第二章 吸血鬼はネット通販がお好き 2

「トラちゃんトラちゃん、ちょっと!」

 深夜二時になって、ドリンク冷蔵庫裏のウォークインで品出しの準備をしていたとらを、むらおかが慌てた様子で呼びに来た。

「ちょ、ちょっと手洗ってレジ来てくれる? ていうかトラちゃん英語分かる?」

「英語ですか? あんまり自信ないですけど」

「外国人のお客さんなんだけど、レジの前に突っ立ったまま全然何も話してくれなくて、何言っても反応なくて……トラちゃん? 大丈夫? 見たことないような凄い顔してるけど」

「いえ、心底面倒だって思ってるだけです」

 とらは全力で顔を顰めながらも、手だけはしっかりドリンクを補充していた。

「トラちゃんが珍しいねそこまで仕事を嫌がるの。ねー頼むよ! 若い女の子だし、僕もうどうしたらいいか」

 日付が変わる時間になっても来なかったので油断していた。

 とらは長時間しゃがんでいたため固まった腰を伸ばしてから店に戻ると、果たしてレジの前で棒立ちになっている、見覚えのある女性がいた。

「……お客様、どうされましたか?」

 とらがそう声をかけると、女性が物凄い勢いで振り返り、とらの姿を認めた途端、泣き出すのではないかと不安になるほど表情が崩れる。

 とらがレジに入ると、少しだけ目の周りに疲れが見えるアイリスは、とらを睨んだ。

「店の中、どこにもいないからダマされたかと思ったわ」

「悪いな、裏で品出ししてたんだよ。どうしたんだこんな時間に」

「あれ? 日本語?」

 少し遠くではらはらと見守っていたむらおかが不思議そうな顔をしていた。

「……紅茶」

「え?」

「色々あったから眠り浅くて目が醒めちゃって、紅茶、飲みたくて」

「冷蔵庫の中にペットボトルの、あったろ」

「あんな甘いの、紅茶じゃない。私、甘いお茶って好きじゃないの」

「はーそうか。俺は結構好きなんだが」

「トマトジュースくらい常備してなさいよ。そういう生き物でしょ」

 流石にここで、吸血鬼という単語を使うほど迂闊ではないようだ。

「俺はトマトジュース好きじゃねぇんだ。もっと言えば、トマトそのものがそんなに好きじゃない。赤い液体なら何でもいいってわけじゃねえんだよ」

「変なの」

「勝手なイメージで物言うなよ。一応専門職だろ」

 吸血鬼が血の代わりにトマトジュースを飲むという誤解は一体どこから広まったものか。

 ビールを飲みたい人間に麦茶で満足しろというようなものだしそれに、

「ちなみに俺、休憩時間に近くの深夜営業のラーメン屋でとんこつラーメンとコーラ注文したからな。ただ生きるなら、普通にメシ食ってるだけでいいんだ」

「だとしてもちょっと不健康ね」

 アイリスは眉根を寄せるが、吸血鬼の健康を気遣ってくれるのも妙な話だ。

「コンビニにも、別に上等の紅茶はないぞ」

「ティーバックくらいあるでしょ。きちんと淹れれば、安い紅茶でも美味しく飲めるわ」

「へいへい。あそこの棚。確か三種類くらいあるから、好きなの選べよ」

「うん」

 アイリスは頷くと、とらが指さした棚を物色し始めた。

 そのタイミングで、むらおかがすり寄ってくる。

「トラちゃん、知り合い?」

「え、ええまぁ。なんというか、知り合い、ではあります。人見知りなのと、日本に来たばかりで、あんま慣れてないんです」

 一切嘘は言っていないが、何故自分がこんな言い訳をしなければならないのか、とらは釈然としないものを感じる。

 そこにアイリスがすぐ戻って来た。

 少しだけ口角が上がっていて、嬉しそうな様子だ。

「アールグレイがあるじゃない。日本のコンビニ、凄いわね……って、あっ!」

 アイリスは楽しそうにそう言ってレジに来て、むらおかがそこにいることに気付き息を呑む。

「あっ、あっ……そのっ……」

「それじゃトラちゃん後はよろしく。僕少しだけ仮眠してるから、何かあったら起こして」

 最初は戸惑ったむらおかも、そこは客商売が長いだけあり、さっとアイリスの視界から逃れるようにスタッフルームに入っていった。

 むらおかが見えなくなったことで、アイリスは詰めていた息を大きく吐く。

「本当にダメなんだな」

「……ごめんなさい。気を悪くしてないといいんだけど」

「大丈夫だ、むらおかさん懐広いから。五百五十七円な。コンロの使い方、分かるな」

「大丈夫。ヤカン、勝手に使わせてもらうわね」

「ああ。もうすぐ上がる。気を付けて帰れよ」

「ええ。邪魔してごめんなさい」

 紅茶のティーバック一つ入ったビニール袋を抱えて店を後にしたアイリス。

 一瞬とらは、家に帰れるかどうかが不安になるが、来られたのだから帰れるだろう。

 と。

「とーらちゃん!」

 雇い主のオーナー様の、乾いた高い声が、背後から迫って来た。

「聞かせて」

「嫌です」

「聞かせてって」

「嫌ですって」

「彼女でしょ」

「違います」

「でも家って」

「聞き違いです」

「彼女いないって言ってたよね」

「いませんよ」

「あんな金髪美女となんて爆発すればいい」

「セクハラで訴えますよ」

「彼女でしょ」

「パワハラで訴えますよ」

「トラちゃん」

「違うからとっとと仮眠してきてください」

「お願い聞かせて」

むらおかさん」

「頼むよ」

むらおかさん?」

「このトシで人の幸せ妬んだりなんかしないよ」

「さっき爆発すればいいとか言ったくせに」

「むしろ自分が辛い状況であればあるほど、誰かの幸せを願わずにはいられないんだ。若い人の恋は眩しいね。尊いね。温かいね。僕と妻にもそんな時代があったかと思うと、この世の幸せは平等じゃないんだなって、娘もいつかそんな思いをするのかなって。親として娘の恋人には立派な人であってほしいなって。だからトラちゃん」

「はい」

「聞かせて」

「絶対嫌ですさっさと寝て来い」

「雇い主に対してその暴言後悔するなよ!」

「これ以上しつこいと永遠に眠らせますよ」

「ああ、明日のことなんか考えずに延々眠りたいよ……畜生……おやすみ」

「はい、おやすみなさい。上がる前に起こしますから」

「これで僕が追及を諦めると思わない方がいいよ……」

 むらおかは捨て台詞を吐きながらも時計を見上げ、名残惜しそうに姿を消した。

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