第一章 デート? 3
雪人の住むマンションは中古だがそこそこのセキュリティを備えており、そこそこの広さを持つ。具体的には2LDK。そのうち六畳の洋間を自室として使っていた。
華凰学園から帰った彼は、カバンを床に置くと玄関で靴を脱ぐ。手を洗ってから台所に行こうとしたが、途端に「お帰りなさい」と声がかかった。
「お兄ちゃん、遅かったね」
ぱたぱたと音がして、もう一つの部屋、和室の六畳間から少女が駆け寄ってくる。長めの髪をバレッタで止めており、大きい瞳がくりくりとよく動く。雰囲気といい仕草といい、アニメのキャラクターのようであった。
彼女が妹のメグだ。満面の笑みで出迎えようとした途端、動きが止まった。
メグの視線は兄を素通りし、後ろに立つ人物へと向けられていた。
「お兄ちゃん……」
「お兄ちゃんはお前がなにを訊きたいか、言われなくても分かるぞ」
「六麗の茜さん I」
「まあな」
さすが六麗。校内の有名人なので、メグも顔を知っていた。
このはは恐縮したように頭を下げる。
「お邪魔します……」
「お兄ちゃんが女の人を連れてきた!」
よほど驚いたのか、ぴょんぴょん飛び跳ねている。ぐるぐる回っているので、雪人はこのはに「入って」とうながした。
靴を脱ぎ、まだジャンプしているメグの横をすり抜ける。彼は改めて説明した。
「わけがあって来てもらったんだ」
「どうやったの I まさか薬?」
身内から犯罪者を出してしまったと言いたげなメグ。雪人は呆れた。
「無理矢理言うこと聞かせているわけじゃないんだ」
「じゃあ催眠術……?」
「違うよ。だいたい俺のためじゃないんだ。メグのためだよ」
「え? だってお兄ちゃんの彼女だよね」
「こら、失礼だぞ」
横目で見ると、このははうつむいて表情を見られないようにしていた。
改めて雪人は言う。
「お前のためだよ。このは……茜さんに、勉強を見てもらうから」
「私の家庭教師なの?」
「はい」
と答えたのはこのは自身。もう顔は上げていた。
「よろしくお願いします」
頭を下げる。メグも慌てて同じようにした。
「いえ、こちらこそ……今から?」
「よければ」
メグがちらりと雪人に視線を向ける。彼はうなずいた。
「早い方がいい。小テストが近いからな」
「勉強するつもりだったからいいけど……。お兄ちゃんはどうするの?」
「ごはんもう食べたか?」
「ううん。待ってたから」
「じゃあ作るよ。食べてってくれないか」
台詞の最後はこのはに向けられたものだ。このはは何度か遠慮したものの、雪人だけではなくメグまで「食べていって欲しい」とお願いしたので、最後は承諾した。
「さっそく教えてもらうね」
メグがこのはを自室まで引っ張っていく。雪人は夕食の支度をはじめた。
この家で食事当番は雪人が受け持っている。父親はほとんど家におらず、メグの料理は心許ないときたら、自然とそうなる。
かすかに、女子二人が話をしている声が伝わってくる。盛り上がっているのかそうでないかは不明だが、喧嘩しているのではなさそうだ。
豆腐を賽の目に切りながら考える。突然の出来事で驚くことが続いたが、落ち着いてみれば悪いものでもない。少なくとも、妹に家庭教師をつけることができたのだ。なにせ六麗だ。成績がそこそこの自分よりはマシであろう。
炊飯器が電子音を奏でたあたりで、部屋から二人が出てきた。
「今日はこのくらいにしようか」
「うん」
うなずいたメグが手を洗いに行く。雪人は小声でこのはに訊いた。
「どうだった?」
「妹さん、頭悪くないよ」
彼女も小声で答える。
「ちょっと飲み込みが悪いけど、コツを覚えればちゃんとできると思う」
「よく教えられたなあ」
「なにが分からないかを分かってないって感じだったから、そのへんをしっかりすれば赤点じゃなくなると思う」
「俺はそういうのができないんだよなあ」
彼は分からないところは勘でなんとかしてしまうのである。もちろんなんともならないことも多いのだが。
このははそういうことはしない。さすが六麗というべきか、教え方もものが違った。
「これからもやってくれるか?」
「もちろん」
メグが戻ってきたので、三人で食事にした。
ごはんに味噌汁に肉料理。あとは漬物。それと昨日の残りの魚料理。妹は大喜びで食べはじめ、このはも箸をつけた。
「あ、おいしい」
このはは意外そうに言う。
「雪人君、料理上手だね」
「両親がいないと、誰かが作らなきゃならなくなるからな。お世辞でも嬉しいよ」
「本当に上手だと思う」
「ねー、お兄ちゃんのごはんおいしいよねー」
メグもにこにこしていた。
彼は鳥の照り焼きを摘みながら、ふと訊いた。
「今日はなんの勉強だったんだ?」
「国語」
とメグ。
「私、国語総合って苦手だったから、助かった」
実際は他の教科も苦手なのだが、雪人も指摘はしなかった。
「明日も来てくれるんだよね」
「……あ、ごめんなさい」
このはが箸を置く。
「国語以外の教科は、ちょっと自信がない」
「えー、このはさん凄く分かりやすかったよ」
「やっぱり、こういうのって得意だったり好きだったりする人がやるのが一番いいと思う」
雪人も少し食べるのを中断した。彼女は六麗なので、学業は全てが平均よりも上である。それでも得意科目以外は自信を持って教えられないようであった。できないというより、責任感の表れであろう。
「えー、このはさんじゃないの」
メグが残念そうな顔をしたので、このはも申し訳なさそうな顔をしていた。
雪人は二人の様子をじっと見ていたが、ふと頭にあることが思い浮かんだ。
「だったらさ……」
言いかけて、思い直した。
「いや、やっぱりいいか」
「え、なに?」
「どうしたの、お兄ちゃん」
不思議そうにする
「なんでもないっていうか、もうちょい考えるか」
彼は独り言のように答えると、味噌汁をすすった。
夕食が終わった後、このははすぐに帰宅すると告げた。メグはもっといて欲しいと言っていたが、さすがに夜遅くなるのはよろしくないので、雪人は洗い物をしながらたしなめた。
「外も暗いんだから、引き留めちゃまずいだろ」
「えー、つまんない」
ぷくっと頬を膨らませるメグ。このはは両手を軽く合わせて、詫びる仕草をする。
「ごめんね。今度時間作るから、一緒に遊ぼう」
「うん……じゃあ、お兄ちゃん、送っていけば?」
「え、いや……」
やや戸惑う雪人。メグはさらに言う。
「だって遅いんだから、お兄ちゃんが送らなきゃ」
「このくらいの暗さだったら怖くないだろ」
「酷くない?」
メグはこのはの方を向くと「こんな兄でごめんなさい」と言う。このはは困ったような、苦笑いのような表情を浮かべていた。
「怖くないとか、そういうんじゃないんだよ。ほら、送って、送って」
メグが急かす。雪人は慌てて洗い物を終わらせた。
「分かったよ。送る」
「ありがとう」
このはが礼を言っている間に雪人は手を拭くと、上着を羽織った。
「歩きでいいよな。自転車持ってないし」
「うん」
玄関の扉を開ける。メグは「またね、このはさん」と言いながら手を振った。
外はもう暗い。雲のせいで月も星も出ておらず、このあたりは街灯も貧弱だ。確かに送った方がいいだろう。
ボタンを押してエレベーターを呼ぶ。
「思ったんだけどさ……」
待っている間に訊いた。
「六麗全員に、家庭教師やってもらうってのは?」
このはが「えっ」という顔をした。雪人は続ける。
「家庭教師って名目にすれば、六麗全員と顔を合わせて原因探れるし、共通の話題で仲を良くできるかもしれないだろ」
「なるほど……」
このはの顔が明るくなる。
「それ、いいかも!」
「このはさんが国語だから、他の人に得意教科受け持ってもらってさ。頼んでみなきゃ分からないけと」
「大丈夫だと思う。六麗って使命感はあるの。困っている生徒を見たら助けるのが役目だって思ってるから、訊いてみる」
彼女はさっそくメールアドレスとSNSをチェックしていた。
エレベーターが来る。二人は乗り込んだ。
「ところで……なんで俺だったんだ?」
「えっ?」
不意を突かれたからか、このはは戸惑っている。
「六麗のこと?」
「このはさんが学園長に相談したんだよな。別に俺じゃなくても、向いてるやついたんじゃないのか」
このはは頭を大きく振って否定した。
「雪人君が良かった」
「なんで?」
このはは答えず、いったん雪人の顔を見てから、目をそらした。
しばらくして。
「……内緒」
小声で返事をする。彼女はエレベーターを下りると、あとはずっと無言で通した。