序章・一/祈りの世界 その2

 熾天寺かがりは十五年前、えいりんとうを束ねる炎の一族・熾天寺家の嫡女として生まれた。ただし狐の耳と尻尾のおまけつきだ。本当なら生まれた直後に間引かれるはずだったが、かがりの母親――熾天寺家の巫女にしてえいりんとうの最高権力者――が頑なに拒否したのだという。かくしてかがりは母親の愛を十分に受けて育った。しかし、悲劇は今から三年ほど前に起きる。三年前の嵐の夜、かがりの母は忽然と姿を消してしまったのだ。村人たちは「てんの仕業だ」と大いに騒ぎ、神社の巫女には手を出さぬという掟を破ったこうへの怒りを募りに募らせた。そして怒りの矛先はすぐに変わった。それまでは母の庇護下にあったから良かったものの、あの嵐の夜以降は村人たちの憎悪が堰を切ったようにかがりに集中し、しまいには「巫女が死んだのは狐が災厄を招いたからだ」という濡れ衣まで着せられて神社を追い出されてしまった。

 かがりはえいりんとうの人々にとって疫病神そのものなのである。

 とはいえ誰も彼もが「化け狐憎し」というわけでもない。かがりの生家、命融神社の神職たちの中には、かがりの現状を憐れみ生活の支援を申し出る人間もいた。

「よくぞいらっしゃいました、かがり様」

 石段をのぼり、くすんだ朱色の鳥居をくぐると、白髪の目立つ男に迎えられた。命融神社に住み込みで働くであり、名をいいがきという。かがりは背負っていた籠を下ろすと、その中身を指で示しながら云った。

「今朝採ったやつよ。これでいいんでしょ?」

「ふむ。確かに拝領致しました」

 飯垣は大きく頷いて微笑んだ。毎週の星期日にめいゆう神社へ薬草を届け、その見返りとして食料や衣類などの生活必需品をもらう。この三年間は、そうやって生きてきた。

「これで島の人間の傷も癒えましょう。かがり様のおかげです」

「……あいつらの傷を治したって、ちっとも嬉しくない」

 命融神社の祭神のうちの一柱は、現人神たる〝てん〟だ。そのご利益は家内安全としようへい。巫女が定期的に儀式をすることで霊氣が島に行き渡り、ちょっとした風邪や掠り傷を治してしまうのだ。しかし近頃は巫女が病気で儀式が行えないため、かがりが届けた薬草を格安で売ることでもってご利益のかわりとしていた。

「荷物はいつも通り、家の近くに届けておいて」

「承知致しました。――いえ、お待ちください、かがり様」

 踵を返しかけたところを引きとめられた。飯垣が真剣な表情でこちらを見ている。

「かなめ様に、お会いください」

 かがりは今度こそ拝殿に背を向けた。

「帰るわ」

「もう長くはありません」

一歩踏み出した状態で固まってしまう。飯垣は深々と頭を下げて続けた。

「あの方は、かがり様と会える日を待ち望んでおられます。どうか、お顔だけでも」


 命融神社の巫女、熾天寺かなめ。

 かがりの双子の妹でありながら、人々の崇拝を一身に受ける熾天の子だ。かがりには理解しがたいことだが、えいりんとうの人間たちにとって彼女の存在は心の支えになっているらしい。

 ――かなめ様がいるから我々は暮らしていけるのじゃ。

 ――かなめ様がいなかったらてんどもはますます図に乗っていただろう。

 しかし、久方ぶりに拝んだ妹の顔色は、見ているのが気の毒になるほど青白かった。

「ああ! かがり。よく来てくれましたね」

 顔のつくりはかがりと似ている。背丈も大差はない。違うところを挙げるとすれば、かがりが金色の髪と尻尾を持つのに対し、かなめは持たない。凍てつくような銀髪だけは人間離れし

ているが、その神々しい容姿はむしろ人々の信仰が集まるのに拍車をかけていた。

「こんな恰好でごめんなさい。今日も調子が悪くて……」

 寝衣姿のかなめは布団の上に胡坐あぐらをかいて苦しそうにしていた。強がりで張りつけた笑みは痛々しく、ときおり顔をしかめたかと思えば、ごほんごほんと身体に悪そうな咳をする。

 もう三年も前からこんな調子だ。先ほど飯垣に聞いた話によると、あと一年も生きられれば御の字だという。かがりは込み上げる感情を抑えつけて口を開く。

「無理しないで寝てなさいよ。死んだらどうするの」

「心配してくれてありがとうございます。私に優しくしてくれるのは、かがりだけですね」

「島の連中は挙ってあんたを崇め奉ってるじゃない」

「あれは優しさではありません。信仰です。彼らは自分のために私を祀っているんです」

「……ふうん。あんたを拝んでもてんがいなくなるわけじゃないのにね」

 かなめは悲しそうに目を伏せた。

「飯垣から聞きました。今日も、てんが来たそうですね」

「来たわよ。人が殺された。――ねえ、あいつらをなんとかする方法はないの? あいつらがいるから、人間たちに鬱憤が溜まって、それで私を」

 そこでふと気づき、かがりは何も云えなくなってしまった。死の淵に臨んでいるかなめの絶望と比べたら、自分の悩みはあまりにもちっぽけだ。

「わかっています。熾天の巫女としてこうを放置するわけにはいきません。ですが私は非力なのです。最近は神社の儀式も満足に行えず、みんなの病気を治すこともできないし」

 かなめが口元を押さえて咳をした。慌てて背中をさすろうとするかがりを手で制し、

「大丈夫。お薬を飲みましたから」

「でも」

「かがりが届けてくれた薬草のおかげで、進行は抑えられています」

「でも! そんなのは気休めでしょ。あんたの病気には特効薬がない。ううん、あったはずなんだけど、失われてしまった」

 壁の書棚に目をやる。そこには『天地綱目』と書かれた古い医学書が積んであった。かなめの病気を治す方法が記されていたらしいのだが、何しろ千年前にへんさんされたものだ。時代を経るにつれ散逸し、今では原典の六割しか残っていない。その散逸部分さえ見つかれば。

「……ねえ、かがり」かなめは遠い目をして口を開いた。「今年が、千年目ですね」

「いきなり何を云ってるのよ」

ほう寿じゆせい様が封印されてから、今年で千年です」

 かがりは遣る瀬無い思いになった。ほう寿じゆせい。その名はえいりんとうの人々にとっては呪いにも等しかった。誰もが果てしない期待を込めて聖仙の復活を待ち望んでいる。――だが、その期待が外れたとき、えいりんとうは真の意味で絶望のどん底に突き落とされてしまうのではなかろうか。

ほう寿じゆせい様は天下に九人しか存在しない〝五彩の覇者〟と呼ばれる実力者の一人です。きっとえいりんとうに平和な時間をもたらしてくれるでしょう」

「そんなのを……そんなやつを、かなめは本気で信じているの……?」

「これは事実ですから。――かがり、あなたにはつらい思いをさせてしまいましたね。獣の耳や尻尾があるだけで虐められるのは不当です。島の人たちにもかがりを蔑ろにしないよう云い含めているのですが、誰も聞いてくれなくって……これでは妹失格ですね」

「妹に失格も合格もあるか。私が虐められているのは、べつに誰のせいでもない。強いて云うなら天の神様が悪いのよ。人間から狐が生まれてくるなんて、そんな莫迦げたことをどうして見逃しちゃったのかしら……だから、ええと、」

「大丈夫。つらい日々は終わりを告げます。もうすぐほう寿じゆせい様が救ってくださいますから」

「そんな宗教じみた話は聞きたくないっ しゃべってないで寝てろっ!」

「かがりも信じてください。人の祈りは現実を変えるのです」

 頭がくらくらした。

 かなめの病気は、かなめの頭まで蝕んでいるのかもしれない――そう思った。

「もういいわ。云いたいことはよくわかった。つまりあんたは、最強の神様が突然現れて島を救ってくれるって本気で信じているのね。そんな都合の良いことを」

「違います。いえ、まあそうなんですけど、確証がないわけじゃなくて……」

「もう休んだほうがいい。私も帰るから。――いつになるかわからないけれど、きっとまた来るわ。あったかくして寝なさいよ」

「聞いてください、かがり」

かなめの視線を振り切って部屋を出る。胸の内でぐるぐる回っている奇妙な感情を押し潰すような勢いでぴしゃりと障子戸を閉めた。

自分だけじゃない、かなめも参っているらしい。

これからどうすればいいんだろう。


 どうしようもなくなってしまった。

 おうせんの外れ、人気のない鬱蒼とした林の奥にひっそりとたたずむ茅屋。鬱々とした気持ちで帰宅したかがりを迎えたのは、天を衝かんばかりの勢いで燃え上がる炎だった。もうもうと立ち昇る黒煙、辺りに充満する肌を焼くほどの熱――かがりの家は、真っ赤な火の渦に吞み込まれてもとの形もわからないほどになっていた。

「なんで……?」

 かがりは呆然と炎を見つめることしかできない。

 あの家には大切なものがいっぱいあった。服や食べ物、なけなしのお金はもちろん、お母さんに作ってもらった冬用の襟巻マフラーとか、お母さんに買ってもらったりよくだんくしとか。

(こんなことって、ないよ)

 絶望のあまり膝から崩れ落ちてしまった。それを目敏く見つける者たちがいた。

「いたぞ! 化け狐だ!」

「やっぱりこいつの住みかだったんだ!」

 かがりはびくりと震えて辺りを見渡す。草の茂みから人間たちが現れた。そうしてすべてを悟る――こいつらだ。こいつらがやったんだ。でも何故 決まっている、かがりのことが気に食わないからだ。八つ当たりとか鬱憤晴らしとか、そういう次元はとうに超えていた。

「よう化け狐、気分はどうだ?」

 男が近づいてきた。村長の長男坊、名前は確かすけとかいったはずだ。

「俺たちは清々しい気分だよ。……にしても、よく燃えてるなあ」――ぎゃははは。人々が爆笑した。何が可笑しいのか微塵も理解できない。この人たちは心の病気なのかもしれない。

「こんなことして、何が楽しいの」かがりは拳を握って弥助を睨み据えた。

「お前がこの世に存在しているとよくないことが起こる。てんが出るのも、かなめ様がご病気を患ったのも、全部お前のせいだ。だから退治しに来たんだよ、俺たちは」

「冗談じゃないわ! 私が何かしたっていう証拠があるの!?」

「鏡を見ろや! その耳と尾が動かぬ証拠だろうが!」

「違う! これは生まれつきなの……」

「云い訳するんじゃあないッ!」

 視界に火花が散った。がつんと頭を揺さぶられ、気づいたときには地面に俯せになっていた。

 脳みそが働いていない。鈍い痛みが這い上がってくるにつれ、ようやく自分が殴られたのだと理解した。信じられなかった。こんなことをするやつがいるのか。

「ふん、この程度で終わると思うなよ。俺たちは我慢しないと決めたんだ。――おい」

 弥助が顎で何事かを指示した。村人のひとりが縄を両手に近づいてくる。

 命の危機を察知したかがりは必死で足に力を込めて立ち上がろうとした。しかしいきなり背後から腕をつかまれて踏鞴を踏んでしまう。

「いたっ……離してよ!」

「お前はてん祭の供物にするんだ。村には食料がないからなぁ、やつらには狐の肉で我慢してもらおうじゃないか。化け狐退治とてんのご機嫌取り、同時にできて一石二鳥だろう?」

 鳥肌が立つのを感じた。かがりは顔面蒼白になって暴れた。しかし背後から羽交い締めにされてしまい逃げることができなかった。縄を構えた男がゆっくりと近づいてくる。

「やめてよあんたたち、頭おかしいんじゃないの!?」

「おかしくねえよ。――ほら、さっさと縛れ! こうに触りすぎると腫れ物ができる」

「ふ、ざ、けんなあああっ!」

「おい、じっとしてろ――――ぶッ!?」

 弥助の顔面に頭突きを食らわせてやると、かがりは死に物狂いでその場から走り去った。

「逃げたぞ!」「追え!」「殺せ!」――背後から無数の怒声が浴びせかけられる。飛んできた石が背中に当たって転びそうになる。それでもかがりは走る。死力を尽くして走る。走らなければ殺されてしまう。目からは大粒の涙がこぼれ落ちてくる。

 この島には、かがりの居場所はないのだ。……いや、この島だけじゃない。世界中のどこを探しても、こんな薄汚い狐を受け入れてくれる場所なんてないのだろう。

 熾天寺かがりは、いるだけで人の迷惑になる。

 それが、心の底からわかってしまった。

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