【序章 ずっと続くと思ってたから】2

 心臓が、早鐘のように鳴っている。電撃が脳を貫き、全身の皮膚が粟立った。

 当たってしまった。夢想じみた予想が、急速に確信へと変わってゆく。当たってしまった。当たってしまった。馬鹿げた予感が当たってしまった。

(……この海の向こうには、未知の世界が存在する!)

 加速する興味は止まらない。もはや平静を保つことなど困難だった。

 退屈な世界が色を変え、まばゆい光を放ちはじめる。

 海の向こうには何がある? どんな世界が広がっている?

 ……果てなき想像を巡らせるたび、世界はさらに輝いて。

「……ねえ、それ、なあに?」

 不思議そうにシキを見上げ、ソラが小さく首を傾げた。

「……分からない」

 口から飛び出た呟きは、予想外に熱っぽく、ほんの微かに震えていた。

「……? シィちゃんにも、わかんないことがあるの?」

「あのね、ソゥちゃんには秘密にしてたけど……実はシィちゃんにも、知らないこと……まだまだ、いっぱいあるんだよ」

「えーっ!?」

 見せて見せてと言いながら、ソラはぴょんぴょんと飛び跳ねる。

 あんまり必死に跳ねるから、シキは弟にそれを手渡した。わあ、ぜんぜん読めないよ!……そんな無邪気な反応が、即座に返って来ることを期待して。それなのに。

「……どこかの……あなたへ……」

「ソゥちゃん……?」

「とおい、あなたへ……この、てがみを、ささげます」

 じっと手紙を見つめながら、ぽつぽつとソラが呟いた。

 はじめ、彼が何を言っているのか分からなかった。状況が理解出来ず、シキはただ呆然と、少年の姿を見下ろすことしか出来なかった。

 それでも少しずつ、少しずつシキは気付いてゆく。

 信じられないような現象が、目の前で起こっているのだと。

「……読めるの……?」

 掠れた声でシキは問う。するとソラは、得意げに「うん!」と答えるのだ。

「そんなこと……」

 仰天し、シキはまじまじと弟を見つめる。

 だってこの子は、つい最近、やっと絵本を読めるようになったばかりなのに。慣れ親しんだ帝国文字を覚えるだけで、何ヶ月も勉強が必要だったのに。

 意味が分からず、シキはただ困惑していた。

 そんなシキの目に飛び込んできた、ソラの指。不気味なほど深く、紅い輝き──奇妙な予感に突き動かされ、シキは指輪を自分の指に嵌めてみる。

「…………ッ!!」

 効果は一目瞭然だった。

 意味不明だった文字列が、はっきりと意味を持って、頭の中に飛び込んでくる。一言一句が、まるで自分の母国語のように理解出来る。

 さらに驚くべきは、その手紙の内容だった。

 手紙には、こう書かれていた。


 ──どこかの貴方へ。

 遠い貴方へ、この手紙を捧げます。

 突然ですが、貴方には「願い」がありますか?

 これから貴方に教えるのは、果てなき願いを叶えるための方法です。

 空を見上げ、この世界を司る神の名を──「ノル」の名を呼び、祈るのです。

 切なる願いは神へと届き、貴方のことを導くでしょう。

 もし貴方に相応のがあるならば──どうぞ、この方法を試しなさい。


「ノル……?」

 聞いたことのない名だった。

「神? 願いを……叶えてくれるだって?」

 心臓が早鐘のように鳴っている。期待に胸を躍らせる自分と、科学的にあり得ないと冷静な自分が、心の中で対峙している。

 帝国法では「海辺における拾得物は帝国政府に引き渡すべし」という内容が定められている。今すぐ馬鹿げた想像を止め、この瓶を引き渡す……べきだと分かっているけれど。

「……その前に、ちょっと試すぐらいは……良いよね?」

 言い訳めいた呟きとともに、シキは浜辺の砂に座り込む。はしゃぐソラを膝に乗せ、遠い海を見つめながら、ゆっくりと自らの「願い」について想いを馳せた。

 ……自分自身で封じ込めてきた、心の奥深くに刻まれた想いを。

 ずっと、この村で謙虚な生活を送ってきた。不満だなんて、持てるはずもない。貧しい生まれの自分にとって、それは身の丈にあった幸せであると信じてきたから。

 日々の楽しみと言えば、ソラの成長を眺めること。それから帝国発行基礎教書を読むことぐらい。分厚い教書は、いつもシキに知らないことを教えてくれる宝物だった。

 しかし先月──シキはついに教書一式を読み尽くしてしまったのだ。

(……シキ=カガリヤの世界は……もう、これ以上広がることはない。これからずっと、狭くなってゆく一方なんだ)

 そう思うと、心の隙間に影が差した。

 シキ=カガリヤの歩む道は、見通しが良くて安全だ。だけど見通しが良すぎるものだから、五年後、十年後、二十年後──遥か遠くの未来でさえ、とても容易く想像できる。

 井の中の蛙。イノナカノカワズ。世界は無限に広いのに……それなのに自分は、この狭苦しい田舎町に閉じ込められて、年老いるのを待つしかない。

 そうして内面的な豊かさは変わらないまま、外面だけは立派な大人の姿になって……その果てに自分は、どんなに密度の低い人間になると言うのだろう。スカスカのまま年老いて死んで、遺灰を風に吹き飛ばされれば、そこには何も残らない。

(……つまんないよ、そんなの)

 シキ=カガリヤは賢い道を選んでいる。そのことに疑いの余地はない。

 けれど、どこか物足りない。危険で不安定な獣道、あるいは先など見えない荒野の中を──道なき道を、進みたいと思うことは罪なのか?

 ずっと、怖いと思っていた。道を逸れてしまうことを、どうしようもなく恐れていた。

 だけれど今……急に気付いた。このまま終わってしまうこと。狭い世界しか知らずに死ぬこと。そっちの方が、もっとずっと──すごく怖い。

「……嫌だ……」

 新しいことが知りたかった。知らない世界が見たかった。

 ……本当はずっと求めていたのだ。この刺激なき毎日からの脱却を。

 シキはゆっくりと顔を上げ、遠い空を眺め見た。沈みかけていた太陽は、いま完全に海へと溶け込んで、村はとっぷりと闇に包まれていた。

「……ノル」

 初めて口にした“神”の名は、不思議と心をざわめかせ。

「……このままじゃ、終われない」

 きゅっと弟の手を握りしめ、切なる想いを噛みしめる。

 ようやく気付いた、真の願い。

「シキ=カガリヤは──この海の向こうに、行きたいんだ!!」

 口にした瞬間──強烈な熱が、心臓に宿った。

 積み重ねた想いが、血を沸騰させている。燃え滾るような血の奔流が、激しく全身を駆け巡る。内側から焼き尽くされるような感覚に、シキは耐えきれず砂に倒れた。

「ああッ……!」

 劇的な変化が生じたのは、左腕だった。

 鮮烈な灼熱感とともに

「シィちゃ……シィちゃん、どうしたのっ……!?」

 ソラがあわあわと慌てながら、悶えるシキの肩を揺さぶった。

 一過性の灼熱感は、その頃には嘘みたいに消え去っていた。

 荒い呼吸を続けながら、月明かりに腕を掲げる。

 腕全体を覆うように、びっしりと文字が刻まれていた。手紙に記されていたものと同じ形の、奇妙な象形文字だった。


 ──我が名はノル。

 勇敢な君に、類まれなる好機を与えよう。

 我の定めし道標に従い、三つの物を【捨てる】のだ。

 一、この退屈な【故郷】を捨て、帝都に出よ。記憶した基礎教書の内容をそらんじれば、君は帝国学院への特別入学を許可される。学院では薬学を専攻し、勉学に励め。

 二、くだらない【自尊心】を捨て、学院を辞めてユリヤ邸の使用人となれ。屋敷にて、君は博識な青年・アオイ=ユリヤと出会うだろう。彼は病床に伏しているが、心配はいらない。知恵を合わせて行動すれば、彼は必ず救われる。

 三、帝国への【忠誠心】を捨て、青年とともに“禁じられた海岸”を目指せ。行動を起こすのは、君にとって十三回目の誕生日だ。混乱の中、君たちは厳重な警備を突破する。海岸沿いに進んでゆけば《ササノウカビ》を見つけるだろう。

 ササノウカビに乗り込めば、君が望みし新世界への道が拓かれる。

 その扱いは、アオイ=ユリヤに任せれば良い。

 ──さあ恐れずに、今すぐ我の言葉に従うのだ。

 必要なのは、ただ一つの覚悟のみ。

 全てを失い、ゼロへと至る覚悟さえあれば、君は奇跡を手に入れる。


 禍々しく、畏怖すら覚える傷跡は、そんな言葉で締めくくられていた。

「……これに従えば、願いが叶う……?」

 にわかには信じがたいことだった。

「たった……これだけで……?」

 それでも、期待せずにはいられない。

(……証明したい)

 このメッセージは本物なのか。ノルとは、本当に運命を統べるほどの存在なのか。

「……ねえ、ソゥちゃん」

 ゆっくりと体を起こし、傍らの弟へ呼びかける。

「ソゥちゃんは、この村が好き? ずっと、この村にいたいと思う?」

 まっすぐに目を見据え、真剣に問いかけた。

 やはり気に掛かるのは弟のことだ。帝都に行くとするならば、ここにソラを置いて行くか……あるいは一緒に帝都へ出ることになる。

 いずれにせよ、ソラの人生を大きく変えてしまう選択だ。

「うん。ぼくは、ここがすき!」

 するとソラは両手を広げ、にこりと笑った。

「だって、村にはシィちゃんがいるんだもん! ぼくは、シィちゃんがいる場所がいちばんすき! シィちゃんと一緒に、いろんなとこに行ってみたい!」

「……そっか」

 小さな弟をぎゅっと抱きしめると、やわらかく優しい匂いがした。

「シィちゃんだって、ソゥちゃんがいる場所が一番好きだよ」

 覚悟は決まった。

 この子を連れて、生まれ育った村を出る。道標シルベに従って願いを叶え、ソラとともに新しい人生を歩んでゆく。この広い世界の隅々まで、ソラに見せてあげるのだ。

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