第一章 第一話 ジレンとジレッド

 気がつけば、俺は野原にぽつんと立っていた。

「過去に来た……のか?」

 ひとまず自分の体を見る。幸い、異常はない。衣服はもちろん、所持品──右手中指に付けた精霊使いのあかしたる魔晶片の指輪もだ。魔晶片の入手は難しくはないが、これがなければほとんどの召喚術が使えなくなってしまう。

 未来から過去にモノを持っていくのは因果律の修正対象になるのではと心配していたが、この程度は誤差の範囲内ということだろう。一度の《過去転移》は許されることを考えれば、あり得る話だ。

 問題は、精霊を実際に召喚できるかである。俺が初めて精霊と契約したのはフェロキア暦二〇七年だ。今が本当にフェロキア暦二〇〇年なのだとしたら、七年も先のこととなる。果たして過去に戻っても《融合契約》は有効なのだろうか。

 俺は魔晶片の付いた指輪を大地に向けた。大地を媒体に《精霊召喚》を試みるのだ。大地の精霊ノームは俺ともっとも相性のいい精霊であり、本来ならその召喚は容易のはずである。

「顕現せよ、大地の精霊」

 ノームとは種族名に過ぎず、召喚には精霊の真名が──正確には真名を知っていることが必要になる。俺は初めて契約したノームの真名、ダアルという名を思い浮かべた。

 心配はゆうだった。すぐにずんぐりとした小人のような大地の精霊ノームが現れる。

 試しにノームに命じて落ちていた石ころを飛ばさせてみた。なにも問題ない。

「やはり、精霊は俺たちとは異なる時の流れを生きているのか」

 それは昔の有名な召喚士が、精霊の口から直接聞き出した言葉だ。精霊は異なる次元──異界からこの世界の万物をつかさどっており、召喚士はそんな精霊の真名を知ることで魂同士が結びつき、力を行使できる。

 異界は時間の流れが異なっており、それを裏付ける現象も確認されていた。たとえば精霊には老いも若きも存在しないし、先祖代々一〇〇年以上にわたって契約を引き継がれてきた精霊もいるという。

 つまり俺の契約した精霊であれば、過去に転移しても俺とのつながりは失われない。想定していたことではあるが、実証できるとあんできる。

「となれば、次にやることは……」

 状況を把握しようと周囲を見回す。太陽の位置から、まだ日の出の時刻ということは分かる。ふと見れば、寂れた農村があった。見覚えがあった。当然だ、俺は七歳になるまであの農村の外れにある孤児院で育ったのだから。

「うあああああん! ああああああん!」

 そのとき、赤ん坊の泣き声が聞こえた。

 ふと声のした方を見ると、布にくるまれた赤ん坊が転がっている。

「おまえが俺なのか?」

 育ての親から聞いたところによると、俺は赤ん坊の頃、孤児院の近くに捨てられていたという。その情報が正しく、また時空の精霊クロノスが忠実に契約を実行したとすると、この赤ん坊こそ俺ということになる。

 俺は恐る恐る赤ん坊を抱きあげた。まだ首もすわっていないので、俺の腕に赤ん坊の頭を載せるようにしてゆっくりだ。こうなることを想定して練習しておいてよかった。

 赤ん坊の頃の俺がどんな見た目をしていたかなんて分からないが、間違いなく俺だという気がする。精霊使いには《精霊感知》という相性のいい精霊を探し出す術がある。そのためか、この赤ん坊の魂も、俺との相性がいいという気配を感じるのだ。自分でもまったくよく分からない未知の感覚だが。

 一つ困ったことに、赤ん坊は一向に泣きむ気配がなかった。他ならぬ未来の俺に抱っこされているというのに。

「ちょっと、誰なのあなた!? その赤ちゃんどうしたの!? 泣いてるじゃない!」

 俺が困り果てたそのとき、突然人の声がした。思わず振り返った俺は驚くことになる。

 よく知った人物がいたからだ。修道服に身を包んだ少女だ。頭巾で髪まで覆っているが、俺が見間違えるはずもない。シスター・ノア。すぐ近くにある孤児院で孤児の世話をしていた人物──ようするに俺の育ての親だ。

 このときはまだ一〇代後半ぐらいのはずである。にもかかわらず、俺が最後に見たときと同じ容姿だったので見間違いようがない。昔からとしを取らない人だと思っていたが、本当に今も昔も変わらない。いや、俺は過去に来たのだから今も未来も変わらないと言うべきか。

「ああ、すまない。ここに孤児院があると聞いて来たんだ。この赤ん坊は──俺の友人の子でな」

 俺は内心の驚きを押し隠し、用意していた作り話を口にした。

「友人はこの子を俺に託してくなり、どうしようかと途方にくれていたんだ。金は払うし、俺も手伝う。この子を育てるのを手伝ってくれないか?」

「なにそれ。ちょっと待って、いきなり事情が深すぎて戸惑うんだけど」

 もっともである。だが俺は知っている。シスター・ノアは子供に弱い。俺が抱えている赤ん坊の泣き顔を見れば、拒否できないのは分かっていた。

「ああもうっ、いいからその子貸して! すごい泣いてるじゃない!」

「もちろんだ」

 俺はシスター・ノアに赤ん坊の俺を手渡した。

「なんてちっちゃなお手々。ほら、もう大丈夫よ」

 まるで今後の未来が分かっているかのように。

 赤ん坊の俺は、シスター・ノアの腕の中で泣き止むと無邪気な笑顔を向けた。そんな赤ん坊に優しく笑顔を返すシスター・ノアの横顔は、まさに聖母のようである。

「わたしの名前はノアよ。この子の名前は?」

「……名はまだないんだ」

 ジレン、と教えるのは簡単だがあえて俺は黙っていた。俺の名はシスター・ノアに付けてもらった大事なものだ。俺に名を与えてくれるのは、いつもシスター・ノアでいて欲しかった。

「この孤児院で世話になるんだ、名付け親になってもらえないか、シスター」

「ちょ、ちょっと待って! この子とわたしは今日初めて出会ったのよ? いきなり名前を付けろだなんて、いくらなんでも責任重大過ぎるわ」

「別に問題ないだろう、他に名付けてくれる人もいないし。それに孤児院では珍しくないと聞くぞ、シスターが赤ん坊の名付け親になるというのは」

 なおも言うと、ようやくシスター・ノアは名付け親になる覚悟を決めたようだった。

「……仕方ないわね、分かったわ。じゃああなた、名前は?」

「お、俺の名前か? 俺とその子は親子でもなんでもない、俺の名は関係ないだろう」

「だとしても、その子を救ったのはあなたよ。あなたにちなんだ名前にすべきだわ」

 そのような展開になるとはさすがに予想外で、俺は必死でジレンにちなんだ偽名を考えなければならなかった。

「俺の名は……ジレッドだ」

「そう。じゃあこの子の名前は……ジレン。あなたは今日からジレンよ」

 これも因果律の仕業なのかもしれない。赤ん坊の俺は、かつて俺がそうだったようにジレンという名を与えられた。


   ◆


 この農村──ラメルダ村には、アムリタ教の孤児院がある。正式名称を〝大地の子の園〟というのだが、近隣の住人たちからはラメルダ孤児院と呼ばれていたらしい。

〝大地の子の園〟などという名とはあまりに不釣り合いな老朽化した孤児院だったし、なによりもラメルダ村自体、すでに誰も住んでいない無人の村となっていたからだ。シスター・ノアただ一人を除いて。

 戦争のせいだ。今から一年前、つまり俺が生まれる前のフェロキア暦一九九年。隣国リーンバル王国がロヴェーレ帝国の侵攻を受けた。それだけなら隣国同士が戦争してるだけの他人ひとごとだが、このグラストル公国はかつて帝国の属国であったにもかかわらず、今はリーンバル王国と同盟関係にある。

 いつリーンバル王国の味方をするかもしれない裏切り者のグラストル公国この国を、帝国は放置しなかった。軍勢こそやってこなかったものの、考えようによってはそれ以上の最悪の状況に陥った。

 水源を──帝国領から流れるデナール河の流れを変えられてしまったのだ。

 この辺り一帯に流れ込む水量は激減し、人々の生活は大打撃を受けた。ほとんどの農業は天水で賄われていたが、多くの用水路や貯水池もかつし、一部では井戸まで干上がってしまった。また河は大事な流通網であり、流れる水は水車を動かす動力源ともなる。それらの多くが失われては、この地で生きていける人の数は極端に減る。

 グラストル公国には単独で河を奪還できるだけの力もない。結果としてこの辺りに住んでいた人々のほとんどは、他の土地へ移った。残ったのは行くアテもない、あるいは他の土地へ移る余力もない人々だけである。

 このラメルダ村は、その影響を受けた村の一つだ。村を流れる小川はとうの昔に干上がり、井戸の水位も大きく下がった結果、住人たちはすべて逃げ出し、残ったのはシスター・ノアただ一人だった。

 シスター・ノアが残った理由は二つ。彼女自身もこの孤児院の出身であり、故郷を捨てられなかったこと。そして多くの人が逃げ出すような土地だからこそ、子供を保護する場所が必要だと考えたからだ。困窮した農民が子捨てに及ぶことは珍しくないのだから。

 事実、赤ん坊の時に捨てられた俺は彼女によって救われることになるし、この後、別の孤児が孤児院の前に捨てられ、シスター・ノアに拾われることになる。もっとも、その子はシスター・ノアの懸命な看護のなくこの世を去ることになるが。

 住人が逃げ去った農村には財貨の類はまったく残っていなかったが、畑や家具はもちろん、多少の食糧も残っていた。それに孤児院が属するアムリタ教の信者も、定期的に物資を持ってきてくれた。それがためにシスター・ノアとかつての俺はこの地で暮らすことができたのだ。

 もっとも、その陰にはシスターの膨大な苦労があったことを俺はあらためて知ることとなる。


「不安だわ。これぐらいの赤ちゃんに本当に必要なのは母乳やれいな水よ。この村の水はアテにならないし、ミルクや薄めたむぎがゆでちゃんと育てられるかしら……?」

 俺が知っているシスターは、子供のためならいつも気丈に振る舞う人だった。だが今、過去の俺──ジレンの寝顔を見つめているシスターは、不安を隠そうともしなかった。涙さえ流しそうだった。俺の育ての親がこんな顔をすることもあったんだと驚いたぐらいだ。

「大丈夫、この子はきっと立派に育つさ」

 俺はただ事実を口にした。前の世界において、離乳食もまだ食べられない赤ん坊の俺のために、シスター・ノアはあらゆる手を尽くしてくれた。山羊やぎのミルク、果汁に重湯。少しでも俺に栄養を取らせようとしてくれた結果、俺は生き残ったのだ。

 とはいえ、毎日のように成長する赤ん坊にとって、栄養が重要であるのは間違いない。赤ん坊のときに充分な栄養を取れなかったこともあってか、俺は小さいころから今に至るまで細身で、シスター・ノアによく「ごめんなさい、おなか一杯食べさせてあげられなくて」と謝罪されたものだ。あれはこたえた。シスター・ノアが一生懸命だったことを知っていたからだ。

 だから、俺は早速未来を変える行動を始めた。

「清潔な水なら任せてくれ」

 俺は水の精霊ウンディーネを召喚した。空気中の水分を水に変えて容器に注ぐ。二、三人が一日に必要な量の水ならどうにか作り出せるのだ。

 それに俺は《過去転移》するにあたって、あらゆる財産を処分し、持てるだけの財貨を持ってきていた。どうやらその程度の財貨を未来から持ってくることは因果律も許してくれたようで、すべて手元に残っている。その金を惜しみなく使った。遠くの町まで出向いて芋や野菜、果実を購入し、乳母まで雇った。ジレンのためだけではない、シスター・ノアにも少しでも美味おいしいものを食べてもらい、楽をして欲しかったからだ。


   ◆


「あらまあ、ラメルダ村の孤児院にまだシスターが残ってるって話は聞いてたけど、孤児までいたとはねえ。おっぱいなら任せときな」

 俺が雇った乳母は豪快で体も大きい三〇ほどの女で、まさに母乳が有り余ってるという印象だった。実際その効果は抜群で、数か月が経過した頃には、過去の俺──ジレンは乳児期を乗り切り、でっぷりと太ってシスター・ノアを笑わせ俺を心配させたほどだ。

「あはは、見てよこの腕、ぷにぷに。よく育ったもんね、あれだけ飲めば当然だけど」

「だ、大丈夫なのか? こんなにぷくぷくになっちゃって」

 俺の疑問を笑い飛ばしたのは乳母である。

「ハイハイを始めりゃすぐ元通りになるさ。これだけ大きくなりゃもう大丈夫だ、乳母の役目ももう終わりだね」

 彼女の指摘通り俺の心配はゆうに終わり、すぐにジレンは標準的な赤ん坊の体型に戻っていった。間もなく乳母との契約も無事終わり、三人で過ごす日々に戻った。


   ◆


「ありがとう、ここまでジレンを育てられたのはあなたのお陰よ」

 乳母が帰って行った日の夜、シスター・ノアはジレンに麦粥を食べさせながらあらたまったように口にした。

「礼なんか要らない。ジレンを一緒に育ててくれてるだけで俺の方が感謝したいぐらいだ」

「いいのよ、それがわたしの役目なんだから。でも……わたし一人じゃきっと無理だったわ。子供の面倒を見るのも、この孤児院を維持することだって」

 それは前の世界では聞いたこともない、彼女の弱音だった。

 実際のところ、彼女にはできることを俺は知っていた。シスター・ノアはたった一人で俺を育て、孤児院をギリギリまで維持したのだから。

 だが表に出さないだけで、内心では苦労していたのであろうことは容易に想像がつく。だから俺は言った。

「ああ、できる限りのことはする。なんでも手伝わせてくれ」

「……そう。あ、ありがとう」

 俺は小さい頃からシスター・ノアに甘えてばかりだった。物心つく頃にはむしろシスター・ノアに頼られたいと思うようにもなったが、一〇代の子供にできることには限界がある。

 だがこの世界では俺の方がシスター・ノアより年上で、彼女が俺を頼ってくれる。《過去転移》した俺の目的は召喚術を極めることだったが、彼女の力になれることは純粋にうれしかった。

 もちろん、本来の目的についても成果が出始めていた。ある日、俺はシスター・ノアに次のような指摘を受けることになる。


   ◆


「ジレッド。あなた最近なんだか体が大きくなってない? 初めて会ったときと比べたら一回りは大きくなってると思うんだけど」

「……やっぱりか」

 俺の体はこの数か月で成長していた。わずかに背が伸び、以前と比べて疲れにくくなったし、なによりも骨が太くなったという実感もあった。

 別に体を鍛えていたわけでもなく、成長期もすでに終わっていることを考えると、今これだけ自分の体が成長する理由はない。理由があるとすればそれはたった一つ。

 歴史の改変が行われたのだ。

 本来の歴史であれば、俺は母乳の代わりに山羊のミルクや麦粥でかろうじて生き残ることとなる。一方、この世界での俺は、有り余るほどの母乳で育った。毎日のように成長する乳児期において、この差が小さいとは思えない。過去の歴史が変わった結果、未来の俺に影響が出たのではないか。

 別に俺は歴史に大きな影響を与える行動は取っていないし、そのつもりもない。それゆえに因果律の修正対象にもなっていないのだろう。

《過去転移》した意味は、すでに証明されつつあった。だがこれはほんの序盤である。本当の効果はこれから実現されるのだ。

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