第一章 吸血鬼は朝帰りできない 8

「分かってるわよ! こんなの情けないってことは!! でも……怖いものは怖いのよっ!」

 今度はアイリスが椅子を蹴り倒して立ち上がり、拳を震わせる。

「神学校で騎士見習いだった頃は、座学も実技も首席だったのよ! でも……でもっ……!」

 アイリスの左腕が、小刻みに震える。

 彼女のこの反応が、単純な人見知りや選り好みからきているものではないことくらいは察することができた。

 そして曲がりなりにも男である自分が、察することができたからといって、無暗に踏み入っていい問題ではないことも。

「……日本に支部があるとは言ったけど、日本支部は、小さいの。平和だし、ファントム自体が少ないし、修道騎士が常駐する駐屯地も大都市にしかない。それに……やみじゆう騎士団にとって日本は、えっと、何て言うんだっけ、日本語で、仕事のできない人が行かされる場所」

「……窓際?」

「そうそれ、マドギワ。極東だもの。当然よね」

「イギリスが世界の覇者だったのは俺が生まれるより昔のことだぞ調子乗んな」

「それで……あんな小物吸血鬼すら、満足に捕まえられなくて……」

「まあ、そういう事情なら……」

「大体あんな時間になったのも、ウエノ駅で迷っちゃって、うっかり違う列車に乗っちゃってウツノミヤとかいうところまで運ばれちゃったからで、私が弱いわけじゃ」

「お前弱いとかそれ以前の問題だよ」

 ここまで日本語が堪能なのに、どうして上野から宇都宮に到着するまで乗り間違えたことに気付かないのか。

「だって昨日初めて日本に来たのよ!? 列車の乗り間違いくらい当たり前でしょ!」

「そこは素直にすごいな。初めて来てそれだけ喋れるって」

「それで、ウエノ駅で道を尋ねた女性が、緑色の線がついた電車に乗れば乗り間違えてもぐるぐる回っていつか着くって言ってたから!」

 確かに上野から宇都宮に向かうJR宇都宮線にも緑色のラインがついているが、日本に暮らしていたら黄緑色の山手線と、オレンジと緑のラインが重なりあっている宇都宮・高崎線を同じ電車だとは判断しないだろう。

「ん? ちょっと待てよ。昨日着いたばかりってどういうことだ。羽田か成田かどっちの空港使ったか知らないけど、池袋に来るなら上野で降りる必要ないだろ。浜松町からなら山手線乗ってりゃ済むし、成田からなら日暮里で乗り換えだろ?」

「ふふん、所詮は闇に生きる吸血鬼ね。あなた、ウエノの西洋美術館を知らないの?」

「いや知ってるが」

「西洋美術館の地獄門は、私達やみじゆうの修道騎士にとってはちょっとした象徴なのよ。あの彫刻には西洋的な意味での破邪の力がある。一度、この目で見ておきたかったの」

「それで乗り間違えて吸血鬼にやられてるんじゃ話にならんだろ。ていうかあんな時間にどうやって宇都宮から池袋まで帰って来たんだよ」

「終電でなんとか帰って来たのよ! でも深夜だったから対象が普段の巡回ルートから外れてて、探すのに手間取ったの!」

 対象地域での交通移動も彼女の仕事の……というより母国を出て仕事をする人間の必須技能以前の基礎能力のような気がするが、実技で主席だったとは何だったのか。

「ウツノミヤの餃子は美味しかったわ!」

「宇都宮を全力で楽しんできてんじゃねぇか」

 まさかアイリスはこの修道服で、餃子の街宇都宮をかつしてきたというのだろうか。

「そんなわけないでしょ。いつ接敵してもいいように動きやすい服ではあったけど」

「吸血鬼はニンニクの臭いに敏感だぞ」

「ニンニク入りのはちゃんと避けてたわよ! それに焼肉じゃないんだから、煙くさくなったりもしてないわよ。禁煙のお店ばっかりだったし」

 やはり日本は、やみじゆう騎士団とやらの目から見ても平和らしい。

「それで? カジロウとかいう吸血鬼は倒したわけだし、もうイギリスに帰るのか」

「イングランド、ね」

「で、帰るのか」

 日本人が『イギリス』と呼ぶ国はイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの各地域の連合王国であり、今もお互いを別の国だと思っているということを聞いたことはあるが、特に今とらには関係ないので確認を続ける。

「帰らないわよ。赴任してきたって言ったでしょ。マドギワとは言っても、まだまだ担当しなきゃいけないファントムはたくさんいるんだもの」

「……」

 とらは年の功で、自分の確認が危険な流れを引き寄せたことを予感した。

「そうか。まぁ、頑張ってくれ。結果的に俺も世話になったな。それじゃあ仕事頑張れよ。縁があったらまた……」

「ねぇユラ。あなたそこそこ、長く吸血鬼やってるんでしょ?」

「おかげさまでな。さぁほら、吸血鬼の家で油売ってたら騎士団の上司とかに怒られるんじゃないか? お互い忙しい身だろ。池袋の駅はぞう駅から一駅だからさすがのお前も迷わないだろ。俺はこの後予定があってな。風呂にも入りたいからそろそろ……」

「私の仕事に協力して。問題を起こす吸血鬼やファントムの討伐に協力してほしいの」

「お前フザけんなよ俺の態度で察しろよ!」

「大きな声出さないでよ」

 アイリスは顔を顰めるが、とらこそ顔を顰めたかった。

「何言ってんだよお前。知り合って一時間もしないのにお前の口からめちゃくちゃなことしか聞いてないぞ! この世で一番吸血鬼とツルんでちゃいけない人種だろ?」

「そんなことないわ。さっきも言ったでしょ。全部のファントムが悪いと思ってるわけじゃないって。吸血鬼とは限らないけど、ファントムの協力者がいる修道騎士もいるわ。そういうところも含めて闇なのよ」

「だとしても、俺に協力する理由が無い」

「協力してくれたら、あなたのことを騎士団に報告しないであげるわ。修道騎士は聖務中に接触したファントムを報告する義務があるの。報告されたら物凄く付きまとわれるわよ」

「協力じゃなくて脅迫じゃねぇか」

 とらは真剣に嫌な顔をするが、これまで強気で堂々と抜けたことばかり言ってきたアイリスは、真剣な表情でとらを見た。

「……修道騎士の中には、ファントムを色眼鏡で見る人間もいる。でも、この部屋の様子を見て、あなたと話した私は分かる。あなたは、悪い吸血鬼じゃない」

「しんみりした口調で言っても騙されないぞ」

「お願いユラ! 私、日本支部で成果を上げないと、本国に帰れないの! このままじゃ神学校の同級生達にも顔向けできない!」

 とらは心底、知ったことかと思った。

「お前向いてないって。語学力を生かして別の仕事探せよ」

「吸血鬼のくせに現実的なこと言わないでよ。分かってるわよ向いてないことくらい……でも、私には他に道が無いの」

「……」

「それに日本の不動産屋さんって、大抵男の人が営業やってるでしょ?」

「うん、うん? いや、そうとはかぎらな……」

「知らない外国の男の人と話して住む家探すなんて、どうやって探したらいいのか」

「お前よくそれで餃子注文できたな」

 ここでまたとらは、更なる嫌な予感に囚われる。

「日本支部とかいうのが住む家は用意してくれないのか?」

「お金は出してくれるけど、調査の裁量は個人に委ねられてるから、家は自分で探さないとダメなの」

「……それで?」

「洗濯物畳んだから分かるんだけど……このマンション、2DKよね、あっちの部屋、使ってないわよね。何も物置いてないし」

「出てけ」

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