序章・二/神代の世界
「天命に抗え、神津隊長」
それが、最後の部下の最期の言葉だった。たとえ世界が滅亡してもこいつだけは余裕綽々と笑って煙草を吹かしているのだろう――そう信じて疑わなかったのに、彼はたったいま、殺風景な瓦礫の上で静かに息を引き取った。避けられぬ運命だった。槍で貫かれた傷を治療してやれるだけの
青年は物云わぬ
「……ありがとう。お前は立派だったよ」
青年の胸中にわだかまるのは途方もない遣る瀬なさである。いまさら身を粉にしても無意味に決まっている、どうせ反撃の機会は二度と巡ってこない、日本はこのまま
血液をぶちまけたように赤い空だった。報告によれば現在東京ではかつて江戸を焼いた明暦の大火が再顕されているらしい。――否、大火どころの騒ぎではない。日本のそこかしこで地震だの
遠くから断続的に爆音が聞こえてきた。航空隊の爆撃機が市街地を攻撃しているらしい。この期に及んでまだそんなものが通用すると思っているのだからお笑いだ。
このご時世、ただの銃弾では
天に揺蕩う集合文化意識はあらゆる常識を改変した。物理法則を基礎づける論理体系のパッケージは強制的に数世紀前のそれへと置換され、自然科学の発展するべき道は永久に閉ざされてしまった。つまり世界は変わったのだ。そしてその新たなる世界で水を得た魚のように暴れ回っているのが
「――見つけたわ。
耳を舐め上げられるような声。壊れた自動販売機の陰から女がぬるりと現れる。
青年は舌打ちをして招かれざる客を睨み据えた。
「お前の相手をしている暇はない。それ以上近づくと殺すぞ」
「あら怖い。その様子だと
女の背中からめりめりと六本の腕が生えてきた。胴から伸びている白魚のような二本とは異なり、黒っぽくて筋骨隆々とした禍々しい腕だった。それぞれが斧だの槍だの物騒な武器を握りしめている。あれこそが
「ふん、《
「
そこで女は媚びるような流し目を向けてくる。
「ねえ
「何が云いたい」
「勝敗の
「政府も自衛隊も関係ない」
青年は死ぬ思いで立ち上がった。つい先ほど
「俺は自らの良心に従って行動している。お前らが気に食わないから死力を尽くすのだ」
「そう――本当に残念だわ。あんたほどの力があれば
「その手は二度も通用しない」
「あっそ。――なら死ね」
女は微笑を浮かべると力強く地面を蹴った。たくましい六本の腕を怒らせながら目を見張るような速度で近づいてくる。そこらの寺院に祀られている弁財天とは似ても似つかぬ凶悪な容姿。OLI因子が人体にもたらした悲劇的な奇跡の産物だ。
女の身体がさらに加速した。
彼我の距離は十メートルもない――しかし青年は動かない。いや動けない。これまでの激戦で傷ついた身体の節々が悲鳴をあげている。立っているのもやっとだった。
獲物の衰弱を見て取った女の片頬が不気味に吊り上がる。漆黒の筋肉をうならせ大跳躍、恐ろしいほどの滑らかさで上段から無数の斬撃を振り下ろした。あわや絶体絶命かと思われたその瞬間――青年は迫る刃を無感動に見つめながら、気負う素振りも見せずに引き金を引く。
安っぽい銃声が廃墟の街並みにこだました。
女の腕から武器がこぼれ落ち、ひび割れたアスファルトに激突して甲高い音を立てる。
「え?」――余裕の表情は一瞬にして消え、空中でバランスを崩された肢体が回転しながら青年のすぐ横に墜落した。ぐしゃりと骨の曲がるようないやな音がした。
「な、なんで……?」
「某S社の初期モデル。これが使えるギリギリってところだな」
「あ、ああっ、き、貴様、よくもッ……」
再び銃声が轟いた。脳天を貫かれた女の身体が魚のように跳ねる。いくら
女はしばらく全身を痙攣させていたが、やがてぴくりとも動かなくなってしまう。
そのとき、握りしめていたはずの回転式拳銃がぽろぽろと形を失っていった。銃口から順々に光の粒子と化していく。粒子はそのまま天に昇って永遠に帰ってこない。近代的な物質はこのようにして〝修正〟されていくのだ。
(もう限界か……)
打つ手は残っていない。全身ぼろぼろ、気力も尽き、援軍は期待できず、武器もない。最後の戦友も死んでしまった。
(いや、違う)
彼は云ったじゃないか。「天命に抗え」と。
青年は歯を食いしばって己の内側に残っている
集まった
(認めよう。俺たちに勝ち筋はない。今の段階で
青年の指先から淡い光が漏れる。仙術が発動する兆しだった。
(しかし、だからといって殺されてやるわけにはいかない。俺は諦めない)
そのとき、にわかに背後から邪悪な気配がわらわらと出現した。追っ手である。どいつもこいつも人間らしからぬ特徴をその身に顕す化け物の集団だ。
「
一世一代の仙術は、既に完成していた。
「――まだ見ぬ時代へ」
視界を焼き尽くすような眩い光がほとばしった。
歴史を逆方向に再生していく。
青年・
※
西暦にして二〇七八年。
移民の増加に伴い伝統文化が破壊されつつある現状を憂えた日本政府は、それまで第一級国家機密とされてきた〝集合文化意識〟の研究利用に着手する。
集合文化意識――CCCとも略されるそれは、日本列島に重なるようにして浮流する思想哲学の集塊、歴史の堆積物、平たく云えば〝日本人の心の原風景〟そのものだ。
政府は特殊な電磁波を照射することでこの集合文化意識の外殻部に穿孔、OLI因子と呼ばれる新霊体素を取り出すことに成功した。報告書に曰く、「OLI因子は日本人の郷土愛・愛国心を喚起する向精神エネルギーである」。
はじめは誰もが救世の光を見たように浮かれた。OLI因子を秘密裡にばら撒けば、人々の胸には〝ちょっとした愛国心〟が芽生え、伝統文化の衰退に終止符を打つことができるだろう――そう楽観視していた。だが現実はそれほど甘くはなかった。
OLI因子は向精神エネルギーなどではない。世界構築因子だったのだ。その恐ろしい事実は因子を宿した人間が〝人ならざる者〟へと変貌したことで明らかになった。そしてその時点では何もかもが手遅れだった。政府が泡を食って因子回収の号令を出したときにはもう、土手っ腹に風穴を開けられた集合文化意識から洪水のごとく因子が溢れて日本全土を包み込んでいたのだ。いわゆる外国人は遅効性の毒が回ったように不審死を遂げ、国外から輸入された製品は光の粒子と化して順次消えていった。
かくして変革は始まった。
すべての物理法則は書き換えられ、何千年もの時間をかけて積み重ねられてきた口碑・伝承・思想・哲学・宗教・民話・信仰・その他諸々の〝歴史的遺物〟が現実のものとなって各所に顕現する。日本列島は文明開化以前の思想に基づくユートピアに生まれ変わってしまった。
科学はない。理性もない。始原の欲望ばかりが
OLI因子を宿した人間はいつしか〝
人を殺し、物資を略奪し、やがては徒党を組んで政府に宣戦を布告。日本史上類を見ない大内乱――後代に〝人寇大戦〟と呼ばれる戦争が勃発する。
結果はあえて語るまでもなかろう。
現代文明は、幻想に敗けた。
それから千度季節が巡った。