一章/無欲ならざる古仙 その1

 こうとの戦いに敗れた青年・かみさいは、自らの精神と肉体を仙界に封じた。勝利の可能性をはるか遠い未来に託したのである。だが――十年経っても二十年経っても、さらには百年の歳月が流れても、さいの封印が解かれることはなかった。

 封印を解くべき資格を持つ者が現れなかったからである。

 いつしかさいは考えるのをやめた。仙界のイデアと化し夢幻の日月に揺蕩いながら、無意識のうちに現世へ舞い戻ることを諦めていた。しかし、千年経ってようやく禁断の封印が解かれることになる。封印を解いた者の名は熾天寺かがり。炎の気質を持つ妖狐の少女だ。

 かみさいは千年ぶりに覚醒する。

 彼が見たものは、おぞましいほどに美しい東洋の原風景だった。


 ○


 こうとの大戦に敗北した日本は文明レベルを大きく後退させた。国家は瓦解、人の心から進取の気鋭が失われ、列島は化け物がちようりようばつする前近代社会へ逆戻り――というよりも、まったく別のファンタジーな世界観に変貌してしまったと云えよう。

 たとえば先ほどのてんとの戦闘。さいは刀にれんを込めて軽く振っただけなのに、予期せぬ大爆発が巻き起こってしまった。これは千年前よりもOLI因子が活発になっている証拠であり、ようするにかみさいの力は意図せざるうちに強化されたということなのだが、だからといって喜んでいられるわけもなかった。

(……浮いてるな。この地面)

 さいは自分よりもちょっと高い位置に浮かんでいる雲を眺めながら溜息を吐く。

 OLI因子は世界を根底から覆してしまったらしい。浮遊する島が平然と存在する時代が来るとは思ってもみなかった。もはや千年前の日本を取り戻すのは不可能に思えてならない。

(いや、まだだ。諦めるにしても色々と情報を集めてからにするべきだ。そのためには協力者が必要なのだが……)

 さいはちらと隣に目をやる。少女の金色の髪が夕日を受けてきらきら輝いていた。千年前には存在しなかった天然の美を垣間見たような気がして束の間心を奪われる。

 逢魔が時、真っ赤に染まった農道の端っこ。さいと、さいを復活させた妖狐の少女は、平べったい岩に並んで腰かけていた。ただし二人の間には二メートルほどの距離がある。

「さて、改めて礼を云う。封印を解いて頂きどうもありがとう」

「……どういたしまして」

 高く澄んだ声は強張っていた。警戒を解いてはくれないらしい。狐耳がぴくぴくと動いているのを見るに緊張しているのだろう。

 OLI因子は大きく二つに分類される。一つが基礎因子。全体の九割以上を占める、もっと

も一般的なものだ。たとえば《鬼の基礎因子》を授かった人間は、広く人口にかいしやする典型的な〝鬼〟の特徴を得る。そして二つ目が深層因子。これは基礎因子に何らかの特性が付与されたものであり、たとえば《鬼の深層・儀範 - しゆてんどう》を宿した人間がいたとしたら、その人間は普通の鬼の特性に加えて伝承にあるしゆてんどうの特性をも備えたこうになる。――そういう分類法から考えてみると、隣で借りてきた猫のように座っているこの少女はこれといって特殊な点を持たないシンプルな狐娘なので、おそらく保有する因子は《妖狐の基礎因子》、前近代以前の狐に対する普遍的な畏怖や信仰が、この少女の心身に色濃く反映されているのだろう。

 それにしても――と、さいは感嘆の念を抱いて彼女の容姿を観察した。

 それは、まさにOLI因子がもたらした奇跡だった。さわさわと風になびく稲穂のような色の髪が美しい。その髪を分けるようにして生えている狐の耳が可愛い。もふもふした尻尾が左右に揺れているのも可愛い。とにかく可愛い。だが特筆すべきは彼女の胸部であろう。薄い生地の衣服だからよくわかる、あれこそまさに天帝が手ずから創り上げたといっても過言ではない至高のおっぱ

「……ねえ、どこ見てんの?」

 さいは咳払いをして誤魔化した。好色は仙人の因子を持つ者の宿命であるが、行き過ぎると痛い目に遭う。実際、ハニートラップに引っかかって死にかけた経験が二度あった。

「どこも見ていないから安心しろ。俺は変態の類ではない」

「嘘くさい。変態の類はみんなそう云うのよ」

「一億歩譲って変態だったとしてもお前に危害を加えることはない。何故なら恩義を感じているからだ」

「恩義……?」

「封印は内部からでは解けない。外部の人間が祈りを捧げることによって解かれる。俺はお前のおかげで千年ぶりにしやの空気を吸うことができたんだ」

「だから何なのよ。この世には恩を仇で返すようなやつがごまんといるわ」

「少なくとも仇で返すつもりはないよ。先ほど傷の手当てをしたのが証拠にならないか?」

 少女が言葉をつまらせた。彼女の顔色はすっかり良くなっている。あれほどの傷を小一時間で治しきるなど千年前なら到底不可能だっただろうが、現代はOLI因子が充満する精神力の世界なのだ。〝医薬の神たるえんていしんのうが治療を施した〟、ただそれだけの事実で恢復が早まるのだろう――と、さいは仮説を立てている。

「……私を油断させてから襲うつもりなんでしょ」

「そう思うのなら逃げればいい。なぜ俺の隣に座っている?」

「それは……、一応、助けてもらったから……」

「俺もお前に助けられた身だ。封印を解いてくれた恩は返さなければならん――だから聞かせろ。あのてんは何者だ。なぜお前が攻撃されていたんだ」

「知らない」

「何か悩みごとはないか

「必要ない」

俺にできることならば何でも協力しよう」

「ところで目元が腫れているぞ。もしかして泣いていたのか?」

「――ッ、うるさいっ! 私の前から消えろっ!《かいから落ちて死ねっ!》」

「そういうわけには――」いかない、と反論しようとしたところで異変が起きた。彼女のほうかられいが流れ込んできたかと思ったら、いつの間にか立ち上がってその場を去ろうとしている自分に気づく。身体が勝手に動いている。まったく制御がきかなかった。

「おい。まさかお前……」

「まだ何か用があるの? さっさとどっかに――って何してるのよ!?」

「いや、自分でも何が何だかわからん」

 さいの足はひとりでに崖のほうへと向かっていた。まるで身体を何者かに操られているような具合。少女が慌てた様子で飛びついてきた。

「なに本気にしてるの!? 『死ね』は云いすぎだったわよ、ごめんね! でも死ねって云われて本当に死ぬやつがあるかっ!」

「ふむ、どうやら何かのれんじゆつにかかっているらしいな。それもかなり強力だ」

「分析してる場合じゃないでしょ! このまま落ちたら私が殺したみたいじゃない!」

「別にそんなことは……あっ」少女の豊かな胸が背中に押しつけられた。なんだこれは。こんな物体がこの世に存在していいのか。ああ至福、このまま死んでも悔いはない――一瞬そう思ったが流石にすぎる気がしたので打開策を練る。そうして瞬時に閃いた。

「妖獣の娘よ。言葉にれいを乗せて《止まれ》と云ってみてくれ」

「はあ そんなことして何の意味があるの!?」

「いいから」

「わかったわよ――《止まれっ!》」

 ぴたり。さいの歩みが止まった。背後で少女がぷるぷると震えた。怒りの気配を感じた。

「……ねえ、私のことにしてるの?」

「していない」さいは途方もない絶望を感じながら首を振った。「お前はただの狐ではないらしい。どうやら二つ目のOLI因子を持っている。対象を特定の条件下で服従させる能力、これはおそらく調伏の類だ。可能性としては陰陽師とか巫女の因子が考えられるが……」

 少女の身体がびくりとした。何らかの心当たりがあるのかもしれない。

「この束縛力の高さから深層因子の可能性もあるな。まあ、とにかく俺とお前の間で契約が成立してしまった。お前がご主人様で、俺が式神。平たく云えば奴隷だ」

「奴隷って……そんなことが、ありえるの?」

「現にそうなっている。――ところでいつまで抱き着いている気だ? 俺は大歓迎だが」

 少女は弾かれたようにさいから距離を取った。背中の温もりが消える。

「話を戻そう。確認したければもう一度命令をすればいいのだ。言葉にれいを込めて、たとえば《全裸になれ》と云ってみたまえ。俺は何の躊躇もなく服を脱ぐはずだ」

「そんな命令してたまるか」

「同感だな」さいは神妙に頷いた。「この契約、解除できないのか?」

「知らないわよ……」

 少女は途方に暮れたように俯いてしまった。さいとしても内心溜息を禁じ得ない。そりゃあ封印を解いてくれた者にはそれなりに報いるつもりでいたが、奴隷になって奉仕までするつもりは毛頭なかった。調伏が発動するトリガーは何だったのだろう。力関係からして彼女よりもさいのほうが上位であるし、そう易々と術をかけることはできないはずなのに。

(……それはともかく)

不思議な気分だった。少女の瞳からは、千年前には失われていた純粋な優しさが溢れている。

彼女になら従ってもいいような気がしてくるのはなぜだろう。仙人とは付和雷同を是とする存在、こういう不慮の事故を楽しむのも悪くはないのかもしれないが――

 そのとき、少女がハッと何かに気づいたように顔を上げた。

 れんである。さいから溢れるエネルギーが、主従の霊脈を通じて彼女に流れ込んだのだ。

「……因子云々はよくわからないけど、」少女は服の裾を握りしめながら呟いた。「でも、奴隷のことに関しては、嘘じゃないってわかったわ」

「なぜわかるんだ?」

「においが……」

「ニオイ?」

「ううん、なんでもない。なんとなく、よ」少女は戸惑いながら言葉を続けた。「……あんたって、本当にほう寿じゆせい様なの?」

「ああ。ところでお前はどちら様だ」

「熾天寺かがり」

「ではかがり。主従契約の問題は後で考えるとして、まずは先ほどから浮かない顔をしている理由を聞かせろ」

 え? とかがりは顔を上げた。

「まるでこの世の終わりみたいな顔をしている。せっかくの美人が台無しだぞ」

「びッ、」かがりは途端に頬を赤くしてそっぽを向いてしまった。さいはそんな彼女の様子を見て思惟する。てんに襲われていたことや、着の身着のまま飛び出してきたような恰好、見え透いた世辞にも動揺を隠せない未熟な精神性――かなりの訳ありと見た。

「その様子だと、他に解決の当てはないんだろう? 差し支えなければ話してくれないか。恩返しをする必要もあるし、ご主人様が辛気臭い顔をしていると、こっちの気分まで滅入ってくる。ほら、またあの岩に座って話そうじゃないか」

 かがりはちらちらとさいのほうを見ていたが、一度だけ大きな溜息を吐くと、ふてくされたように歩き出すのだった。

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