけというわけでもなかった。たとえば過去の俺がハイハイを覚え、立って歩くことを覚え、「じれっど、じれっど」と初めて俺の名を呼んだときの感動は筆舌に尽くしがたい。なんとも不思議な感覚だが、まるで父親になった気分だった。

 また、大きな出来事もあった。


「ジレッド、大変よ! 孤児院の前に、また捨て子が!」

 ある日のこと、洗濯物を干しに外へ出たシスター・ノアは、生後間もない赤ん坊を連れて戻ってきたのだ。

 子供が二人いれば一人は死ぬ時代であり、孤児院へ子を捨てるという行為は珍しくはない。ここは見捨てられた地であるがゆえにその頻度が少なかっただけだ。

 そして俺は知っていた。その赤ん坊は死ぬ運命にあるということを。かつてシスター・ノアに聞かされたことがあったのだ、「あなたには妹分がいたのよ、ほんの数日ほどだったけど」と。俺の育った孤児院にはその子の墓もあった。

 恐らくそれは因果律によって定められた運命だ、変えることはできない。だから俺は、弱った赤ん坊を見ながらシスターに言った。覚悟してもらうために。

「この子はもう泣く力もないほど衰弱しきっている。長くは持たないぞ」

「だとしても、見捨てることなんてできないわ。お願いよジレッド、力を貸して。なんとか助けてあげたいの」

 シスター・ノアにそう言われたから──というわけでもない。

 彼女に抱かれていた赤ん坊は、時折目を開けると助けを求めるように俺を見たのだ。試しに指を差し出すと、まるで助けを求めるように握り返してくるのだ。

 それは人に頼ることでしか生きられない赤ん坊の本能なのだろう。つくづく、生物というのはよくできている。子猫や子犬がそうであるように、赤ん坊もまたよくのようなものを駆り立てるようにできているのだ。

 ようするに、俺も見捨てられなかったのだ。赤ん坊が泣くのは元気の印だという。赤ん坊が笑えば周囲の大人も無条件に笑顔になる。だが弱り切って表情一つ変えられない赤ん坊を見ているのはつらい。なにかせずにいられなかったのだ。

 因果律が定めた運命に、どれぐらい逆らえるかという興味もあった。かくして俺とシスター・ノアは、その赤ん坊を懸命に看護することとなった。再び町で乳母を雇い、医者に診せ、昼夜を問わず必死に容態を見守った。

 驚くべきことに、効果はあった。孤児院に捨てられた名も知られぬ少女の生死など、因果律にとってはどうでもよかったのかもしれない。俺の知ってる歴史と異なり、赤ん坊は生き残ってシスター・ノアから名を与えられることとなる。

「あなたの名前はティアナよ。ジレン、仲良くしてあげてね」


   ◆


 ティアナという新たな家族が増えてから、三年がとうとしていた。

 突然できた妹とも言えるティアナは、ジレンにとって格好の遊び相手でもあった。この頃にはティアナも走り回れるようになり、二人が仲良く孤児院の周辺を駆け回る姿を毎日のように目撃することとなる。

 このときティアナの扱いに一番困っていたのは間違いなく俺だろう。彼女が存在する歴史を俺は知らなかったし、こんなに小さな女の子と接するのも初めてだ。おまけに、ティアナはやたらと──お父さん子だったのだ。

「じれっど、いっしょがいい」

 本能的に父親を求めていたのかもしれない。二歳半ばになった頃には、そう言って毎晩のように俺の寝床へ忍び込んできたものだ。

 なにせ可愛かわいい盛りの二歳の女の子だ。俺に拒否できるわけもない。それに冬の間、ティアナは非常に温かく一緒に寝ると心地よかった。毎晩のようにおねしょされることだけは慣れなかったが。

 それにティアナの生存という出来事は、ジレンにとっていい方向へ転ぶこととなる。

 ジレンが五歳になったときのことだ。ティアナが転んで膝を擦りむいたとき、俺がウンディーネを召喚して治療してやったことがあった。「ありがとう、じれっど」と天使そのものの笑顔を向けてくれるティアナの横で、ジレンがこう言ったのだ。

「ねえ、ジレッド。ぼくもジレッドみたいな精霊使いになりたいよ」

 ジレンが召喚術に興味を持ったのだ。

 必然と言えば必然である。もともと俺は七歳になる頃には召喚術に興味を持ち始めるのだから。だが元の歴史より二年も早く興味を持ったのは、ティアナの存在ゆえだろう。

 もちろん、俺としては反対する理由はない。予定では元の歴史通り七歳になってから召喚術を教えるつもりだったが、本人がやる気になったのなら前倒ししたって構わない。俺はジレッドに予備の魔晶片の指輪を与え、召喚術の基礎を教え始めることにした。


   ◆


「いいか、精霊は異界といって、俺たちとは違う世界にいる。干渉できる手はただ一つ、この魔晶片の指輪だ。魔晶片とはこの世界が精霊によって創られたときの名残だと言われている。魔晶片を通じて精霊の元へ赴き、魔晶片を通して精霊をこの世界に召喚する。それが俺たち精霊使いだ。もっとも、小さな魔晶片で呼び出せる精霊は下位精霊に限られるが」


「精霊使いになるには、自分と相性のいい精霊を感知するところから始まる。《精霊感知》と呼ばれる術で、これは感受性の高い子供の頃にしかできないと言われている。だからおまえはこれからしばらく、《精霊感知》の修行を積むんだ」


「精霊はどこにでもいる。森にも、風にも、大地にも。ただその存在は理屈で説明できるものじゃない。精霊の存在を感知できるかできないか、それだけが精霊使いになれるかどうかを決めるんだ。その適性があるのは一〇〇〇人に一人程度と言われている」


「精霊を探し出せれば接触してその真名を聞き出すことで、《融合契約》ができる。たとえば、俺が契約してるノームはダアルという真名を持っている。だが真名は知ってるだけじゃ意味がない、異界で精霊から真名を教えてもらうという行為そのものが必要なんだ」


 ジレンがその気になってくれたことがうれしく、俺は遠慮なく必要なことを教えた。五歳の子供に理解できる話ではないかもしれない。だが、

「子供は五歳にもなったら自我も目覚めるし人の顔色だってうかがうようになるわ。あなたの教えが無駄になることはないわよ」

 シスター・ノアはそう言って後押ししてくれたし、事実、ジレンは必死に理解しようとしていた。


   ◆


 未来から来た俺という存在や、ティアナが生き残ったためだろう、俺の知っている歴史とは異なり始めていた。ジレンが六歳になったとき、思いも寄らぬ事件が起こった。

 それはジレンとティアナが外で遊んでいるときのことだ。孤児院の外からグウウウという獣のうなり声が聞こえたのだ。

「ねえジレッド! 今の……熊じゃない!?」

「ま、まずい!」

 シスター・ノアが言い終えるより前に、俺は孤児院を飛び出していた。寂れていようが農村に野獣が出るのは珍しくない。俺の顔色はそうはくだっただろう、もしジレンが熊に襲われるようなことでもあれば、俺の存在にもかかわる。なによりティアナとジレンの二人がをするようなところは想像したくない。

「ジレン、こわいよぅ……」

「だ、大丈夫。僕がいるから……!」

 外に出ると、予想通りの光景が広がっていた。恐怖で動けないでいるティアナをかばうように、ジレンが立っている。そしてジレンの視線の先には──大きな熊がいた。熊は滅多に人前に姿を現さないというが、人間の子供は格好のエサに見えたのかもしれない、今にも飛びかかりそうだ。

「冗談じゃない! 顕現せよ大地の精霊!」

 二人を守るため、俺は慌てて土の精霊を召喚した。地面を隆起させて二人を守る《石の壁》という術を使おうと思ったが、距離があるため狙った場所に出せるか自信がなかった。やむなく、土の精霊に命じて石つぶてを投じる。

 だがそれよりも早く、熊がジレンに飛びかかった。それにあの巨体では石つぶてを当てたぐらいでは止まらないかもしれない。俺は恐らく顔面蒼白になっていたに違いない。使える手が一切ないのだ。

「うわああああああ!」

 ジレンが悲鳴を上げた。いや、違う、気合いを入れるために叫んだのだ。なんとかしようと本能的に両手を突き出す。

 奇跡が起こったのはそのときだった。

 ジレンが両手を突き出したのと同時に、地面が隆起した。突然岩の壁が地面からり出し、盾となって熊の進路を遮ったのだ。先ほど俺が使おうとした《石の壁》である。

 熊は回避しきれず、硬い壁に顔面をぶつけた。傷を負った様子はなかったが、あまりに理解不能な状況に危険を感じたのかもしれない。そのまま逃げ去っていった。

「ジレン、今なにをしたんだ……!?」

 俺は慌てて過去の自分に駆け寄った。別段怪我を負った様子はなく、その代わり疲れたように地面にへたり込んでいる。

「ねえ、今僕が使ったのって……ジレッドと同じ、土の精霊の力だよね?」

「ああ、間違いない。一体どうして召喚術が使えたんだ?」

「わ、分かんないよ。僕にもジレッドと同じことができたらティアナを守れるって思ったんだけど」

「だからって、契約もしてないのに召喚術を成功させられるはずが……!」

 それは精霊使いの歴史で言えばあり得ない話だった。相性がいい、もしくは何十年も使い込んだ精霊なら、召喚媒体や詠唱を省略して召喚することもできるという。だがそもそもジレンはいかなる精霊とも契約していない。

 だが、先ほどジレンは間違いなくノームの召喚に成功していた。ジレンがへたり込んでいるのもそのせいだろう、召喚には精神力を消耗するからだ。

「……いや、そうか。考えられる理由が一つあったな」

《過去転移》してから六年も子育てに奔走していたので忘れていた。

 答えは一つしか考えられない、ジレンが呼び出したのは、俺が契約したノームだったからだ。言い換えれば、俺が召喚できる精霊は、真名さえ知っていればジレンにも扱えるのだ。

 実のところ、そうだろうと推測はしていた。《過去転移》した理由の一つだ。

 まず精霊は時の流れさえ異なる異界の存在であり、契約さえしていれば過去に戻っても召喚できる。これはすでに俺自身で確かめたことだ。

 また、時空の精霊クロノスはかつてこう言った。ジレンが死ねば俺は消滅すると。つまり、俺とジレンの魂は同一のものなのだ。そもそも魂というものがどういうものかは誰も知らないが、もし魂に固有の番号のようなものがあるとすれば、間違いなくジレンと俺の番号は同じになるはずだ。魂で精霊と結びついている以上、俺と同じ魂を持つジレンが俺の契約したノームを扱えても不思議ではない。

 もっとも、未来に契約した精霊が過去の自分にも召喚できるとすれば、新たな疑問が生じる。たとえばある精霊使いが一〇歳のときにサラマンダーと契約したとしよう。だが契約した時期にかかわらず契約が有効であるならば、その精霊使いは一〇歳未満のときであってもサラマンダーを召喚できてしまうことになる。

 もっとも、現実には無理な話ではある。真名が分からないからだ。

 一方、ジレンは偶然ながらも俺が契約しているノームのダアルという真名を知っていた。本来なら、真名は知っているだけでは意味がない。ただそれは他人同士の話であって、俺とジレンは同一人物なのだ。同一人物が真名を知っていれば、召喚が可能なのかもしれない。

「つまりジレンは、俺と契約してる精霊の真名を知るだけで、召喚が可能になるのか」


 公になることはないだろうが、それは精霊使いの常識が変わった瞬間だった。

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