【第二章/結成、タツィアーノ・ファミリー】その2
ミハテ村の人々は、レジスタンスであると同時に山の民だ。彼らは彼らにしか知りえない近道を持っていた。
訓練された馬と御者が、険しい山道を抜けていく。普段人が通行しない土の地面はよく揺れるし……横を子供がすり抜ける幅もないギリギリの崖際を通るとき、ぱらぱらと土が谷底まで落ちていく。肝を冷やしていたのは、しかし僕一人だけだった。シーパが俯いて深呼吸を繰り返している理由は、どうやら僕とはまた違う。
「帝都……お話には聞いておりましたが、わたし、うまくやれますでしょうか……。お買いものをするにも、作法を誤って、礼儀知らずないなかものと仲間外れになりませんでしょうか」
彼女にとっては、すぐそこにある転落の危機よりそちらのほうが懸念とみえた。そういえば、彼女はずっとミハテ村だけで生きてきた筋金入りの山ガールなのだった。
「――その懸念、領主としては同意できるが、個人としてはできかねるな、アトゥルルルハ嬢」
『今回のことはこの五名の秘匿とする』『屋敷に帰ってからは何事もなかったかのように振る舞う』と話していたファルファが会話に加わってくる。
「他者を尊重し、慮るのは素晴らしきことだが……そうした気遣いが底値で出回っているのが、これから君たちの向かわんとしている場所だ。相手に合わせんとする共感は時に、自身を脅かす毒となる。精々、帝都の黄金に取り込まれぬようにするといい」
ファルファは一方的に言い捨て、それから僕のほうを『だから目を離すなよ』とでも言いたげに一瞥してから再び身内の会話に戻った。
――シーパや僕がその言葉の意味を本当に知ったのは、帝都に着いてからだった。
◇◇◇◇◇
横柄に馬車を止めた門番が青ざめる様が、荷台の中からでもわかった。
「い、いえ、自分は、こ、このような馬車に、まさか……貴方様が乗っておられるとは……」
「良い。立場が逆であれば自分とて止めた。むしろ君は模範となるべき熱心な兵士であり、己の職務を立派に果たした。違うか?」
「は……こ、光栄でございます、大領主、ラスノさ……」
「その功績、会合でも讃えさせてもらうとしよう。帝都東門の門番は、己の職務を果たすためなら、大領主さえも咎められる人間だ、とね」
「た、大変に失礼をば致しました。お進みください、名も知らぬ方……」
「そうか。ならもう一度言おう。君は実に、正しさの何たるかを知る兵士だよ」
懸念であった関門を越え、更にいくらか走ったのちに馬車が止まる。レジスタンスメンバーである御者から「いいぞ、出ろ」と促される。澱みのない動作で荷物を持ち、迅速に馬車を降りていく。一番先にお付きの騎士たちが再度安全を確認し、それから最後にファルファが出る。その際に彼は、僕をちらりと見て言った。
「うまくやれ。貴様に必要なのは、あの時、騎士すらたじろがせた“恐怖”だ」
僕の返事を待たず、彼は馬車を後にした。
御者から「場所を変える」と伝えられる。ファルファたちとの関係を疑われないよう、可能な限り共にいるところを見られまいとする配慮だ。再び馬車が止まり、御者から「今だ」と合図がある。先に僕、次にシーパという順番で荷物を持って馬車を降りる。御者はすぐにその場を離れてミハテ村へと帰っていき、僕らも僕らの行動を開始する。
「……ここが、帝都」
脳裏に過ぎったのは、何度か訪れたイギリスの古い街並み。僕の生まれた国とは、時代も常識も遠く隔てた中世の空間だ。
石と煉瓦で作られた都は、ミハテ村より遥かに栄えて文明的だ。実用性より見栄えを重く見ているのであろう、贅を尽くした絢爛な有様だった。
目抜き通りに建ち並ぶ商店には、食品や生活用品だけでなく、装飾品や葉巻・煙草・酒などの嗜好品も多く取り揃えられ、繁盛している。そこに記されている値段についても、ミハテ村での価格帯から大きく上にズレていた。たとえばあそこの髪飾りだが、あれ一つでミハテ村では一軒家が建つ。
それを、シーパとルーの間くらいの年齢の子供が買っている。一緒にいた友人に「この前のはよく見たら色が気に入らなかったから捨てちゃった」なんて笑う少女は、肌艶が良く、生まれてから一度も野良仕事などやったことのないような綺麗な爪と指をしていて、繕いなど一切ない服を着ていた。新しい髪飾りをつけた後、古い髪飾りをご丁寧に踏み壊してから「これ、捨てといて」と店員に頼み、雑踏に紛れて見えなくなった。
その子に限らない。帝都には多くのものが有り、有り余っている。
飢えず、脅かされず、笑顔が溢れる。手に入れたいと思うものが手に入り、生きるのに悩む理由がない。誰も彼もが、しあわせそうに生きていた。
「うわ。何やってんだ、こいつ」
だから、そんな声にさえ、不愉快さは含まれなかった。
「たまにいるよな、こういうの」「虫って光に寄ってくるじゃない。あれと同じよ」
奇異さにつられ、声と人だかりのほうへ向かう。
そこでは、綺麗な格好をした人たちが輪になっていて、その中心に、ぼろぼろの服を纏った男性が唸って蹲っていた。髪はくすみ、肌はかさかさで、どぶのような臭気が漂っている。その人は切れ切れに「お願いです、薬を、薬を頂けませんか……」と、周囲の、誰でもない誰かに訴え、乞うていた。
「どうか、どなたか、薬を……」
「どうしよう。誰か教えてあげれば?」「知らないのかな。馬鹿だなあ、落陽民は」「きゃははは。あのおじちゃん、へんなのー」
悪意や、侮蔑の感情も含まない。群衆がその男性を笑うのに、『楽しい』『おかしい』『面白い』以外のものが感じられない。赤を赤と言うように、空を空と言うように、何かを貶める意図さえ持たず、彼らは彼を笑っている。
「薬を、薬をください……。このままじゃ、このままだと……」
「ごめんなさいね。だめなのよ」
笑われながら訴え続ける彼に、一人の貴婦人が見下ろしながら教えていた。
「落陽の民には、何もあげちゃいけないの。どれだけ余っていても、壁の向こうに渡しちゃいけない。それが、剣帝様がお決めになられた、しあわせの道しるべだから」
「……う……」
「さ、早く向こうにお帰りなさい。みんなが迷惑する前に、ね?」
「ううううぅ……」
彼は、地面を力なく叩いた後、ふらふらと路地の裏へ……先程からずっと見えている、高い壁のほうへ歩いて行った。群衆は速やかに解散し、各々の日常に戻る。今の光景に、今のやり取りに、何一つ心を残さず何も引きずることなく、あっさりと。
立ち尽くしているのは、僕だけだった。
「タツミくん」
右手を握られ、肩に額を載せられる。
「……ごめんなさい。この世界のこと、嫌いにならないでください……天使さま」
僕だけに聞かせる、小さな声でシーパは言った。
その唇は、胸から出ようとしたものを抑えるように、噛まれていた。
……一度、深く、呼吸をする。
「――こっちこそ、ごめん。……行こう」
地面から足を引き剥がす。僕らは、何かから逃げるようにその場を去る。
「あの方は、落陽民と呼ばれ、帝都の隣にある壁の向こうの街に住まわされています」
雑踏の騒がしさに紛れる声で、シーパは教えてくれた。この国の、更なる歪さについて。
「……住まわされている、だって?」
「落陽民は、陽の昇る様を見上げるのが仕事であると、剣帝は言っています。しあわせとは比べるものであり、不幸がそばにあってこそ実感できる……帝都に住む選ばれた者が、どれくらい恵まれているかを知るために……わざと苦しめられているのだと」
泣きながら絶望して去っていく男性の背にぶつけられた、数多の無遠慮な笑い声が、今でも胸に残っている。
「急ごう、シーパ。こんなこと、これ以上許していちゃいけない」
「……はい。わたしも、同じ気持ちです」
そうして二人、満ち足りた幸福の流れに逆らうように歩いていく。
その果てに行き着いたのは、瓶に絡み付く植物のエンブレムを掲げる、高層ビルめいた建物だった。
ポーション
◇◇◇◇◇
“蛇狩り”。
ビヨンドレスは、イスサナ帝国で進めているレジスタンスの計画名を、そのように語った。
『剣帝の独裁を成り立たせる支柱をぶっ壊す。狩るんだよ、【秩序と調停の化身】をな』
無論、それができなかったから
なればこそ、その『実証』は値千金の突破口だったのだと彼は言う。
『忘れるわけねえよな、ご本人。レジスタンスの停滞を、おまえがぶっ壊したんだろうが』
僕らが戦い、そして僕がトドメを刺した怪物……帝罰と呼ばれる巨大な蛇の抜殻は、神獣そのものではなかろうとも、本体と同じ性質を有している分身だった。
本体よりも弱いそれにすらレジスタンスは今まで敗北を続けており、あの怪物を倒せたことは、どうやら僕が思っていた以上の大きな意味があったらしい。
『この潮に乗る。決行は次の祝祭。それまでに、オレは各地のメンバーに事態を伝え、大慌てで手筈を整える。胸が躍るぜ、本来なら、決行は次の次……世代を一個二個、またがなきゃならんと思ってたからな』
そう語るビヨンドレスの眼差しは、ギラついた熱を帯びていた。いつ抜けられるとも知れぬ闇の中でもがき苦しんでいた男が、待ちに待った一握りの勝機を逃すまいと見定めた、蛇よりも蛇らしい眼光だった。
『必要なのは“酒と力”で、優先すべきはまず酒だ。これまでのデータを元に、あらかた使いきっちまった【試製蛇酔】の完成と、大量生産を急ぐ。レジスタンスが必死こいて、十年がかりでこそこそ村の秘密酒蔵に貯めこんでいた分のおよそ二百倍以上を迅速に、質の面でも優れたものを用意せにゃァならん』
あの時、帝罰を酔わせるのに使った酒は、雨が降り注ぐような凄まじい量だった。その二百倍以上など、無理難題にもほどがある。
僕が疑問を投げかけると、ビヨンドレスは『そうだ、お手上げだ』と頷き、補足した。
『オレたちだけならな。こんなこともあろうかと、蒔いておいた種がある。タツ、シーパ、おまえたちに頼むのはカンタンなおつかいだ。場所は帝都の西区、ヴィエーナ商会の受付で、こう伝言を頼め。[花実咲くのはいつの日か、七つの月が巡るとき]。後はビヨンドレスが協力を求めていると言えば、連中の大プラントはオレたちのモノになる』
「あの男、相も変わらず死にぞこなっていたか」
僕が驚いたのは、魔性を秘める美貌より、その衣服の方だった。
「無論、身体ではなく精神が、だよ。幾度負ければ気がすむのか、とうに正気は失っているのか。だとすれば合点がいく。こんな遣いをよこしたことまで含めてな」
僕が生きていた世界の、僕が知っている様式のものだ。教育の一環として品定めの目を鍛えられたおかげで、それが地球の最上級ブランドと比べても遜色のない品格であることがわかる。身体のラインをソリッドに際立たせる一着を、彼女は見事に着こなしていた。
「本人がいたらぜひ聞いてみたかった。どんな愚をどうこじらせれば、吾が吾の才と財を只で差し出すものと思うのかを」
取り付く島もない。帝都を見下ろす背の高い建物の上階で、事前の情報とは裏腹に――ヴィエーナ商会の長、ヴィエーナ・ショートッカは僕たちに拒否を示す。アポイントメントもなくやってきた来訪者を、切れ長の瞳が気だるげにねめつける。化粧の下にも薄っすらと見えてしまっている隈は、激務の証明なのだろう。
「参考までに尋ねるが。君らは、ヴィエーナ商会が何だと聞いていた?」
「……“こんなこともあろうかと、蒔いておいた種”だと」
僕の返答に、ヴィエーナは「はッ!」と笑い飛ばして身振りする。
「実に恩着せがましいね。さも自分の功績みたいに言ってくれる」
「違うんですか」
「違うとも。商会を育て上げたのは吾の腕だよ。奴がやったことは、恩とは正反対だ。ポーションの製造と販売を取り扱う商会を作る、それ以外の可能性を吾から奪ったのだから」
「……こちらは、こういうふうにも聞いていました。“どうしようもなく追い詰められた貴女の未来を、どうにか一つだけでも残して繋ぐことができた”のだと。危険思想の所有者にして、違法魔法実験の実行者、重大指名手配犯さん」
補足を告げても、ヴィエーナの優雅さは崩れない。ただ、艶やかな赤の唇から一瞬だけ舌が覗いて、唇を嘗めた。
「懐かしい話だ。二百年前の思い出で、今のこの場には関係のない事柄だよ」
そう、彼女は本当によく
「しかし、解せない。これまで慎重に、吾に生存すら隠していたあの男が接触をするにしても、部下を介するとはな。なにか、手が離せない用がある? そして、その状況で頼みに来た先がヴィエーナ商会……となると、吾も理論構築の初期段階に参加した、『酒』か? もしや――次の祝祭で動くつもりだな? はは、これはこれは……こんな特ダネ、通報すればどれだけの褒賞を頂けることやら」
僕らの立場も、事前の予想と逆転した。提供を求めてきたはずが、先の発言を鑑みるに、今は僕らこそが提供をしなければならないタイミングになった。
「率直に聞こう。レジスタンスは、売られないですむためにいくら出す?」
抜け道は、おそらく、ある。
ビヨンドレスは僕らに、『簡単なおつかい』を頼むと言った。彼にとってこの引き合わせは、要望を通す目のある交渉だったはずだ。すべてを言わない悪辣さはさておく。あとでいくらでも問い詰める。もしかしたら、これこそがレジスタンスへの加入試験なのかもしれない。
…………試験?
そこまでを考えたところで、脳裏に一筋のひらめきが走った。
そして、それは僕が、口に出すまでもなかった。
「では。差し当たって、わたしは芸を差し出せます」
「は?」
疑問の声をあげたヴィエーナに構わず、シーパはそれを、懐から取り出して蒔いた。
大商会の長の部屋に、草花の種が散らばった。
「ふむ」
優雅なしぐさでヴィエーナが指を向け、図を描くように動かす。すると、小さな無数の種が端から残らず青く淡い光に包まれたが、それもすぐに消える。
「《技能》や魔力の反応もなし。何の変哲もない、ただの植物の種か。……実にくだらん。奴が持たせた、品種を改良しつくした魔草の類と期待したぞ、がっかりだ。とはいえ、非礼には非礼を返すのが吾流の礼儀でね」
苛立たしげに溜息を吐いたヴィエーナが、こちらに手を、勢いよく突き出す。
袖口から滑り出したのは、物々しい黒い羽根を素材としたペンだった。ヴィエーナがそれを振るうと、中空に繊細で神経質な筆跡の魔法陣が描かれていた。
僕にはそれが何が何だか分からない――おそらくはこれが《魔法》と呼ばれるものではないか、と推測するのが精一杯だ。
「いいんですか、そんなものを使って。ヴィエーナ商会が都の警備とずぶずぶの関係だとしても、白昼堂々魔法の反応なんかあれば問題になるのでは?」
「お気遣い痛みいる。だが心配は無用だとも。外から内にも内から外にも抜かりなく《遮断》の術式は施工済みに決まっているだろう。ここで君たちの存在を《編集》しようと、近隣の魔術師ギルドの連中にも感知など――」
「それはよいことを聞きました」
話の腰を度々折られる忌々しさをヴィエーナは隠そうともせず、シーパを睨みつける。
「どういう意味だ?」
「お手を煩わせずともよくなりました。以前、やむなく用いた時には、大ごとになってしまいましたので」
そしてシーパは、一礼から入り、“それ”を始めた。
先日は夜の草原で、今回は帝都の大商会の会長室で。
場所が変わろうと、その舞の軽やかさと、
「な……!」
ヴィエーナが目を見開く。自分の手で確かめた彼女のほうが、目の前で起こっていることを信じられないだろう。
何の変哲もない“種”が、次々に発芽する。
……その、生命の勢いに満ちた光景を俗っぽく表現するならば、アイドルのライブに沸き立つファンのようだ。美しい舞に、心を洗う歌声に、いてもたってもいられずに身体が勝手に動いてしまう、とか。
「この現象は……反応は……まさか……!」
先程、種を分析したときのような“指鳴らし”をしようとした直前、ヴィエーナが止まる。
彼女の目は、魅入られた者の目だ。周囲を揺らす音の波に、聞き惚れている表情だ。自分の動作がそれを邪魔するのを避けたのだ。
それはつまり、もう半ばほどこっちのものだということ。ヴィエーナはついに最後まで、指を鳴らそうとするポーズのまま、シーパの舞を見終わった。
一粒の種から発芽した植物たちは、最後には僕の身長を超えるくらいの丈にまで生育していて、拍手かおひねりのようにぽとぽとと無数の実を落とした。瑞々しく艶のある、橙色をした林檎のような果実だった。
「どうぞ。お近づきのしるしです。お口に合えばよろしいのですが」
拾い上げた果実をまず自分で一口齧ってから、シーパはヴィエーナに差し出した。
「よもや、伝説のタィラート族にお目にかかり……あまつさえ奉納の実を口にする機会に恵まれるとはな。ビヨンドレスめ、とんだ隠し球を用意したものだ……」
受け取った果実を齧る、齧る……そうして、あっという間に一つの実を食べつくした、その直後だ。
「うぐっ!」
ヴィエーナが身体を折って唸り、「信じられん」と声を漏らす。それから、俊敏にいくつものポージングを次々と決めた。
「徹夜仕事と、魔法の過剰使用による疲れがいっぺんに吹っ飛んだッ! まるで、ケモコウールの高級ベッドで半日間熟睡した後のような爽快感と湧き出る体力……これが伝説に聞く、神に捧げる果実の力か!」
真正面からの感激に照れるシーパだったが、やがてかぶりを振って表情を引き締めた。
「ヴィエーナさま。先程申し上げた通り、これがわたしの差し出せるものです」
ごくり、と唾を飲む音がする。彼女が大商会を取り仕切る長だというのなら、今、頭の中は膨大な数字の波が荒れ狂っているに違いない。
「どうか、レジスタンスに……おじいさまの計画に、ヴィエーナ商会の積み上げた、あなたさまの成果を、お貸しください」
頭を下げたシーパ、それに対するヴィエーナを見た時……僕は、彼女がなるほど、一筋縄ではいかない商売人だと理解する。
先程、彼女が見せた感動も、引き出された欲望も本物で、偽りはなかった。しかし、ことが【商談】に踏み入った瞬間、そこから合理以外の一切が抜け落ちた。
「利潤を追求せぬ商人は商人ではない。だが、利潤で目が眩む商人もまた商人として失格だ。おそらく、この時代に最後に残ったタィラート族よ……君、名前は」
「シーパ・アトゥルルルハと申します」
「……タィラート族のシーパ、そして、アトゥルルルハか。良い名だ。……シーパ。君の能力は、我が商会に莫大な利益をもたらす泉足りえるだろうが――ああ、わかっているな? 過ぎたる力が、時に利よりも危をもたらす毒にしかならないことを」
……シーパの表情が曇る。そうだ、本人も僕もわかっている。
タィラート族の力は、ヤーフィラの支配者にとって、疎ましいものでしかないらしい。
「死にぞこないが何を企んでいるのか知らないが、そんなものが成功するとは思えない。またぞろ失敗するだけだ。前回、吾がすべてを失ったときのように」
ヴィエーナは、死に行く者を見送る目でシーパを見ている。
「目も眩む大金を抱えられようと、命がなくば運用できない。交渉は不成立だ、【七の鎖を解く者】。良いものを見させて頂いた礼として、君たちがここに来たこと、吾にした話は、きれいさっぱり忘れると――」
「ミス・ヴィエーナ」
視線がこちらに向く。せっかく話を締めようとしていたのに、何だこの水を差してきた馬鹿は……そんな眼差しを真っ向から受け止め、僕は微笑む。
シーパはとっかかりを作ってくれた。であれば、僕の役割は、ここからだ。
「蛇は殺せます。貴女の助力があればね」
僕は懐から、それを取り出す。知らぬものが見たとしたら、ただの薄汚れた、かさかさとした白い破片……だが、彼女にはただの塵以上のものとして見えてくれたらしい。
「――
僕が出したのは、帝罰のかけらだ。無敗不滅を象徴する神獣の一部を、リスクを承知の上で、出発の際、頼み込んで貸してもらった。
「レジスタンスには、神獣を殺す準備以上に、既に殺した実績がある。今回の戦いに、勝ち目はある。商会のポーション・プラントがあれば、それはさらに盤石となるんです、ミス・ヴィエーナ」
僕も事前に少し、今回の商談相手については聞いている。
ヴィエーナ・ショートッカ。彼女の持つ危険思想、違法魔法実験は、いずれも知識欲がゆえのものだったという。それらは七支王が共通して禁じており、彼女が本当にやりたいことをやるには――この世界を、ぶっ壊すしかないのだと。
「壊しましょう。あなたの願いを妨げるもの、謂れなき不本意を強いる体制を。僕は、そのためにいます。僕の……別世界からやってきた《天使》として、運命神ミハテに授かった能力、[
《天使》という素性、及び能力の開示も、交渉の材料だった。帝罰を撃破した実績もあるし、ルーも随分と買ってくれていたから。
「――《天使》」
しかし、ヴィエーナの反応は、僕の想像を超えて劇的だった。
「《天使》、だと?」
奇異や興味が強かった態度が、その単語を聞いただけで敵意に揺れた。
「驚いたな。吾の前で、天使を名乗る愚か者がいようとは。ビヨンドレスは言わなかったか? その言葉は、ヴィエーナ・ショートッカに対しての最大の
……聞いてない。ひとっ言も言っていないぞあの人は、そんな重要な前提を!
シーパは事情を把握しきれず慌てていて、相手をなだめようと両手に果物を持ち「ヴィエーナさまー、まだまだおかわりありますよー」とアピールしていた。たまらなく愛らしいな。
「知らなかったという顔だが、そんな事情は吾の心を抑えられない。ヴィエーナ商会は総力を挙げて【七の鎖を解く者】と敵対すると宣言しよう。採算は度外視だが、人の聖域に踏み込むというのはそこまで邪悪なことであると理解してほしい」
ヴィエーナの羽ペンが、中空に残留したままだった魔法陣に触れ、横に振られる。同じ魔法陣がぞろりと一列に――僕らを取り囲むように量産され、その全てが発光し、電気のスパークのような現象を覗かせはじめた。
「少年よ、最後に一つ聞く。天使を名乗りし者への、その真贋を試す問答と思え」
……答えられなければ、というわけか。僕には「どうぞ」という以外にない。
「では、尋ねよう。……天使よ、天使よ。地界にあらぬ彼方よりの、いと尊き来訪者よ、答えたまえ。……吾が纏いたる衣、それは何か!」
「……え、っと。スーツ、ですよね。男性ものの。全体のシルエット、重量感なんかを見るに、ウエストシェイプ高めのイギリス式で――」
からん、と鳴ったのは、羽ペンが床に落ちた音だった。
同時に、僕たちを取り囲んでいた魔法陣が消失していく。その向こうには、茫然と、わなわなと震えるヴィエーナがいて――。
「うわああああああぁぁぁぁっ!」
ダッシュ、しかるのちに、ジャンプ。
いい大人が、歓喜にとろけた表情で飛びかかってきたというのが僕にとってはじめての体験であったので、恥ずかしながら「えぇぇぇぇぇっ!?」と悲鳴が出た。
「信じられない、信じられない信じられない信じられないっ! ほ、ほ、ホンモノの、天使ッ! 生きた天使! 今そこにいる天使! ディア・マイ・エンジェルッ!」
「……もしかして、だけれど。いや、この有様を見るに、もう推測止まりでもなさそうなんだけれど……ヴィエーナ・ショートッカ、あなたの危険思想って……」
「《地界調停史学》! ヤーフィラの神々は何処に去ったのか、地界と分かたれた異なる世界とはどういう場所なのか! 吾の専攻は、天使の正体と生体についてだ!」
ヴィエーナが熱意百点の瞳で僕を見てから身を離し、足を折りたたんでふくらはぎの上に座る。そのまま上体を倒し、両手を床について額を床にくっつけた。その奇妙な姿勢にシーパは首をかしげるが、僕はそれが土下座というものだと知っている。
気になるのは、それが異世界の人がするにはあまりに整った動作だったこと。さてはこの人、この動き練習していたな。
「天使よ! これは、君が住まう世界に於いて最大の敬意と懇願を示す作法だと聞く! どうか、どうかどうかどうかっ、このヴィエーナ・ショートッカ、貴方の傍にあることを許してはくれまいか! 吾の研究に、手を貸してはくれまいか! 見返りなら望むままに! 商会の権利も差し出す、【七の鎖を解く者】への協力でも何でもする!」
……簡単なおつかい、と言われた意味に合点がいった。ビヨンドレスがヴィエーナの研究内容とその熱意を知っていたというなら、これは確かに交渉ですらない。ちょろすぎる。
「物語でも伝承でもない、本物の天使と逢えるなんて好機はまたとない! だから――」
「そこまでにしておきなさい、
話がまとまる……その流れが崩れ、え、と思わず声が漏れる。
割って入ってきた制止は、先程ヴィエーナが取り落とした、羽ペンから聴こえたものだった。
「手の届く位置にある天使なんて、地界調停史学者にとって垂涎の検体だもの。正常な判断ができなくなる気持ちはよぉくわかります。だって、自分もヴィエーナだから。でも、駄目よ」
卵が割れるのに似た、ひび割れの音がした。
羽ペンは床の上で一人でにかたかたと揺れ、その表面に亀裂が入り、そして中からそれが生まれた……いや、羽ペンが、袋を裏返したみたいにそれに変わった。
……烏の濡れ羽みたいな長い髪をした、黒いセーラー服の高校生くらいの少女が、ヴィエーナの傍に座り込む。
「まったく、最近は出ずによくって安心していたのに。いい加減大人になりなさいな、
「ううう……で、で、でも、
「生きるのなんて、そこそこでいい。過度な願いに手を伸ばして、死んでは何も意味がない。何処にも何も続かない。利口になりなさい。それができないなら――あなたの利口さを曇らせる、邪魔なものを、取り除いてあげるから」
「っ! 駄目だそれは、
「おやすみ、愚かで可愛い
何をしたのか。セーラー服の少女が、人差し指で頭をちょんと
「ほんとう、いつまでたっても、手がかかる
彼女は微笑み、そして、こちらを見る。
「――さて。タィラート族、あなたは有益。
少女の指先が、素早く、無駄なく動く。中空に描かれた紋様は光を放ち、それはとても美しく、僕は気付けばそこに、引き寄せられていた――極めて、そのままの意味で。
「天使さま!」
叫びながら手を伸ばしてきた、シーパの指を掴めない。僕は為すすべもなく、引っ張られるがまま、中空の紋様の中へと吸い込まれ――。
◇◇◇◇◇
――気がついたら、知らない場所に、たった一人で立っていた。
「ここは、どこだ……!?」
人の住む市街地らしい。だが、同じ市街地でも、先程歩いた街並みとはまるで違う。
まず、廃墟と見紛った。次に異界と想像した。どうしたわけか、空がここだけ暗い。向こうは青天なのに、この区画の上にだけ分厚い灰色の雲がある。埃っぽく薄汚れた周囲からは臭気が漂い、どうしたわけか身体まで重く感じる。
『あなたは嫌い。触れたくない、関わりたくない。だから』
背後から囁かれたような声に振り返る。
そこには誰もいない。セーラー服の少女の影も形もない。
……いや、いる。そこら中にいる。路地から、家の中から、薄汚れたごみ溜めから、もぞりもぞりと次々に現れる。僕はどうやら、とっくに取り囲まれていた。
『
ぼろを纏った大人や若者、老人に幼子、男女の目には等しく希望がない。そこに浮かんでいるのは茫洋とした絶望と、ギラついた澱みだけ。
『さあ――やりなさい、落陽の民たち。そいつを殺せた一人にだけ、そこを出る権利を与えてあげる』
錆びた包丁、欠けた煉瓦、割れた瓶、折れた棒。
それぞれがそれぞれの凶器を手に、雄叫びを上げて僕のところへ殺到してくる。
それを見ながら、僕は焦り以上に、ああ、そうか、と目の前の事態を受け止めている。
ここが、落陽区。恵まれた者たちが、より幸せを感じるために苦しめられる、優越という人の悪性に閉じ込められた被害者たちの住むところ。
「っく、そ……!」
囲い込まれる前に走り出す。投げられた瓶が足元で砕け割れ、それを飛び越しながら路地に入り、待ち受けていた男の腕をすんでのところでかわす。
背後からの声に追い立てられながら、物陰に身を隠してやりすごす。一息つけるか、と思った瞬間、頭上から「ここにいるぞ」と声が降る。見上げた建物の窓から、血走った眼の男が身を乗り出して金属製の調理具をガンガン叩いて仲間を呼んでおり、慌てて飛び出した。
(どうしようもないな、土地鑑がないってのは……!)
落陽区の地理地形、住人の生活習慣に関係性……逃走に必要な情報がお話にならないほどに欠けている。そもそも自分の現在地すらわからない。
拘束の手間すら要さず、一瞬で標的を拉致し、見知らぬ場所に放り込める……なんて夢のような、悪用に向いた手段だろう。その上で成り行きに任せるも、消失事態をネタにするもよしと来た。《技法》なんてものが存在するヤーフィラは、さぞかし犯罪組織のやりがいのある環境に違いない。
(……なんて、考えてる場合でもないか)
半壊した荷車の下に潜り、泥水に濡れながら周囲の住民が去るのを待つ。
(どうにかして、帝都に戻る。……まずは、それだ)
遣いを殺され、面子を潰されたとなれば、ヴィエーナ商会とレジスタンスの間には埋められない溝ができてしまう。
ヴィエーナ・ショートッカ、彼女の羽ペンから現れたセーラー服の少女は何なのか。なぜあそこまで
(地理はお手上げだけど、でも、どちらに向かえばいいかは、わかる)
頭上の曇天が落陽区を覆っているのなら、青空のほうへ走ればいい。
……落陽区の人間は、帝都に踏み込んではいけないらしい。ならば、あの壁を越えさえすれば、追手からも逃れられる。
(あそこに、辿り着きさえすれば……)
汚れの染みついた石畳を走った。処理されないゴミで満杯になった木箱の横を過ぎた。自棄を感じさせる
そうして、ようやく帝都と落陽区を分けているらしい、高い壁の下にまで辿り着く。
そこは、落陽区の市街と比べると、残酷なほどに清掃や管理が行き届いていた。この壁自体がある種の圧力を持っており、汚れを寄せ付けずにいるかのように。
右から左に見渡して、一ヶ所、壁に門らしきものがあるのを見つけた。近づいて確認してみれば、確かに向こう側の帝都にまで繋がっているのがわかった。
……僕がついさっきまで、凶器を持った住人たちに追い回されていたのと地続きの場所に、日々を豊かに暮らしている、恵まれた人々の生活がある。
「――こんな壁一つ隔てただけで、ここまで違うのか」
衣服や、身体つきを取ってもそうだ。およそ服とは呼べない、ボロ布を身に着けただけの住人たち……あれだけ多くの相手に狙われながら、誰も僕に追いつけなかったのも当然だった。痩せこけた頬、棒切れめいた身体、十分な食事もできておらず、栄養も足りなければ体力だって足りるわけがない。そのことを意識した途端、恐怖や焦りが薄れていくのを感じた。
「そうだ。僕が此処に来たのは……ヴィエーナと、契約するためだ……!」
意を新たに、無人の門をくぐる。
……ここで、僕は仕損じた。頭に血が上り、冷静さを失って、見落としてはならないことをいくつも見落としていた。
なんでこの周囲には、落陽区の住人たちがまるでいなかったのか。門がありながら、どうしてここには見張りの一人も詰めてはいないのか。僕が門を越えようとしたとき……なぜ帝都の人々が、急に立ち止まってこちらを見つめ始めたのか。
「…………あ」
半ばほどまで来て、ようやく気付いた。
立ち止まり、僕を見る帝都の人々の目線が、何かを期待するような、好奇に満ちたものであることに。
ここの“門”の形状が、縦に長い楕円ではなく、トンネルめいた半円で……まるで、覗き穴のようではないか、と。
「駄目です、戻って!」
その声があと一秒遅かったら、どうなっていただろう。
「早く、急いで!」
突如目の前に出現した魔法陣が、何かの効果を及ぼす前に、身体を反転させて走り出す。
果たして――どうにか、間に合った。僕は入り口にいた人に手を掴まれ、強引に横へと避難させてもらった。
無数の鉄杭が、門から突き出てきたのはその直後だった。それをもろに浴びていたことを考えると、幸運だろう。
被害が、左足首だけですんだのは。
「っぐ、ぁぁっ……!」
突き刺さった杭は霞のように消えた。これもまた魔法の産物だったらしい。摘出の手間がいらない分ありがたいが、焼けつくような痛みで脂汗が出る。
「……すみません。狩りの対象に指定された人が、落陽区から逃げていると聞き……ここの壁に向かうだろう、とは思ったのですが。あと少し、間に合わなかった」
命の恩人は申し訳なさそうに言って、それから僕のことを担ぎ上げた。
「あれは、出口ではありません。落陽区の暮らしを覗き、そして、叶わぬ夢に命を捧げる者の末路を見届けるための目です。通り抜けようとした者は、魔法の罠で串刺しにされる……しかし、百回に一回程度の確率で、何も起こらないことがある。それに賭ける者を、彼らは、娯楽として楽しむのです」
趣味の悪さに吐き気を覚える。それは、突破成功者のその後を想像したのも含めてだ。
「そうして命をかけて渡れたところで、帝都と自分たちの生活の差に打ちのめされ、同じ場所に戻るしかない。壁を越えたところで、落陽民が、落陽民であるのをやめられるわけでもないのですから」
……なるほど、だから、そんな忌まわしい場所には誰も近寄らないわけだ。
しかし、わからないことはもう一つ。
「――どうして。あなたは僕を、助けるんですか」
「あなたとそのお連れの方だけは、ぼくの訴えを笑わなかった。それが、泣きそうに嬉しかったから」
僕を担ぎ上げた……帝都に薬を求めに来ていた男性は、そう言った。
痩せた身体の細い手足で、苦しそうに息をしながら運ばれたのは、壁からほど近い位置にある民家(廃墟にしか見えないほどに荒れていた)の地下だった。
「追い立てたこと、謝ります。ですが、ぼくらにも事情があったんです」
薄汚れた包帯で、彼はせめてもの手当てをしてくれる。
「落陽区は常に、魔法で監視されています。地下でもないかぎり音も姿も筒抜けで、僕らが飢えて悶えて生きていること自体が、帝都では娯楽になる。ああいうふうに、唐突に何かが投げ入れられて、これをどうしろ、という指示がされるのも珍しくはない。それを成したものは帝都に迎え入れよう、という餌がぶら下げられるのも」
彼の表情は苦い。それだけで察しがついた。
「……約束は、いつも反故にされてきたと?」
「帝都の常識では、落陽民との間に行われた契約は、一切効力を持ちません。ぼくたちは、対等な契りを交わすに値する《人》ではないからだとか」
その苦笑が持つ意味合いの重さに、僕は言葉を失う。
「わかっていても、無視できない。こうした“催し”が行われた時、消極的だった者は懲罰を受けることもある。だから、どれだけ老いていても、病であろうと、ぼくたちは熱情を演じなければならない」
それも、僕が逃げ切れた理由だったのだろう。落陽区の人たちは、踊らされることに心底疲れ切っていて、それでも無理矢理に熱意のある振りをしていた。
「落陽民は、帝都民に幸福を与えるために生存を許されていて、それが果たせなければ生きている価値もない。ぼくたちの命は消費する娯楽で、生産を行うことである程度の自由が与えられている隷領民とは、用途が違うんですよ」
その言葉に驚く。僕たちは帝都に入り込むに際し、隷領地の者だとばれぬように変装をしてきた。ビヨンドレスが調達していた衣装、レジスタンスメンバーに施された化粧は僕らを帝都に紛れ込ませ、誰にも気付かれなかったのに。
「手と、目と、匂いでわかりました。帝都の人たちは、労働とは無縁に一生をすごします。日々の楽しみに身を浸し、怒りや憎しみなんて思いも薄れているし、慣れていない。それに、あなたがたからは……帝都や落陽区では嗅ぎようもない、なんだか、うらやましくなるような……そう、清々しくて、さわやかな匂いがしたんです」
「……それはきっと、土や、草の匂いです。僕は昨日まで、山に入ったり、ヒツジを世話する生活をしていましたから」
「――ああ。それはとても……なんだか、うらやましい、ですね……。山もヒツジも、実際に見たこともないんですけれど……」
それは、欲するものが決して得られないと理解している、諦念に染まった呟きだった。僕が何かの言葉を返す前に、建付けの悪い扉が頭痛のしそうな音を立てながら開き、そして、ノブよりも低い位置から声が出た。
「にい、ちゃん……」
隣室から顔を出したのは、まだ年端もいかない子供だった。彼は手に、黴の生えたパンのようなものを持っていて、ちらり、と僕を見る。
「あたらしいひと、来たんだよね……。これ、あげて……?」
その子供は、ひどく痩せていた。頬はこけていて、息をするのもつらそうで、顔色は悪く、その手に持った食料を、僕に渡そうとしている。
「よく、見えないけど……にいちゃんがつれてきたってことはさ、困ってて、たいへんで、きっと、おなかも空いてるもんな。だから、これ……」
腹の鳴る音がする。その子は、今の自分に必要で、欲しくてたまらないはずのそれを、見ず知らずの僕に分け与えようとしている。
「……いいんだ。それは、君が食べなさい」
「でも、にいちゃん……」
「彼も、それを願ってる。自分一人が食べるより、子供たちで食べたほうが、多くの人がお腹を膨らませられるから」
「……うん、わかった。ありがとう」
子供が部屋に戻る際に、開いた扉の隙間から見えてしまった。
ろくに寝具もない床で、幾人もの児童が、背を丸めて咳き込んでいた。
戸が閉まる。会話せずに息を潜め耳をすませば、咳の音が、ずっと続いていたことが聞き取れた。
僕は思い出す。彼は最初に、一体何と言っていた?
『お願いです、薬を、薬を頂けませんか……』
『必要なんです。足りないんです。どうか、どなたか、お願いです、薬を……』
『薬を、薬をください……。このままじゃ、このままだと……』
「落陽民の不幸は、調整され、操作され、管理されています。見る側が、より幸福を実感できるように。あの子たちもまた……病に侵されるよう、住む場所も、食事も、全てを制限されて作り上げられました。ポーションの取り扱い規模で、帝国一番のヴィエーナ商会も……一瓶の薬すら分け与えてくれません」
極まった飽食。得られることが当然の環境。乗り換えるために捨てられる、まだ使えるもの、すぐそこで誰かが欲しているはずのもの。
そこに屈託はなかった。帝都民の目に悪意はなく、敵意もなく、害意など生じておらず、気品に優雅さ、余裕に満ちて、自分たちの行いや考え方が、間違っているなんて夢にも思っていなかった。
幸せになるために生まれ、全力で恵まれることだけを許された人間というのは、どのように育つのか。一体何ができ上がるのか。今日、僕が見たのは、その解の一つだ。
痛みのない世界に、他者の痛みを想像する力なんて、発芽しない。
「ずっと、どうしてもわからないんです。
尊い者と、そうでない者。それを決めるのは、得てして自らを尊い者としたい側だ。彼等は彼等の論法、正当性を主張する線引きでもって権利を握りふるいにかける。
下賤であると断じる者を、憐れみながら、見下しながら、自分がそちらでなくてよかったと、心の底から歓びながら。
「こんなことを、隷領民であるあなたに聞いても、答えが出ないことなんて、わかっています。でも、すみません――吐き出させてください」
彼もまた疲れ果て、心は芯まで弱っていた。
当然だ。彼があの時、帝都にいたということは、一度死んだも同然なのだ。百分の一の可能性に賭けた時点で、それはほぼ命を捨てたに近い。ほんのひとしずくの奇跡で【覗き穴】を通過できたというのに、必死で訴えた言葉は誰にも届かず、何も得られず、落陽区に帰ることしかできなかった。その絶望すらも“幸福の実感”とするために、【覗き穴】は存在しているのだ。
「人を幸せにするために、落陽民は生まれてくる。苦しめば苦しむ分だけ世を豊かにできる、なくてはならない聖なる生贄であると、ぼくたちはずっと言われて、生きて、救われないでいてくれてありがとうと、感謝されながら死んでいきます」
今までそういうふうに去っていった多くの同類を、彼は見届けてきたのだろう。
そうしてじきに、自分も見送られる側になることを、受け入れている声だった。
「手を差し伸べられないのは当然だと笑われる。落陽民が幸せになると、皆が不幸に思うんだって怒られる。そんなぼくたちが――ぼくたちにだって、あたりまえに、普通の幸せが欲しいと思うのは、間違っていることだったんでしょうか――」
「ああ。そうだね、隅から隅まで、間違っている」
足首が、痛む。血は止まらない。それがありがたい。
この傷、落陽区で受けた痛みが、僕を問題の当事者にしてくれる。
「誰かに間違っていると言われ、だから仕方がないんだと受け入れて……人の幸せのために踏みつけられることを良しとするなんて、間違っているよ」
腹の底が煮えたぎる。こんな当然のことを、今まで誰も、教えられる者がいなかった。幸せになれる者が勝手に選ばれ決められる、イスサナ帝国という檻の中では。
「帝都民でも落陽民でもない異邦人の僕に、あなたの疑問の答えなんて出せやしない。だから僕は、勝手に、僕の思いを言わせてもらう」
包帯を巻いた足首は、立ち上がるのも困難だった。だけれど困難は、それをやらない理由にはならない。一歩ごとに、足首から脳髄まで駆けあがる痛みが走る。
それがどうした。
「この世には善悪がある。誰もが幸せになるなんて、笑えない夢物語だ。だから――僕は、自分が欠片も善でなかろうと、この世で最低の邪悪だろうと。他でもない僕がしあわせになるために、僕がしあわせにしたい人を、しあわせにする」
扉を開ける。さっきの子供と、それから、床に寝ている子供たちが、咳き込みながらもこちらを見る。背後から、痩せて諦めた青年の、戸惑う声がかけられる。
「……あなたは……何を、するつもりですか……?」
そんなことは、決まっている。
「屈辱には報復を。侵略には赤き血を。我らの掟は是即ち、魂の反逆である」
「……おにいさん、だいじょうぶ……? けが、してるの……?」
子供の一人が、僕の右目から流れ出した血を見て、心配そうに尋ねてくる。
僕は「そうだね。ちょっと、痛むところがあるんだ」としゃがみ込む。
そして、血を親指に取り、その子の額に触れる。
淡い光と共に、血は子供に、吸い込まれて消えていく。
「だからさ。君が……君たちさえ良かったら、少しの間だけでいい。ちょっと、この痛みを止めるのに、少し手を貸してくれないかな」
子供は、僕の言葉を噛み砕くように頷いて、それから「あれ」と気付いたように、自分の喉に触った。
「なんだろ、なんだか、息が……」
溢れる血涙を五指で掬い取り、他の子供たちにも散らす。付着した血は、同じように、光と共に吸収される。
子供たちは身を起こして、僕を見る。生まれてからずっと、誰にも救われず、何も恵まれず、人のための不幸で死に絶えようとしていた彼らに、頭を下げて、頼む。
「{僕の後ろについてきて。今から、つまらない運命をぶっ壊しに行こう}」