序章・一/祈りの世界 その1

 桃源郷伝説――

 しんようけんかい有り。の大なることすうざんの若し。下民いわくはく。「たれかいを知らざらん。芳草鮮美。らくえいひんふんいにしえに〝桃花源〟をうんふはれなり。故にへらく。人。自らくことあたはず。すべからくてんの下るを待つべし。てんは人をかくはくしてかいに飛ぶ。」と。かくはくせらるる者、何ぞ帰らざる。すなわかい、安逸の境地なればなり。(『武佐』巻十七・桃源郷)




「おはようほう寿じゆせい様。今日もくそったれな朝をありがとう」

 神社に奉納するための薬草を摘んでいたとき、ふと日課のお参りを忘れていたことに気づいて山のふもとのほこらへ立ち寄った。石造りの古ぼけた祠だ。まつられている神の名は〝えんていしんのうほう寿じゆせい〟。この島に光をもたらす(と云われている)仙人だった。

「ねえ、この島はこうのせいでめちゃくちゃだわ。守り神のあんたが何もしないからよ。えんていしんのうなんていう大層な仙人なんだから、村の一つや二つ、救ってみたらどうなの」

 合掌をしながら悪態混じりに呟く。祠を拝するようになってから三年、祈りの文句は時を経るにつれぞんざいなものとなっていった。人を救ってくれない神様に存在価値はない。それでも毎朝ほう寿じゆせいに祈りを捧ささげるのは、亡き母の教えにこうあるからだ。

ほう寿じゆせい様のお参りを忘れてはいけませんよ。きっとお前を助けてくださるから』

 いま思えば噓臭くて仕方がない。ほう寿じゆせいとは千年前に実在したという仙人のことだ。神社に残されている歴史書を鵜吞みにするならばかみの世界で活躍した軍人か何かで、こうとの戦争に敗北して自らを封印、遥はるか未来に復活すると云い残してこの世を去ったという。その〝遥か未来〟というのが神社の連中曰く千年後、つまり今年。満を持して目覚めたほう寿じゆせいは、村にちようりようばつする悪逆なこうどもを一掃し。人間たちの生活に安らぎを与えてくれるのだ。そんな上手い話があるかと思う。きっと神頼みしか能のないどもがしたでたらめに違いない。結局、助かりたいのならば自分で努力をするしかないのだ。

「……私はあんたの手は借りない。自分でこうを始末してやる」

 少女はおもむろに立ち上がると。祠に向かって強烈な蹴りをぶちかましてやった。足の指が折れるかと思った。しばらく涙目で悶えてからその場を後にする。


 こんな世界はぶっ壊してやる――てんかがりは激烈にそう思う。

 神が不在の島は腐臭に満ちている。事実、少し出歩けばすぐに悲劇と出会うことができた。

 神社に向かう途中、人に気取られぬよう忍び足で村を通りすがった折。野太いこうの怒鳴り声を聞いて思わず歩みを止める。うまやの柱の陰からこっそり広場をのぞくと、ひれ伏す村人たちと、彼らを傲慢にねめ回すてんどもの姿が見えた。

「――これだけか! たったのこれだけと申すのか! たかだか米俵のいくつかを貢いだ程度で儂らが満足すると思っているのか汝らは!」

「申し訳ありません。お出しできるのはこれが精一杯で……」

「云い訳するんじゃあないッ!」

 てんのふるった拳が。ろうの頬をしたたかに打った。吹っ飛ばされたわいはしばらく土の上でで痙攣していたが、やがてぴくりとも動かなくなってしまう。人間たちの悲鳴があがった。

「ええいやかましい!――いいか。貴様ら人間はてんのおかげで生き永らえているのだ。もし儂らがこの浮塊から去れば、たちまち他のこうどもが押し寄せてくるのだぞ! つまり儂らは人間の守り神! 守り神に感謝して盛大な贈り物をするのは人として当然であろうが!」

「し、しかしてん様。我々にも限界というものが」

「限界を超えろ!!」てんは髪を逆立てて荷車に積まれた米俵を指差した。「この程度で儂らの腹が満たされるはずもなかろうが! 貴様らには庇護される者としての自覚が足らん! 日頃からてんを神仏のごとく崇め奉れと云っておろうに、ふんッ!」

 怒りに任せた剛腕が勢いよく荷車に突き刺さる。俵が破裂し、大量の穀物が地面に散らばった。村人たちが汗水垂らして蓄えてきた努力の結晶が――

「ぐわははは! 次にちんけなものを貢いだら貴様らも俵のように粉砕してくれるわ! そうだな、明日のてん祭ではこの十倍の量の食物を」

「ふ、ふざけるんじゃねえっ!」

 ひとりの若者が声を荒げて立ち上がった。ぎょろりとてんに睨まれ一瞬怯むが、彼は勇気を奮い立たせて邪悪なこうを糾弾した。

「そんなの無理に決まってるだろ! 何が守り神だ、お前らのせいで俺たちがどれだけ苦労したと思っている! 無茶なことばかり云いやがって……この疫病神が!」

「なんだ小僧。それは儂らに向かって云ってるのか?」

「そ、そうだ! お前らは疫病神だ! 今すぐこの島から出て行」言葉は続かなかった。丸太のような腕に首を鷲摑みにされたからだ。てんは骨を握り潰すような勢いで力を籠める。若者の足が浮いた。じたばたと藻搔くがこうの握力から逃れることはできない。

「人間の分際で――強者にへつらうことしか能のない貧弱な人間の分際で、生意気にもてんに盾突く気か! 許さん、許さんぞ! なんとか云ってみろ、小僧ッ!」

「……、…………っ、」

 若者の全身から力が抜け、その場にどしゃりと崩れ落ちる。骨ごとねじ切られた彼の頭部が井戸の傍らにごろりと転がり、それを目の当たりにした村人たちの間から恐怖の色濃い吐息が漏れた。「莫迦なことを」と顔を覆う老人の姿もある。

「逆らう者は殺処分せねばならん! 貴様らも命が惜しくば妙な考えは起こすなよ」

 村人たちは沈黙した。それを肯定と受け取ったのか、てんは満足そうに頷いて云う。

「よかろう。――一つ確認しておくが、明日はてんによるてんのためのてん祭だ。この村を見

た限りでは祭りの前日という気がせんが、本当に準備は進んでいるのだろうな?」

「は、はい。滞りなく……」

「なるほど、儂らには秘密というわけか! よいぞ、よいぞ。貴様らがどのような催しを開いてくれるのか、今から楽しみで眠れんわ! 血沸き肉躍る祭典を期待しているぞ!――おい野郎ども、そろそろ帰還しようではないか! こやつらの邪魔をするのも悪いしな!」

 取り巻きのてんどもが応と頷いた。やつらは一様に大口を開けて下品に笑うと、その場で力強く跳躍、巨大な翼をはためかせて青空の向こうに遠ざかっていく。怪物どもの姿が黒い点々になり、やがて視界から消え去るに至っても、人々は呆然と膝をつくことしかできない。いたるところで誰かがすすり泣いている。

 てんの振る舞いは年々悪化の一途をたどっていた。やつらに殺された人間の数は十や二十ではきかない。だからといって抵抗すればすぐさま首と胴を離される。八方塞がりだった。

「この島は、もう駄目かもわからんなあ……」

 絶望に包まれた村の風景を、かがりは少し離れたところから悲しい気持ちで眺める。

 おうせんかいえいりんとうに存在する寒村である。この寒村は――というよりも、この浮塊に存在する村々は、無法者のてんどもによって生きるか死ぬかの窮地に追いやられていた。

 榮凜島は空を漂う巨大な土くれだ。どういう原理で浮いているのかは誰も知らない。島いちばんの長老曰く、彼が生まれたときには既にぷかぷか浮いていたのだという。もともとこの浮塊は平和な地だった。春には美しい桜が咲き誇り、夏にはたくさんの野菜がとれる。秋には黄金色の稲穂がこうべを垂れて、冬には一家で炉を囲んで団欒する――島から出ることはできないが、人々は与えられた環境で生きることに満足していた。

 ところが、百年ほど前に天下の実力者たちが覇を競うようになってから、徐々に世界の秩序が乱れ始める。これに乗じて湧いてきたのがてんどもだ。やつらの鬼畜さはあえて説明するまでもない。一つだけ云えることは、この十年で榮凜島の人口は半数になったということだ。

「……だめだ。これでは村が滅んでしまう」

「耐えろ。きっと彭寿星様が救ってくださるさ」

 ぎりり、とかがりは歯を食いしばる。

 こいつらは心が死んでいる。そこで無残な死に様を晒している若者など例外中の例外もいいところで、大半の人間は抵抗するだけの勇気も持たない意気地なしだ。ゆえにてんどもは調子に乗ってしまう。――しかし、人間たちの弱気を責める資格が自分にはないことを、かがりは十分に理解していた。何故なら熾天寺かがりも彼らと同じようなものだから。

「おい、何見てんだよ、化け狐」

 はっとして顔を上げる。衆人の視線が集まっていた。見つかってしまったらしい。

「何か文句があるのか? え?」

「わ、私は……」かがりは無意識のうちに後ずさる。――また、いつものあれだ。

「気に入らねえな。あいつ、こうだろ」

てんと同じだよ。そのくせ人間づらしてこの島に住んでるんだ」

「かなめ様も、どうしてあんなやつを生かしておくのかね」

こうこうを呼ぶと聞くぞ。あいつがいるからてんが来るに違いない」

「そうだ」「そうに決まっている」「死ねばいいのに」「死ね」「死んでしまえ!」

 村人たちは親の仇でも見るかのような目でかがりを見据え、しきりに「死ね死ね」と叫んでいた。かがりは何も云い返せない。ぎゅっと拳を握り、目元から溢れそうになる涙を堪えながら、どうしてこんな仕打ちを受けねばならぬのかと天を呪う。

 てんかがり。珍しい金色の髪を肩口まで伸ばした少女だ。

 ただし、かがりは普通の人間ではなかった。妖狐の性質を身体に宿した雑種である。その証拠に、かがりの頭には狐のような獣耳が生えているし、お尻の辺りからは金の毛並みに包まれた尻尾が垂れていた。これこそが人々から忌み嫌われる理由に他ならない。

「さっさと失せろ! こうめ!」

 にわかに誰かが石を投げてきた。石は厩の柱に当たって地面に落ちたものの、そういうことをされたという事実がかがりの心を蝕んでいく。

 ――消えろ。

 ――お前なんか、いないほうが世のため人のためだ。

 かがりは爪が皮膚に食い込むほどの力で拳を握った。いつもなら何も云い返さない。云い返したらその瞬間、やつらにさらなる迫害を行う大義名分を与えてしまうからだ。

 だが、このまま我慢することに意味はあるのだろうか? やつらは意気地なしだ。てんの横暴で溜まった鬱憤を、かがりを虐めることで晴らすような卑怯者だ。そんなやつらの思い通りには、させたくない。――かがりは顔に向かって飛んできた石をすんでで摑み取ると、聞くに堪えない罵詈雑言をわめき散らす人間どもを屹と睨みつけ、

「――この、へたれどもが! 私をいじめてどうなるの! あんたたちに酷いことをするのはてんでしょ! 倒すべきはてんなんでしょ! どうしてそれがわからないの」

 渾身の抵抗は最後まで続かなかった。誰かが投擲した竹の棒が、かがりのおでこを勢いよく打ったのだ。ひとたまりもなく尻餅をついたかがりに向かって、たちまち雨あられのように小石が降ってくる。恐怖が怒りを通り越した。声を張る勇気など失せてしまった。かがりは青ざめて立ち上がると、這う這うの体で藪の中へと飛び込んだ。

 追いかけてくる気配はない。それでもかがりは走る。一心不乱に走る。走っているうちに涙がぽろぽろとこぼれてくる。

(こんな世界はぶっ壊してやる)

 そう決意したのは遥か遠い昔のことのように思う。それなのに、決意をしてから今日に至るまで、かがりは何一つ〝世界をぶっ壊すための行動〟を起こしていなかった。

(私も、へたれだ……)

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