【序章 ずっと続くと思ってたから】1
潮風の匂いに包まれて、村は今日も変わらぬ日々を終えてゆく。
浜辺の砂がさらさらと、裸足に絡んで心地よい。夜に向かってじわじわ冷めゆく砂を踏みしめながら、シキ=カガリヤは黄昏の海岸をゆったりと走る。
全速力では走らない。この夕暮れの追いかけっこに、勝っては意味がないからだ。
「……シィちゃん、つかまえたーっ!」
何かがぴょんと、シキの背中に飛び乗った。
……よし、待ってました!
大げさに「ぐあー負けた」と声を上げ、シキは砂浜にごろんと倒れ込む。すると背中の少年は、きゃっきゃと嬉しそうな声を上げた。
「やったあ! ぼくの勝ちっ。シィちゃんは、弱いなあ」
「ああ、本当。ソゥちゃんは凄いや! もう、この村で一番速いんじゃない?」
こうして全力で褒めてやれば、少年はえへんと勝ち誇って胸を張る。ぴかぴかの笑顔、きらきらの目……よし、計画通り!
今日も上手に、負けてやることが出来ました。
「……シキ、ソラ! 二人とも大丈夫? もうすぐ日が暮れるわよ〜」
「あ、お母さん!」
ソラが嬉しそうに顔を上げた。優しい声が、こちらにゆっくりと近付いてくる。
「もうすぐお夕飯にするわよ。お魚、何匹とれたかな?」
「あ……えと」
ここに来てシキは、ようやく自分たちが食材調達を頼まれていたことを思い出す。
慌てて飛び起き、誤魔化すために釣竿を握った。母はとても優しいけれど、怒るとすごく怖いのだ。
「……全然だめだよ、お母さん。ずっと頑張ってたのに、今日は一匹も釣れなくて」
「あら、そうだったの。仕方がないわ、そんな日も──」
穏やかな母の言葉は、しかしシキの姿を見てぴたりと停止。
じとーっと湿った目付きになって、砂だらけの着物と、濡れていない釣竿を交互に見つめる。
やばい、と思った。この目には、いつも全てを見抜かれてしまう。
「バレバレですよ。シキは嘘が下手なんだから、馬鹿なこと言うのはやめなさい」
「う……嘘じゃないよ……」
ここで素直に認めれば良いのに、つい誤魔化しを重ねてしまう。
「砂がついてるのは転んだだけ! 釣竿は……なんだか気付いたら乾いてたの。ふ、不思議だなぁ……ねえ、ソゥちゃん?」
そう言ってソラに目配せするが、まだ五つの弟には、意味を推し量るのは難しかったらしい。
「うん! ほんとなんだよ、お母さん! シィちゃんと追いかけっこして、ソゥちゃん、いっぱい楽しかった〜!」
「そ、ソゥちゃん……違うよ、そうじゃないんだよ……」
「……二人とも、本当に嘘が下手なのねえ」
呆れたように呟いて、母は小さく肩をすくめた。
「お父さんに似たのね。昔からあの人……素直さだけは一流だから」
懐かしむように言ったあと、母は少しだけ、厳しい視線を二人に向けた。
「でもね、素直なだけじゃ生きていけないの。生きるためには、ちゃんと食べなきゃいけないからね。今日はもう少し、日が暮れるまで頑張りなさい。何も釣れなかったら……これから一週間、夕飯のおかず抜きですからね!」
「えー、そんなあ! 一週間は長すぎだよ!」
抗議の甲斐も空しく、母はすたすたと海岸を去ってゆく。
仕方なく、海岸線に腰掛けて釣竿を垂らした。ソラがもぞもぞと潜り込んできたので、そのまま膝に乗せてやる。温かい。重みがずしりと、心地よい。
「……大きくなったね、ソゥちゃんは。さっきまで赤ん坊だったのに」
「えー? 何言ってるの、シィちゃん? ソゥちゃん赤ちゃんじゃないよ!」
不満げに振り向いたソラの頭を、シキは優しく撫でてやる。
「うん……そうだよね。もっと大きくなるんだから、はらぺこのままじゃダメだよね」
生活は楽じゃない。
漁師だった父が怪我をして働けなくなったのが四年前。その日のうちに内職を始めた母は、必死に二人を育ててくれた。
貧しくて、食べるだけで精一杯な毎日だけど……きっと悪くはない日常だ。
「……そろそろシィちゃんも、頑張らないとね」
独り言のように呟いて、シキは釣竿を強く握る。
母の言う通りだ。もう十歳になるのだから、遊んでばかりもいられない。これからは自分が、大好きな家族のことを支えるのだ。
「……だってさ、それが正しい道なんだもん」
ぎゅうと弟を抱きしめながら、自分に言い聞かせるようにシキは言う。
「この村は海の幸が豊富だからさ、無茶しなければ……ギリギリだけど、どうにか生きていけるもんね。みんな優しいし、のんびりしてて平和だし、ソゥちゃんは可愛いし!」
大丈夫、大丈夫、大丈夫。
自分は正しい道を歩んでいる。賢い選択が出来ている。
一度でも道を踏み外したら、人生を立て直すのは大変だ。危険なこと、意味のないことはしない方が良い。
だから安全な道を選ぶ──見通しが良くて、すっかり整備された道だけを。
「……シィちゃん、見て! おひさま、溶けちゃうよ!」
ふいに遠い太陽を指差して、ソラがそんなことを言い出した。
穏やかな現実に引き戻され、シキは優しく弟に問いかける。
「溶けちゃう? 何の話?」
「だって、ほらあ。海に……とろんって……」
「……ああ、そういうこと」
舌足らずなソラの説明に、シキはなるほどと納得する。
遥か遠く、水平線に沈む太陽は、まるでゆらめく真夏の
「大丈夫だよ。明日になれば、また元気に昇ってくる」
もしかしたら我が弟は、詩人の素質があるかもしれないな……そうやって感心していると、ソラは再び「シィちゃん」と呼ぶ。少年は、今度は海を指差していた。
「ねえねえ、シィちゃん。海の……もっと、もっと向こうには何があるのかな?」
「なんにも無いよ。ずっと海があるだけだ」
釣竿を握ったまま、さらりとシキは口にする。
家は貧しく、学校に行ったことはない。だけれどシキは親切な隣人の厚意によって、帝国発行の基礎教書一式を貰い受けていた。何年もかけてそれらを隅から隅まで読み尽くしたシキは、それが当たり前の、大人の世界の常識だと知っていた。
ここ《リグレイ帝国》は、広大な海の、ちょうど中心に浮かぶ島。
この世界に存在する、たったひとつの国なのだ。
「海には危険な生物が棲んでるし、あの向こう……水平線の辺りには、ひどい嵐が吹き荒れてるんだって。危ないから、遠海に出るのは帝国法で禁止されてるんだよ。お父さんは漁師だったけど、それでも、あの岩から奥には絶対に──」
「……なんで?」
しかしソラは、どうにも納得する様子がない。
「なんで、何もないの? なんで見たことないのに、シィちゃんは知ってるの?」
「なんで、って……」
予想外の質問攻めに、答えに窮してシキは黙る。
「…………」
衝撃だった。幼いソラの質問に、答えられなかったからではない。問題なのは今まで自分が一度たりとも、そんな当たり前の疑問すら抱けなかったという事実。
そのことが堪らなくショックだった。
急激に自分がちっぽけに思えて、恥ずかしくて、そんな現状にイライラした。
「……ソゥちゃんはすごいや。なんだかシィちゃん、馬鹿みたいだね」
自嘲気味に呟いて、シキは遠い水平線を眺め見る。
生まれてからずっと、あの向こうには何もないと信じていた。それなのに……確信がぐらぐらと揺らいでゆく。何も言えない、分からない。
井の中の
「……本当だね。本当に……何があるんだろう」
それから五分ほどの時間が過ぎた。
微動だにしなかった竿先が、僅かに動いたのはその時だ。
弾かれるように立ち上がり、力強く竿を握る。がんばれ、がんばれ! 背中に弟のエールを受けながら、シキは全力で竿を引くが。
「……なんだあ、ゴミじゃんか」
釣竿に引っかかっていたのは、魚ではなく薄汚れた瓶だった。
期待外れ。へなへなと座り込み、シキは瓶を手に取った。大きさは掌に収まるほどで、振ればカラコロと音がする。
「なんだろう……これ」
表面の汚れを拭ってみれば、それが繊細な
刻まれていたのは、見たこともない奇妙な模様だ。
「……すごく不思議な瓶だよね。なんだか、まるで──」
──まるで、別の文明世界から届いたみたい。
「…………ッ!!」
閃きと同時、どきんと胸が高鳴った。
(別の、文明……?)
ありえない、あるはずがない。だから変な期待をするんじゃない!
理性がそう警告するが、高まる感情は止まらない。
はやる気持ちを抑えきれず、シキは栓に手を掛ける。そのまま少しだけ力を込めれば、瓶はきゅぽっと音を立てて、拍子抜けするほど簡単に開いた。
まず初めに感じたのは、嗅いだことのない奇妙な匂いだ。ほのかに甘く、それでいて金属のように硬質な香り。逆さにして振ってみれば、掌に二つの“何か”が落ちた。
一つ目は指輪のようだった。美しい紅色の石が嵌っている。全体は白く滑らかで、金属にも鉱物にも感じられた。はじめて目にする宝石に、ソラは瞳をきらきら輝かせ。
「わあー、すごい! 宝物だあーっ!」
指輪を自分の指に嵌めて、嬉しそうにスキップしている。
……一方、シキが興味を抱いたのは二つ目の中身の方だった。
くるくると丸められた、古びた紙。それはどうやら手紙のようで──。
「……うそ……」
書面を目にしたシキは、ごくりと唾を飲み込んだ。
「なに、これ……」
鮮血のように赤いインクで、びっしりと何かが記されている。
並びを見る限り、どうやら文字であるらしい。それなのにシキは、内容を一切理解することが出来ないでいる。
──シキの知らない言語だった。