【序章 ずっと続くと思ってたから】4
「……なに……これ……」
拾い上げた少年の皮膚は、やがて真っ白な灰と化す。指の隙間からサラサラと零れ、ぬるい風に溶けて行った。
「……ペイシェント、ゼロ……?」
脳が理解を拒んでいる。とても心が追い付かない。
心臓が暴れ、全身の毛穴から冷や汗が噴き出す。
「なんで、こんな……」
そのうち少年は濁った眼球すらも掻き毟り、眼窩に指を挿し込んだ。ぐじゅりと湿った音がして抉り出された眼球は、なぜか血液の赤ではなく、粘液の白で濡れていた。眼窩にぽかりと開いた空洞からも、どろり白い液体が溢れ出し。
「なんでッ──」
「──アアアアァァァッ……!!」
絶叫と共に、少年は激しくのけ反った。
捻じれ合った脚が地面に突き刺さり、急速に伸びて大地に根を張ってゆく。
体中にボコボコと蓮の花托のような穴が空き、どこか人間の腕に似た白い枝が、全身の毛穴を、強引に押し広げて生えてくる。
顔からも、耳からも、胸や腹や尻からも、不気味な枝が次々に萌芽し育ってゆく。
「ソゥちゃん……!」
返事はない。しかし声に反応するように、無数の枝は一斉に動作を開始する。
手の形をした枝の先端には、眼球の形をした白い果実が握られていた。次々と握り潰されてゆく眼球が、ブチンという破裂音とともに炸裂する。
むっと甘い匂いのする不気味な白霧が、一瞬で帝国中に広がった。
「ソラ……ソゥちゃんっ……!」
「触るんじゃない、シキッ!」
思わず駆け寄ろうとしたシキのことを、背後の青年が怒鳴りつけた。
「……あれは危険だ! たぶん僕たちに、どうこう出来る存在じゃない!」
青年はシキの身体を抱き上げて、一目散に駆け出した。
白き大樹が──愛しい弟が、遠く遠くなってゆく。
「放して、アオイさん」
掠れた声で懇願するが、青年は決してシキの言葉を聞き入れない。
「放して……放せよッ! ソラが──」
青年の腕に齧りつき、シキは暴れた。それでも青年はシキを放さず《ササノウカビ》へと乗り込んで、しばらく構造を眺めたかと思うと、素早く船を出航させた。
船はリグレイ帝国を離れ、水平線の向こう側へと進んでゆく。想像を絶する犠牲と引き替えに、愚かな願いへと進んでゆく。
掛け替えのない存在が──遠い世界に消えてゆく。
「ソラを……連れて行かないとっ……!」
遠海に出てからもシキはなお、船を降りようと暴れ続けた。
「だめだよ! あんなとこに、置いて行けない──」
「いい加減にしないかッ!!」
ばちん。聞き分けのないシキの頬を、アオイは思い切り平手打ちした。
甲板に倒れ込んだシキの肩を、彼は激しく揺さぶった。反抗しようと拳を握って、その瞬間、シキはハッと気付いて動きを止める。
アオイ=ユリヤは、泣いていた。
「……アオイさん……」
「正気に戻れよ、シキ……お前には、あれが生きてるように見えるのかよ……?」
「…………っ!」
胸が震えた。冷静になって、改めて弟の姿を眺め見る。
白き大樹の核となり果て、得体の知れない悲劇を振りまくその存在は……もはや人間と呼ぶことは叶わない。心臓なんてとうの昔に停止して、笑わず、喋らず、動きもしない。
「ソラは……」
温かさ、柔らかさすら失われ──永遠に、この手に戻って来ることはない。
「……死んでる」
口にした途端、涙が溢れた。
死の実感。身体の芯が抜き取られ、空洞になってしまったような孤独感。
「もう……会えない」
あの子は死んでしまったのだ。
今さらどんなに後悔したって、二度とソラには触れられない。
頭の中では分かっている。今さら何をしたって意味がないと。だけれど……。
「でも……すごく、すごく、可哀そうだ」
溢れる想いを口にすると、アオイさんが
「ああ、本当だ……本当に、本当に……可哀そうだよな」
ひとりぼっちで置き去りにされて、惨たらしい姿になって……あまりに可哀そうで、悲しくて、全身が引き裂かれてしまいそうで。
残された二人で抱き合って、叫んで、喚いて……乾き果ててしまうほど泣いた頃──突然、アオイ=ユリヤが血を吐いた。
「……アオイさん……?」
ただ、呆然とすることしか出来なかった。
青年の吐いた血液には、不気味な白い粘液が混ざっている。白き大樹の実から散る、あの白い霧を吸い込んだせいだと……直感した。
アオイ=ユリヤはもともと身体が弱かった。少し走っただけで息を切らしている姿を、何度も見てきた。彼にとってはほんの少しの毒でさえ、命取りになってしまうのだ。
「アオイさん……」
彼には、まだ微かに息があった。
しかし呼吸は荒く、目は虚ろ。もう長くないことは、明らかだった。
「シキ、これを……」
掠れた声を絞り出し、アオイはシキに何かを手渡す。
彼がいつも身に着けていた、美しい銀細工のついた髪紐だった。
「一族に伝わる……お守りだ。これを君に、持っていてほしい……」
「いらない。受け取れない。もう……ここで、アオイさんと一緒に死ぬ──」
「ダメだ、シキ」
青年は震える小指を、シキに向かって突き出した。
彼らしくない強引さで小指と小指を力強く絡め──もはや気力を失った、シキの瞳をまっすぐに見据え。
「君は……生きるんだ」
「……ッ……!」
その言葉を最期に、アオイ=ユリヤはこと切れた。
見ればシキの小指には、白くなったアオイの血がこびり付いている。小指と小指を絡め合う、帝国では広く“約束”を意味する動作だった。
ササノウカビは順調に海上を滑り、破滅した祖国から遠のいてゆく。海の向こうの大樹の姿が、小さくなって消えてゆく。
左腕の文字列に変化が生じたのは、それから数日後のことだった。アオイの体から温かさが消え、硬直し、それから徐々に融解してゆく光景を、ただ呆然と眺め続けるシキの腕に──懐かしくも忌まわしい痛みが、弾けたのだ。
──死結完了。君の願いと引き替えに、リグレイ帝国は破滅を迎えた。
メッセージが浮かんだのは一瞬だった。
文字列が消え去り、すっかり綺麗になった左腕を眺め……それからシキは、遠い空を仰ぎ見た。
突き抜けるほどの青空の向こうで、今まさに一つの国が、多くの命が、ちっぽけな自分の行動によって失われたという実感は……なんとも非現実的で、どうにも受け入れがたいものだったけれど。
船の柱にしがみつき数日ぶりに立ち上がれば、全身の関節が悲鳴を上げた。
生きるんだ──空っぽの心に、アオイ=ユリヤの言葉が
「……必ず、ここに戻るから」
遠い水平線に向け、語り掛けるようにシキは呟く。
あの子は、今も苦しんでいる。穏やかな死すらも与えられず、突如として吹き込まれたおぞましき魂によって、更なる苦痛を味わい続けている。
可哀そうで、哀れで仕方がない。そんな少年を救うのは、愚かな自分の役割だ。
「……大丈夫だから。シィちゃん、変わるから。強くなって、ここに戻って……絶対に、お前を……ちゃんと、殺してやるからな」
だから寂しがらずに、ここで待っているんだよ。
「──約束だ」
血のこびりついた小指を掲げ、シキは呟く。
そうしてシキ=カガリヤはたった一人船に揺られ、かつて願った未来──未知の世界、海の向こう側へと進んでゆく。
……そして、四年の月日が経った。