序章・一/祈りの世界 その3
どこをどう走ったのか判然としないが、辛くも村人たちの魔手から逃げおおせたらしい。
かがりは大きく息を吐くと、藪に引き裂かれて傷だらけになった肌をいたわりつつ近くの倒木に腰をおろす。そうしてはっとする。道の向こうに地平線が見えるのだ。墨をぶちまけたような黒い大地と、夕焼けの紅色に染まった大空が、一本の線でくっきりと両断されている。
「……どうしよう」
ぽつりと漏れ出たのは、掠れきった声だった。
家は燃えた。持ち物もない。残された道は野垂れ死にくらいか。無様に死ぬのも悪くない、
そんなふうに自嘲的な笑みを浮かべたとき、ふと妖氣を感じてかがりは身を強張らせた。地平線の向こう、ゆったりと流れる紅色の雲の中に、悠々と空を飛ぶ人影が見える。
(
かがりは慌てて近くの岩陰に身を隠す。黄昏時になると、やつらは
人間が
化け物どもは風のような速度で近づいてくる。
なぜ、どうして。――かがりは気づけなかった。狐耳が岩から飛び出していたことに。
「ぐわははは! なんだこやつは!
「どうする?
「珍しい狐の尻尾だ、
「だな! 殺してから剝ぎ取ろうではないか」
背後で恐ろしい会話が交わされている。かがりは木に手をついてなんとか立ち上がった。逃げなければ殺されてしまう――その一心でひたすら足を動かす。
「どこへ行くのだ狐め!」
にわかにすさまじい風が吹いた。
次の瞬間、
「逃げろ逃げろ、たまには狩りに興じるのも悪くない!」
「 狐狩りじゃ! ほぅれ、儂らを楽しませてみろい!」
ふざけてやがる――かがりは沸々と怒りが湧いてくるのを感じた。助かる道は残されていない。ならば無様に逃げ回っても意味はない。――そうだ、ここで世界を壊すための第一歩を踏
み出そう。この島に悲劇をもたらした化け物どもに、一矢報いてやろう。
かがりは足の痛みを堪えて這い上がる。木の枝を力任せに折って剣のかわりにする。
切っ先を向けられた
「なんだ? 抵抗する気かえ? 狐の分際で!」
「……そうよ。これからお前らをぶっ殺してやるわ」
「やれるものならやってみろッ!」
一匹の
「うぐっ、!?」
気づけば
「ぐわははは! 口ほどにもないな、狐!」
「こ、このっ……、……、!!」
声が出ない。立ち上がることもできない。敵はずんずんと近づいてくる。とにかく武器だけは確保しよう――そう思って伸ばした右手を突然下駄で踏みつけられ、涙がこぼれた。
「脆いな! 貴様も
「ふん、期待するだけ無駄だぞ! こやつは人から石を投げられてもろくに抵抗しない屑だそうだ! 何のために生きているかわからんな!」
唐突に放たれた蹴りが下腹部に直撃した。口から血をまき散らしながら地面をごろごろと転がり、草の上に積み上げられていた石に背中をぶつけてようやく停止した。全身が焼けるように痛む。いくつか骨が砕けたのかもしれない。
今日は踏んだり蹴ったりだ。――いや、今日ばかりじゃない。熾天寺かがりの人生は、生まれてから今日にいたるまで、どうしようもないほど不幸に満ちていた。
「ぐわははは! 見ろ、
「蹴鞠じゃ! 蹴鞠大会じゃ!」
「よゥし、どちらが遠くまで飛ばせるか勝負じゃ! 負けたら坊主な!」
気がふれそうだった。何故自分がこれほどの目に遭わなければならないのか――わかっている。天の神様がそうなるよう仕向けたからだ。
この世の悪意を一身に受けてきた、とまでは云わない。
神様は莫迦らしいくらいに残酷だ。熾天寺かがりに匹敵する不幸な境遇の持ち主など浮塊の下を見れば星の数ほど存在するはずである。巫女の占いでも出るのは〝凶〟ばかり、天下は目を覆いたくなるような悲劇に満ち溢れていた。むしろ自分なんて、この三年間、迫害されながらも辛うじて生活できていたぶんだけマシな部類なのだろう。
だが、こういう不幸が当然のように存在していること自体がおかしい。間違っている。こんな世界は壊れてしまえばいい。人の運命を弄ぶ神など滅んでしまえばいい。
そうしてふと気がついた。見覚えのある祠がそこに鎮座していたのだ。
先ほど自分が背中をぶつけたのは、かがりが毎朝拝んでいる石の祠だったらしい。
(……
このウスノロ守り神は何をやっているのだろう。今年が復活する年なのだろうに。
こちとら毎日わざわざ参拝してやっているんだぞ、島民がこんなにも悲しい思いをしているんだぞ。少しはご利益を寄越したらどうなんだ、この阿呆仙人が。
(助けてよ。
かがりは祠に手を伸ばす。意味のある行動ではなかった。
祈りが届かぬことは百も承知。そもそも
結局、熾天寺かがりの命はここで尽きる運命なのだ――
そんなふうに諦めかけていたとき、
〈力が欲しいか〉
頭に声が響いた。男の声である。
〈力が欲しいかと聞いている〉
かがりは乾いた笑いを漏らした。死に際になって幻聴が聞こえてきたらしい。
力が欲しいかだって?――欲しいに決まっているではないか。
〈俺は
莫迦げている。やはり幻聴だ。
〈おい、聞こえているのか。まさか死んだわけじゃないだろうな〉
「……わた、しは、」
げほげほと咳が漏れた。かがりは必死になって声を振り絞る。
〈生きているな。もう一度聞こう――力が欲しいか〉
「私は……、」わけがわからない。しかしかがりは藁にも縋る思いで叫んだ。「……私は、
〈了解した。これより封印を解除する〉
次の瞬間――がくん!と、煉氣を根こそぎ抜かれるような衝撃に全身を揺さぶられた。
祠の奥から膨大な閃光がばら撒かれて思わず目を瞑ってしまう。
「……なん……なの……?」
光はだんだんと弱まっていった。かがりは恐る恐る瞼を上げる。
そこに広がっていたのは紅色の木洩れ日に彩られた林の光景。
全裸の男が腕を組んで立っているのだ。
「――怪我をしている。大丈夫か?」
咄嗟に返答することができなかった。生まれて初めて見た異性の局部に狼狽えていたわけではない。いやそれもあるけど、いちばんの問題は男の正体がまったく摑めないということだ。
気づいたら目の前に立っている全裸の男。