第一章 吸血鬼は朝帰りできない 9
「お願い! 今夜はもう行くあてがないの!」
「男嫌いの修道騎士が吸血鬼の男の家に押しかけるな! それでも聖十字教徒か恥を知れ!」
「あなたは平気なの! 多分吸血鬼だから!」
「本末転倒だろうが! 血吸われるかもしれないだろ!」
「あなたはそんなことしないでしょ!!」
それまでで一番強い声が、
「そりゃ、しないけど」
男はみんな狼だとは世の流言の定番ではあるが、普通の弁えた人間は、理性が感情に負けたりはしないものだ。
「本国で全然成果が出せなくて、自分が頭でっかちだったってことはイヤってほど理解した……自分のホームグラウンドでも上手くいかなかったのに、日本でなんて……上手く、いくわけがない……私、日本支部に友達いないし……」
乗る列車を間違えた上に行った先の名物を好き放題楽しんでくるような人間は、職場では好かれはしない代わりに外部の友達はいくらでも作れそうな気がするが。
「今何か、失礼なこと考えてるでしょ」
「ああ、聞けば聞くほど向いてねぇなって考えてる」
「うるさい」
アイリスは口を尖らせる。
「ずっとってわけじゃないわ。でももう、今日は本当に行くあてが……」
池袋にほど近い
だがアイリスの様子だと、フロントに男性が立っていたらそれだけで逃げ出しそうだし、万一泊まった先で何か問題が起きたとき、住所を知られている
「よくもまぁ会ったばかりの吸血鬼をそこまで信じる気になれるな。長生きできねぇぞ」
「え……」
「泊めるだけだ。間違っても長期滞在できると思うな。俺にも仕事がある」
アイリスの頬に、初めて羞恥以外の感情による朱が差し、ぱっと明るい笑顔が生まれた。
「私に協力してくれれば、吸血鬼の情報が集まるわよ! 探してる吸血鬼がいるんでしょ!」
「調子に乗るな」
アイリスが恐らく彼女のトランクを勝手に持ち込んだ側の部屋だ。
「押し入れに客用の布団がある。干してから少し経ってるが我慢しろ。化粧品が必要ならコンビニででも買ってこい。カツカレー買えたんだからそれくらいはできるだろ」
「え、ええ……」
「と言うか、金は持ってるんだよな。餃子食ってんだから。何でカツカレー買うのに俺の財布持ってったんだよ」
「その、カードはあるんだけど、現金は両替できてなくて、列車の切符もカードで……」
「ああ、店員が男だった場合、カードでって言うのが怖いんだな」
「いちいち見破らないで」
現金なら余計な会話をせずにそのまま買い物ができる、ということらしい。
「本当、どうやって餃子注文したんだよ」
「カードが使える、店員さんが女性のお店を狙ったの。あとは日本語が分からない観光客のふりしたら、日本人の店員さんが全部察してやってくれたわ」
「少しは悪びれろ」
何がどうと具体的に言えないのが歯痒いが、堂々と言っていいことではない。
「でも都内は、店員さんが日本人じゃないお店多くて、みんな英語分かって、その手が通じなくて……」
「お前……」
呆れるよりも、ここまでくると感心してしまう。
アイリスは仕事に協力云々と言っていたが、このままだとなし崩し的に日本での生活の介護をさせられるのではないか。
「歯は磨けるか?」
「バカにしてるの」
「これまでの自分の言動を考えてものを言え。歯ブラシは新しいのがあるから出してやる。こんな部屋だから洗面台なんて上等なもんは無い。水はキッチンのシンクを使え」
アイリスは少し意外そうに歯ブラシを受け取りながら、布団があると言われた部屋を見る。
「随分準備がいいけど、誰か定期的に泊まりに来るの? 恋人?」
「この上詮索してくんなっての。そもそも吸血鬼に恋人なんかいると思うのか」
「別に珍しくもないわよ。昔から吸血鬼は女性好きじゃない」
「他の吸血鬼のプライベートなんか知ろうとしたことなかったからな。そいつらは随分と、刹那的だったんだな」
「え?」
言葉の最後に少し寂しげな色が混ざったが、アイリスが何かを尋ね返すよりも早く、
「さて、と。俺はシャワーを浴びたら出勤する。シャワー使いたいなら勝手に使ってくれていいが、使い終わったら浴室を掃除して、換気扇をかけておいてくれ。洗剤やブラシは適当に使っていいから」
「え、ええ。分かったわ」
そう言うと、
「今渡せるのはこれだけだ。必要なものがあるならそれで揃えろ」
「えっ、えっ? い、いいの?」
「やるとは言ってねぇ。金が入ったら後で返せ。まさかイギリスから手ぶらで来たわけじゃないだろ。着替えくらいはあるんだよな?」
「え、ええ、それはもちろん、で、でも、持ち逃げするとか考えないの?」
先ほどまでの強引さはどこへやら、殊勝な様子で五千円札を両手で持ち、胸の前に引き寄せた。
「お前はそんなことしないだろ?」
「!」
「それに、持ち逃げされたら持ち逃げされたで、五千円で厄介払いできるなら願ったりかなったりだ」
「……もう!!」
「さて、納得してもらえたら奥の部屋に行っててくれるか。うちには脱衣所や洗面所が無いんでね。服はここで脱がなきゃならんのだ」
「あ、う、うん、わかった」
「ああそれと、もし買い物が不安なら、ここから少し歩くがこの店なら大丈夫だ。携帯電話かスリムフォン持ってるよな」
「漢字は読めるか?」
「少しだけなら。このお店は、コンビニエンスストア?」
「俺のアルバイト先だ。俺がレジにいれば、買い物もスムーズだろ」
アイリスは目を丸くした。
「あなたコンビニでアルバイトしてるの?」
「別に珍しくもないと思うぞ。働いてる吸血鬼なんて」
言ってのけた
「ありがとう。使った分は、カレーのも合わせて必ず返すわ。今から出勤っていうことは、夜勤なの?」
「当たり前だ。吸血鬼だぞ。日の出前には帰る。先に寝てろよ」
「ええ、そうさせてもらうわ」
アイリスは頷くと、
そのよどみない動きを見るに、既に一〇四号室の中で動き慣れている様子が見て取れた。
軽くシャワーを浴びてから体の水気を拭うと外に出て手早く着替える。
短い髪にドライヤーをかける音で、アイリスがかすかに引き戸を開けこちらを覗いた。
「出かけるの?」
「ああ」
「そう……色々ありがとう。いってらっしゃい」
そしてまた、引き戸が閉まる。
「……」
「いってらっしゃい……か」
ドライヤーの騒音に紛れて、その独り言は誰にも聞こえなかった。
「いつ以来だろうな。久しく聞かなかった」
面倒を抱え込んだ。
それは間違いない。
今夜の一泊は仕方がないにしても、可能な限り早く出て行ってほしいというのが紛れもない本音だ。
だがそれでも。
『そう。いってらっしゃい』
思いがけない破壊力を持ったこの言葉が、
冷え込んだ共用廊下に出てカギをかけ、施錠を確かめるように一度ドアノブを引いてから、溜め息を吐いた。
吸血鬼になっても感じる、耳たぶが切れるような寒さは、何年経っても、慣れることができない。
「他の吸血鬼の情報……か」
新たな吸血鬼の情報に対する期待よりも諦観が強くなったはずの
「俺は、俺を知ってる奴が全員いなくなる前に、人間に戻れるのか……ね」