第1章 真壁静流と年上の彼女たち 3

 久しぶりに登校したその日の放課後、僕は図書室に足を運んだ。

 利用する側としてではなく、図書委員として。

 蓮見先輩が指摘した通り、僕は図書委員会に属している。しかも、たったひとりしかいない図書委員だ。

 図書委員の仕事はさほど多くない。放課後に図書室を開け、午後六時になったら閉める。開室時間中は、図書の貸出、返却の対応やはいといったところ。選書や図書の購入、受入といった複雑なことは教職員の仕事だ。

 僕がやむを得ぬ事情で欠席している間、手が空いている先生が図書室を開け、カウンターに座っていたと聞いている。

 職員室で受け取った鍵で図書室を開けると、最初に目に飛び込んできたのは、カウンターに山と積まれた返却図書だった。

「ま、予想はしていたけど……」

 どうせ図書室の業務に入ってくれた先生は、カウンターで自分の仕事をしながら片手間に貸出、返却だけをして、配架はほとんどしなかったにちがいない。

 書架に返すべき図書の山を眺めていると、その僕の後ろを誰かが通り過ぎていった。

 いつも必ずいちばんに乗り込んでくる三年の女子生徒だ。

 彼女はストレートロングの黒髪をなびかせ、窓際のいつもの席に座った。……久しぶりに顔を合わせたのだから、何か言葉のひとつもあっていいと思うのだけどな。かおみでもあるのだし。

 僕はさっそく端末の電源を入れた。がるまでに時間がかかるので、それまでに図書をひとかたまり配架しておくことにする。

 そうやって効率的に作業を進めていると、やがてちらほらと生徒がやってきた。ほとんどが常連だ。そのうちの何人かは、久しぶりに姿を見せた僕に声をかけてくる。どうしていたのかと問われるが、「まぁ、ちょっとね」としておく。身内の不幸なんて聞かされても困るだろう。

 そうしてたまっていた図書の配架をあらかた片づけたころだった。

「真壁くん」

 響くようなせんりつてきな声音で名前を呼ばれた。

 カウンターに座っていた僕が顔を上げると、そこには長めの髪を丁寧に手間をかけてセットしたせいけいじん微笑ほほえみながら立っていた。やわらかいラインで描かれた目の輪郭が見るものに優しげな印象を与える。


 瀧浪泪華。

 蓮見紫苑と一緒に名前が挙がることの多い、我が私立あかねだい高校が誇る美少女の双璧のもうひとりだ。


「昼休みにろうですれちがったから、もう学校にきているのはわかっていたけど──久しぶりにここで顔が見れて嬉しいわ」

「いつまでも休んでいられませんからね」

 僕がそう答えると、瀧浪先輩は一転して微笑みを曇らせた。

「でも、お母様が亡くなられたと聞いたわ。真壁くん、大丈夫?」

 どうやらこちらの事情を知っていたようだ。図書委員の僕が長く休んでいるから、僕の担任か図書委員会の顧問になっている先生にでも聞いたのだろう。

「まぁ、さすがに胸を張って大丈夫ですとは言えませんね。たったひとりの母親を亡くしましたから。とは言え、いつまでも嘆いてはいられないので、気持ちの整理はつけますよ」

「そう。強いのね。何か困ったことがあったらわたしに言ってね? 力になるわ」

 瀧浪泪華とはこういう人だ。

 蓮見先輩ほどの気安さはなくて、接点が薄いと話しかけにくいが、彼女自身は誰にでも平等に接する。こういうところが彼女の人気を支えているのだろう。

「ありがとうございます」

 僕は素直に礼を述べた。

(我ながら、いや、お互いにしらじらしいな。……今さらだけど)

 しかし、内心ではそんなことを思う。

 ふと壁掛け時計を見てみれば、二本の針はもう午後五時五十分を指していた。閉室十分前。積まれていた図書を黙々と片づけているうちに、思っていた以上に時間がたっていたようだ。

 図書室の中を見回してみれば、利用者として残っている生徒はたったふたり。最初に入ってきた三年の女子ともうひとり、勉強熱心そうな男子生徒だけ。後者はちょうど帰ろうとしていたようで、今まさにかばんを持って立ち上がったところだった。

 僕と瀧浪先輩は、無言でその生徒が出ていくのを見送る。

 そうしてその生徒の姿が見えなくなった直後、まるでそれを待っていたかのように、


「あのね、静流、わたしに何の連絡もないなんてひどくはないかしら? ずっと休んでるから心配したのよ?」


 瀧浪先輩はにゆうな笑みはどこへやら、実に不満そうな顔をカウンターに身を乗り出すようにして僕に向けてきた。冬服を着ていたら、ネクタイを掴まれて引っ張られていたかもしれない。

「赤の他人の瀧浪先輩に知らせる義理はないよ」

 一方、僕もスイッチを切り替え──負けじと素っ気なく言い返す。

「わかったわ。じゃあ、わたしたち、正式におつき合いしましょう? それなら赤の他人じゃなくなるわ」

「隙あらばまたそんなこと言う。……遠慮しておくよ」

 瀧浪泪華とはこういう人でもあった。

 表向きは穏やかに高校生活を送る、おしとやかで物腰のやわらかい優等生。でも、裏の顔はこれ。周りに人がいなくてふたりだけになると、途端にこうだ。

 僕と瀧浪先輩にはひとつ、共通点がある。

 それは──。


    §§§


 僕が瀧浪泪華という女性と出会ったのはつい最近のこと。この春、二年生に上がってからだ。

 いつものようにたったひとりの図書委員として僕がカウンターに座っていると、閉室間際、彼女が現れたのだ。

 瀧浪先輩はやや緊張気味に入ってきた。きっと普段あまり図書室を利用していないのだろう。でも、何か用があってここにこなければならなかった、といったところか──僕は冷静にそう想像する。

 と、ふいに彼女と目が合った。

 同時、僕は笑顔を作る。

「こんにちは、瀧浪先輩」

 にこやかにあいさつ

 だが、彼女からの返事はない。それどころか瀧浪先輩は今まで僕が見たことがないような、どこか観察するような冷たい視線をこちらに向けてきた。

(へぇ、あの瀧浪先輩もこんな顔をするのか……)

 意外に思う。

 だが、それがよくなかった。

 僕が彼女を観察したのと同じ時間だけ、瀧浪先輩に僕を観察する時間を与えてしまったのだ。この後、すぐに僕はわかる。ほんの数瞬だけど、彼女にはそれで十分なのだと。

「ええ、こんにちは」

 ようやく瀧浪先輩は、やわらかい笑顔とともに言葉を返してきた。

 もつとも、ようやくと言っても、おそらくこの間は十秒にも満たない時間だっただろう。

「何か本をお探しですか?」

「そうねぇ……」

 と、考える素振りを見せながら、瀧浪先輩はカウンターの前に立つ。

 そうしてから僕の反応をうかがうように次句を継いだ。


「『しんえんのぞくとき、深淵もまたこちらを覗いている』」


「……」

 僕は思わず返すべき言葉を見失う。

 このタイミングで口にしたその台詞せりふは、まるで先ほどの僕のようではないか。瀧浪先輩はいったいどういう意図でこの言葉をつむいだのだろうか。

「有名な言葉ですね。確かニーチェの名言集なら何冊かありますよ」

 それでも僕はすぐに立て直し、応じる。

「あなた、図書委員? 名前は?」

 瀧浪先輩は問うてきた。

「真壁静流です」

「ふうん。真壁、静流、ね」

 瀧浪先輩は響きを確かめるように、僕の名前を丁寧に発音する。

「わたしのこと知ってるの?」

「それはもう、瀧浪先輩は有名人ですからね。この学校の男子で知らないやつはいませんよ」

「あら、そんなに有名になった覚えはないのだけど」

 彼女はそう言って、くすぐったそうに笑った。

「何か本を探しているのでしたら、僕がお手伝いさせてもらいますよ」

 ごくごく自然に言葉を交わす僕と瀧浪先輩。

 先ほど僕は彼女に観察されていると思ったのだが、気のせいだったのだろうか? と考えた矢先、それは不意打ちのように飛んできた。

「ううん、本はいいわ」

 彼女は首を横に振る。

「それよりも──ねぇ、真壁くん? あなた、自分自身を含めて今の状況を、まるで他人のことみたいに冷静に、かんで見れたりしない?」

「……」

 僕は警戒のあまり無言になる。

「あたりみたいね」

 瀧浪先輩は、口のはしを吊り上げるようにして笑みを浮かべた。今まで見たことがない、瀧浪泪華に似つかわしくない笑い方だった。

「あなたはわたしが入ってきたら、まずわたしのことを観察した」

「……」

 わかっていたのか。

 まさしくニーチェが言うところの深淵だな。

「それから目が合うと、すぐに笑顔を用意したわ。でも、わたしが普段は見せないような顔を見せたら、それも冷静に観察した」

 つまり自分を観察させることで、僕を観察したわけだ。やはり最初に感じたことは間違っていなかったらしい。

 何もかも瀧浪先輩の言う通りだった。

 そう、僕は自分を冷ややかに客観視できる。その時どきの状況を含めて自分を客観的に見ることで、その場その場で自分がどう振る舞い、どんな表情を作ればいいか、最適解が出せてしまうのだ。

「どうやらわたしたち、『同類』のようね」

「同類?」

「ええ、同類」

 瀧浪先輩は大きくうなずいた。

「わたしも同じよ。自分のことをひどく冷静に、俯瞰で見れてしまう。いま自分がどんなふうにすればベストかわかってしまうの。だから、わたしたちは同類」

「僕はまだそうだとは言っていませんが?」

「でも、否定もしていない。わたしの言ったことがまるで見当ちがいだったら、すぐに否定してるはずだわ。……図書室に本を探しにきて、こんな思わぬものを見つけてしまうとはね」

 瀧浪泪華は、実に楽しげに笑う。

「あなた、図書委員として笑顔を振りまいてるより、今みたいに冷静に場をえてるほうがカッコいいわよ」

「知ってますよ、それくらい」

 僕は即座に言い返した。

 自分のことは自分がよくわかっている。客観的評価として、僕はさほど見た目は悪くない。ただ、それは己の努力で獲得したものではなく、母から与えられたものなので自慢する気にならないだけ。

「そう。自分を知ることはいいことだわ」

 僕のうぬれにも聞こえる返事に、瀧浪先輩は満足げにまたも微笑む。


「じゃあ、その真壁くんに聞くわ。……あなた、ちゃんと『自分』はある?」

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