【第一章/穏やかな日々の終わり】その1

 向こうの山から朝陽が顔を出すより早く、あくびをしながら家を出た。

 まだ薄暗い夜気に冷えた道を歩いていくと、なだらかな傾斜の牧草地に、大きな真っ白毛玉がのそりのそりとしているのが見えてくる。

 ケモコヒツジの群れだ。

 デタラメに柔らかな羊毛を持つケモコヒツジは、危険を感じると毛の中に脚を引っ込める。そうして危機が去るのを待つか、あるいは、球状となった身体で斜面を転がって逃走する。山地の不安定な足場に独自の方法で適応した種であり、山の生活を支える相棒として古くから人々に愛されている、のだとか。

「しかし、不思議な生き物だよなあ」

 焼きしめた草団子をもちりと齧り、放牧の様子を見守る。

 世の中には不思議な生き物がごまんといるとは知っていたが、それでも――自分が一ヶ月前までいた場所、地球にはあんなビックリヒツジはいなかっただろう。

「……おっと」

 草団子を口に放り込んで立ち上がる。

 草むらの虫か蛇にでも驚いたか、一頭の子羊が丸くなって斜面から転げ落ちていった。ああいうやんちゃを迎えに行くのが、今朝の仕事だ。

 斜面を下り、転がり落ちた子のそばに着いた。丸まった毛を撫でて声をかける。

「大丈夫かい。脚や身体は痛めてないか?」

 ミヒヒヘ、とひと鳴きして、手足や顔が毛の中から現れた。僕のことを覚えてくれているらしいそいつは、手をぺろぺろと舐めてくれた。

 大変なのはここからだった。今度はこっちが転げ落ちぬよう、草の斜面を慎重に進まねばならないし、ケモコの子は毛をこすり付けるようにしてじゃれついてくるしで、すぐそこに見えている群れに戻すまでに五分はかかった。

「気をつけるんだよ。困ってても、いつも誰かが助けてくれるとは限らないからね」

 言葉をわかっているわけもないけれど、ケモコの子はまるで了承したように、ミヘヘヘヒ、とこちらの目を見て鳴いた。

 ……問題は、このやり取りが傍目には楽しげに見えてしまったらしいことだ。

 落ちて、連れ帰られて、撫でられる……それを真似したがって斜面を転がるケモコの子を、五頭ほど迎えに行っては戻しをする羽目になった。

 ようやく一段落つくころにはもう大方陽が昇っていて、見張り役の定位置で腰を下ろし、「ぶはあ」と荒い呼吸を繰り返して汗を拭う。

「早く慣れないとなあ。……村に置いてもらってる、居候の身の上としても」

 うん、と気合を入れ直した時、山向こうから来ていた陽がその下弦まで現れる――そして、村の方角から鐘の音が聞こえた。

 呼び出しの合図、つまり、朝のお勤め終了だ。

 ケモコたちがぞろぞろと、自分で所定の場所へ戻っていくのを見ながら帰路につく。ほどなく村に着き、売店兼朝仕事を終えた人たちの為の共同大食堂に向かう。軽く身体をはたいて草の切れ端や土を落とし、正面の入り口をくぐる。

「あー、タツー! ねえどうだったケモコ、毛ぇどんぐらいふくらんでたー!? はやく刈りたいかーりーたーいー!」

「おう坊主、今朝もお勤めゴクローさん! 疲れとるな、顔に出とるぞ!」

「タッちゃん、後でもいいから、洗濯物はいつもんとこに出しといてねー」

「おうタツよ、今日の仕事は、ちくと山にへえるでな。籠持ちしてくれや」

 いっぺんに話しかけられ困惑していたところ、厨房から大皿に盛られた料理を運ぶ、エプロン姿の彼女が現れた。

「だめですよ、みなさま。見てください、タツミくんのこの顔、おなかに添えたおててを。おはなしは、ごはんを食べながらにいたしましょう」

 配膳しながら割り込む注意に、押し寄せてきていたあれこれが止まる。「おっかねえおっかねえ」と老人が肩を揺らす。ケモコの毛を刈りたがっていた幼女のルーが、「はーい、おかあさん!」とけらけら笑って席につく。

「今朝もおつかれさまです、タツミくん。今朝はタツミくんの大好きなアンゴロモロコシのスープですよ。まごころをこめてこねこねいたしましたので、たくさんおかわりしてくださいね。と、ごはんの前には手をきれいにしておきませんと」

 おしぼりで手をごしごしと拭かれる。

 運動で火照っていた身体にその冷たさは心地好く、「ふわぁ……」と空気が抜けるような声が出てしまう。

「ありがとう、シーパ」

「どういたしまして」

 包容力ある微笑みを真正面から受け止めて、目を逸らすこともない。……いや、彼女のこういうところに、僕も大概慣れたものだなあ。


    ◇◇◇◇◇


 早いもので、僕がこちらの世界に来てから一月がすぎた。

 山間の集落、ミハテ村での生活にも馴染みはじめた、と思う。新入りに与えられる仕事は日によってまちまちで、都度人手を欲するところへ引っ張られるのが恒例だが、今日は朝に食堂で約束した通り、山菜採りの荷物持ちとなった。

 手鎌と鉈で藪を開いて進むトラタさんの背にどうにかついていく。山菜は刈る傍から、僕の背籠に放り込まれていく。

「ええ収穫だ。山を下りたら酒場に持ち込むとしよう。お前が言うとったアレ、テムプーラを試してみるのもよさそうだ。……うっし。ちと休むか」

 草を払った一角にどっかり座り込むと、疲れがどっと押し寄せてきた。こちらが息もきれぎれな様子を見て「かかか」と愉快気に笑われる。

「筋は悪かねえ。後は慣れと要領だぁな。しっかりせぇよタツ、この老いぼれより先にバテとるようじゃあ、シーパはやれんぞ?」

「――二つほどいいです?」

 木製の水筒から水を飲んで、それから言う。

「一つ。シーパとはそういうんじゃありませんし、二つ、とてもじゃないけどあなたは老いぼれになんて見えませんよ、トラタさん」

「っは! なーんじゃ、世辞まで言いよるわこの坊主! あとな、そんなかしこまった呼び方はやめえ! おんなじ家でおんなじ風呂に入っとるっちゅうのに、むずっかゆくてかなわんわ!」

 トラタ・タトラ・ラタト――通称、トラ爺。

 この人こそ、ミハテ村の長であり、シーパを拾った育ての親だ。そして、シーパに連れられてやってきた、身元不明の不審者である僕を村に置くこと、自分の家に居候することまで許してくれた大恩人でもある。

 年齢は今年で六十七というが、茶色の髪に混じる白髪はそう目立つ本数ではないし、顔の皺もそんなにはない。精神のほうも実に若く、ぶらりと旅に出てはいつも山ほどの土産を持って帰るし、郵便屋が訪れる度、山のように女性のものらしい手紙が届いている。……一体出先で何をやっているのだろうか。

「――あ、さて。ちょい、近うよれや、タツ」

 切り株に座っていたトラ爺が、自分の隣を叩く。「はぁ」と御指名の席に移ったところ、唐突に肩を組まれた。

「で。どうだ最近」

「そうですね、不慣れなことはまだ多いですが、これからも――」

「だぁぁ違う違う。タツがしっかりがんばっとるのなんざ、村中が知っとるわ。そういうことでなくてだな」

「というと」

「おほーっ、さては、ワシの口から言わせたいか? しょうがないのお!」

 トラ爺はたっぷりと間を置き、じっくりと勿体つけて真顔で言った。

「もうチューとかした?」

「すみません、大恩人ですが言いますね。……ボケました?」

「ボケとらんもーん! 純粋なワクワクじゃもーん!」

 否定はされたが、色ボケなのは確実である。眼差しがピュアなほどこちらは辛い。

「だってだってじゃぞ? 可愛い娘がじゃな、ある日突然『この子をうちに住ませたいのです。面倒は全部わたしが見るのです』と連れてきた若者が、感心な働き者で孝行者とくれば、期待しちゃうじゃろ?」

 正しくは『この方は、山中で行き倒れておられました。過去についても思い出せないご様子なのです。捨て置いてしまうのは、ミハテさまの教えに誓ってありえません、おじいさま』だ。

「のお、タツ。あれは優しい子じゃが、怖がりでな。村の誰とも分けへだてなく接しながら、これまで誰にも、本当に心を預けはせんかった。一本、己で線引きしておった」

 表情からはふざけた感じが消えていて、トラ爺は視線を遠くに投げている。

「歓迎するに決まっとろう。お前が何処から来よった誰だろうと、可愛い娘が初めてああまで心を許しとる相手を、誰が追い返せようものか」

 柔らかい笑みには、喜びと同時に寂しさも混じる。

「タツミ・アノウ。若者同士に何があったかと、首を突っ込む野暮もないが……くれぐれも、あの子を泣かしてくれるなよ?」

「はい。シーパがいないと、僕は今、この世にいませんから」

 トラ爺は満足そうに頷く。籠も埋まって下山するかとなったが、僕は『寄りたいところがある』と頭を下げる。その瞬間のトラ爺のにんまりとした顔といったら。

「どんと行け! お願いさっそく実践してくれおって、おじいちゃんうれしい!」

「何回でも言いますけれど、本当、そういうんじゃありませんからね?」

 獣道を引き返し、山道に戻ってトラ爺と別れた。荷物を背負っての山歩きは足腰の鍛錬になる。僕は山のさらに上へ……一ヶ月前に下った順路を逆に辿っていく。

 そうして、あの丘に行きついた。生い茂る木々にカモフラージュされ、下からは見つけられず、近くまで行かねばわからない岩壁の洞窟の奥へと進む。

 そこでは彼女が、あの時やろうとしていたことを正しく行っている最中だった。

 御供えの献上と、祭壇の間の清掃……あの時は気付かなかったが、ここの壁面には、岩壁と一体化するようにして彫られた、半身の女神像が存在している。彼女はそれを、木製のハシゴを使って、丁寧に磨いていた。

「シーパ」

 腰のあたりを磨いていたシーパが振り向く。慌てたふうな様子が見て取れた。丁寧にハシゴを下りると、こちらに小走りに駆けてきて……それから、深々頭を下げる。

「お出迎えもせず、申し訳ございません、天使さま。シーパ・アトゥルルルハに御用でしょうか。なんなりとお申し付けくださいませ」

「……えっと、じゃあ、とりあえずなんだけど……僕『天使さま』じゃないからさ、村にいる時みたいに普通にしてくれたら、助かる」

 今回も僕の訴えは彼女に届かず、首をかしげられるばかりであった。


    ◇◇◇◇◇


 シーパから引き継いだ女神像磨きの仕事を終えて、二人で休憩に入った。

「はい、これ」

 壁際に並んで座り、来る途中に採った果実を渡す。子供の手にすっぽり収まるサイズ。つるりとした桃色の薄皮を剥いてかぶりつくと、弾力のある食感はさながら葡萄と柿を足したようで、さらりとした甘みとたっぷりの水気が喉を潤してくれる。

「さすがです、天使さま。これほどまんまるく実ったロップロの実、わたしも初めて味わいました。やはり、天使さまの行く道には、運命神の加護のあるものかと」

「いや、普通に歩いててたまたま見つけただけなんだけど……」

「ご謙遜なさらずとも。天使さまはそも、運命神の導きによってヤーフィラ地界におられます。幸多きことは当然なのです」

 “天使さま”。それに、“運命神”。

 シーパ曰く、彼女たちの信じる神々の物語には、僕のように【神に導かれ、異世界から訪れる存在】のことが記されているらしかった。

 ヤーフィラ地界――人々が住まう大地へとやってきた天使は、自らをそういうものであるとは決して認めないのだという。奇しくも、二人きりになる度にかしこまってしまうシーパに対して毎度する『本当にそういうんじゃないんだよ』という説明は、彼女にとって『この方は本物の天使だ』との認識をますます強めることになってしまっている。

「天使さまは、その身と心に深き傷を負ったもの。ゆえにこそ、地界へと癒しに降りてこられるものであると、わたしは知っております」

 彼女は、僕の胸に手を添えてくる。

「わたしは確かに目にいたしました。……運命神の祭壇に御光臨なされましたあなたの、痛みを、苦しみを、悲しみを。ですから――」

 しあわせになっていただきたいと感じたのです、と敬虔な少女は言い切った。

「あの時お助けできて、良かった。訪れた天使さまを助けることができなかった話も、多く伝わっておりますので」

「――お助け、か」

 ちら、と視線をやる。今は何もない祭壇の間の一角だが、僕は見たし、知っている。

 伸びやかに枝を広げる大樹と、首を垂れるようにしなる枝、そして――この世のものとは思えないほど甘美だった、あの果実を。

 首をさする。最初からそんなものはなかったみたいに傷はない。果実の大樹と同じように。

「シーパ。あれは……あの時の木と、果物は――」

「お優しき天使さま」

 言葉を遮られる。それ以上聞かないで欲しい、という意志を、かすかに感じた。

「もしかしたらあなたは、自分がをしていると、そのように思っておられるかもしれません。僭越ながら申しあげますと、それは違うのです。わたしが、あなたに、笑っていただきたいだけなのです」

 ばつが悪くて、目を逸らした。

 その先にあるのは、先程この手で頭のてっぺんまで磨いた、岩壁の女神像だ。

 運命神ミハテ……シーパが信仰する神様の似姿は、僕にとって、ものだった。

「――随分、真面目な表情だ。そういう顔、初めて見ましたよ。猫のお姉さん」

 気付いた時は驚いて、トラ爺やシーパにこの世界の神話『神去り』について聞かされてからは、少しだけ合点がいった。

 地界に理を布き、自らの役目を終えた神々は、その場所を人々に明け渡して去っていった。ヤーフィラの外たる地へと移ったとも、神のみが住まう領域へ帰ったともいう。……そのうちの一柱は、地球という世界で、人に混じって気ままにすごしていたわけだ。

「天使さま」

 褐色の肌、望月の髪、橙の目……自分よりも年下の少女が、ふいに、手を握ってきた。

「シーパは、あなたの迎人足りておりますでしょうか。ヤーフィラ地界は、その痛みを癒す安らぎを、与えられておりますでしょうか」

 伝承では、休養をすごした後、天使は自身を遣わした神に地界での体験を報告し、その結果次第で神は再び地界へ戻り、加護をもたらしてくれるのだという。

 だからこそ『天使さま』はもてなされる。それは天使の光臨を目撃した迎人の役割だ。そして、天使がありのままの地界の様子を知るために、天使が天使であることを迎人は他の者に決して喋ってはならない。

 つまり、シーパのこうした態度も、ある種の義務や責務としてのものなのだろう。トラ爺が言っていた『心を許している』というのは、本当の意味のそれではない。

 肩書に対しての一方的な敬服……その感覚は僕に、苦いものを思い出させそうになる。

 しかし、十分だ。そうしたものを差し引いたとして、僕の答えは決まっている。

「楽しいよ。こんな時間がすごせるなんて、思ってもみなかった」

 のどかで、やさしい生活。誰かを蹴落とすだの、争って傷つけるだのなんて、考えなくてもいい平穏な日々。

 不満なんてあるものか。僕はずっと、何の変哲もない、普通の生活がしたかった。

「……うん。もしもまた会う日が来たら、あの人にも、包み隠さず伝えられる。僕は、この世界に来られてよかったよ、シーパ」

 失敗があるとしたら、そんなふうに言ってしまったことだ。

 まるで伝承の天使さまみたいなことをうかつに口にしたせいで、感極まったシーパを張り切らせてしまった。帰り道では僕の受け持ちである背籠まで奪われそうになり「今晩の湯ではお背中をお流しさせていただきます」とぐいぐい来るのも丁重に断った。

 明日もまた穏やかな日であって欲しいと、ささやかな祈りを運命の女神に捧げる。真っ赤な夕焼けの坂を、二人で下って村へと帰る。

 ――僕は、本物の天使なんかじゃない。前の世界でつまらないいざこざに巻き込まれて死んだ、普通の人間、安納辰巳でしかない。

 それでも、と思う。

 僕は、僕のできる限りに、この平穏が続く努力を惜しむことはないだろう。


    ◇◇◇◇◇


 山から下りた僕たちに、最初に伝わったのは足裏への震動だった。それから音が耳に届き、次に、その姿を見る。

 白い波が押し寄せてきていた。

「な……!?」

 その波は、いくつも重なる「ミメヘヘヘ」という鳴き声を伴っている。

 ケモコヒツジだ。この時間、牧場でのんびりしているはずのケモコたちが、餌場でもない村の反対側に、柵を越えて走ってきた。

「天使さま、これは……ひゃっ」

 ケモコにぶつかり、シーパが尻餅をついた。気質の穏やかなケモコがこんなにも(人を避けられずぶつかるくらいに)慌てて、それも手足を引っ込めて坂を転がるでもなく隠れるでもなく、平地を走って遠ざかるなんて普通じゃない。

「……様子を見てこなきゃ」

 こけた彼女を立ち上がらせて、その目を見る。

「シーパは、逃げてるケモコたちを落ち着かせにいってあげて」

「わかりました。天使さまよりのご命令、努めさせていただきます」

 お辞儀をし、シーパはケモコたちを追っていく。彼女は幼く身体も小さいが、毎日の務めである山の神殿への参拝のおかげで健脚、あっという間に遠ざかる。ただし、本来ケモコを集めるための指笛がめっぽうヘタで(かひゅかひゅと掠れた音しか出せず、子供たちにけらけら笑われていた)、戻ってくるまで結構な時間がかかるだろう。

「――さて」

 村の中へと歩いていく。シーパを避難させてよかった、とすぐに思う。

 切り出した木で作られた子供たちの遊具が、ばらばらになって崩れている。畑仕事で渇いた喉を潤す果樹の生っていた木は、熟れた実を自分の幹で圧し潰している。

 今朝も皆でごはんを食べた食堂は、上半分が無くなっていた。

「繰り返すが。我々も乱暴な真似をしたいわけじゃあないんだよ」

 不自然な人だかりができていたので、騒ぎの中心はすぐにわかった。

 人垣に混ざり、声の主を確認する。村人が遠巻きに見ていたのは――白銀の甲冑を纏った……そう、騎士だった。

 五人の騎士たちが、険しい顔のトラ爺と向かい合っている。

「タ、タツ……」

 白に黄の色が混じった髪の女の子が、泣き濡れた声で僕の服の裾を引いてきた。その頭を優しく撫でると、彼女は不安を吐き出すようにズボンにしがみついてくる。

「ルー、何があったんだい? あの人たちは?」

「わか……んない……ルーたちが、あそんでたら、おっきな声がして……ミヤコから来たって、むりやり、村の中に入って、それから、ぴかって光って、食堂も、っひぐ、ケモコのおうちも……」

 涙声の説明は要領を得ない。……それでも、今どうすべきかは理解できた。

「そっか。大丈夫、ここは大人の人たちが見てるから、ルーは下の子を連れて……向こうの倉庫で、おっかない人たちがいなくなるまでかくれんぼだ。いいかい?」

 しゃがみ込み、目線を合わせて頼む。彼女はこくんと頷いて、他の子供たちを連れていってくれた。人垣の隙間から改めて様子を窺う。

「ラスノの剣は国がため、帝王がために振るわれるたっとき武力だ。酒場の酔客めいた戯れを行う暇などないのでね」

 五人の騎士のうち、トラ爺と喋っているのは、兜を被らず唯一素顔をさらしている、赤髪の美青年だった。甲冑には一人だけマントをつけており、左右の四人を従えている雰囲気がある。

 トラ爺が、感情を必死に押し留めている表情で、マントの騎士に返答した。

「暇がない、ですか。ええ、剣帝の寵愛を受けし都が娯楽で満ちておる話は、田舎にも届いております。今日はこちらの品評会、明日はあちらの舞踏会――貴方様ほどの身分ともなれば、死ぬまで暇を潰す暇が足りんでしょうな、大領主様」

 左右に控える四騎士のうち、二人が動いた。閃く刀身は左右からトラ爺の首筋に添えられ、そこから垂れた二筋の血が襟の中へ流れていく。

 村の人たちがざわつきかけるも、トラ爺が「騒ぐな」と発して制止する。その様子に赤髪の騎士は「懸命だ」と頷く。

「勘違いしないで欲しい。我々は君たちに敬意を抱いているよ。イスサナ帝国隷領地れいりょうちの民が一丸となり、剣帝への崇敬と献上を欠かさぬおかげで、都は幸福に満ちているのだから」

 身動きの取れないトラ爺に赤髪が歩み寄り、無遠慮に顎を触る。

「安心したまえ、御老体。いたずらに傷つけはしない。そんなことをしたら、生産性が落ちるからね。《技法》所有者が誰一人いない村に脅威と呼べる者などいないし、僕はケモコウールの寝具が好みでね」

 トラ爺の首に添えられていた剣が引かれる。赤髪はトラ爺から視線を外し、成り行きを見ている村民全員をねめつけるように視線を流す。

「一月ほど前、この土地で霊脈の異常活性が観測された。我々はそれを引き起こした者を探している。隷領民の焦がれて止まぬ、帝都の籍を与える、誉れ高き目的で」

「――近く、祝祭の日取りだったな。大領主は宴に向けて、剣帝と神獣のご機嫌伺いに必死というわけか」

「国是だよ、蛮人。まつりも知らぬ連中は羨ましいね。ただ土を耕し山に分け入り、羊の世話で完結する世界というのは、どんなに気楽な風景なのかな」

 赤髪が手を打つと、四人の騎士が剣を両手に持ち、切っ先を空へと向ける。

 ……すると、どうだ。その刀身にそれぞれ、不可解な現象が起こった。

 ある剣は、眩い光に包まれる。ある剣は、水と炎の螺旋を纏う。ある剣は地面から持ち上がった土を鎧い、ある剣は刃の形が釘のように変化した。

「――なんだ、あれ……」

 正体不明の現象に、茫然としているのは僕だけだった。

 村の皆やトラ爺は、騎士たちの剣が妙なことになったのに驚きこそしていたが、それは未知の恐怖に対してではなく、既知の脅威に抱く戦慄に見えた。

「尋ね人を最初に教えた者に、ラスノ家当主ファルファ・レプテが褒美を取らせる。誰も口を開かぬならば――もう一度、大領主の義務を行使せねばなるまいね」

 人垣のそこかしこで、「ひっ」と引き攣った声が上がる。僕は村の風景を思い出す。

 ばらばらになった子供たちの遊具。無残に倒された村の守り木。半壊した大食堂。柵の無くなったケモコ牧場が、さっきからずっと視界に入っている。

「おや」

 ファルファと名乗った赤髪の騎士の目と声が、自分に向けられていると気付くのに少し遅れた。人垣を作っていた村の人たちが後ずさっており、結果、立ち止まっていた僕だけが浮くかたちになっていたらしい。

「何だい、君。言いたいことでもあるのかな?」

「領主様、そいつは」

 口を開こうとした矢先に、トラ爺が突然

 ……何が起こったのか、わからない。僕が観測できたのは、ファルファがトラ爺に対してそっと手を突き出した、それだけだ。実際に触れてもいないし、人があんな、ごろごろ転がされるような速度でもなかったのに。

「ああ悪い、いたずらに傷つけないと言っていたっけな。だが、仕方がないのだ。隷領の民が騎士の言葉を遮るなど、剣帝への侮辱も同然なのだから」

「トラ爺!」「村長!」「じっちゃん!」と村の皆が駆け寄っていく。本当なら僕もそうしたい。なのに、騎士の目が僕の移動を許さない。一歩でも動こうものならただではすまないと、その気配が言っている。

「さて、もう一度尋ねるが――言いたいことがあるなら、聞かせてくれるかな?」

「――は?」

「その、レイミャクがどうとか、って言うのなら。僕がやったこと、だと思う」

 一月前にあった異常なら――安納辰巳が、違う世界からやってきたという以上のものはないだろう。どういう目的か知らないが、僕一人の連行ですむなら安いものだし……何の縁もゆかりもない僕を受け入れてくれた人たちを、面倒に巻き込めない。

「……ほう」

 ファルファの目つきが変わる。僕の頭から足先までを観察している。

「シュヴィスタ。鑑定を」

 ファルファが言うと、右端にいた兜の騎士が剣を収める。代わりに逆側の腰に差していた短い杖を僕にかざし、先端を下にしてこちらの足元へ突き立てるように投げた。

 ……投げて、それだけだ。兜の騎士は首を振り、何事かをファルファに耳打ちした。

「面白いこともあるものだな」

 ふ、と表情を綻ばせたファルファが、馴れ馴れしく僕の肩に手を置いてくる。

「貴君に敬意を表す。誰かを庇うために自らの命を賭すことは、誰にでもできる行いではない。いや、いいものを見せてもらった」

 ……何か、すれ違いが起こっている。ファルファは依然肩をぽんぽん叩いてきていて、僕は改めて口を開こうとして、思い切り頬を殴りつけられて体勢を崩した。

「それ以上に不愉快だがな。聖なる行為に貴賎なし、などとでも思い違ったか、隷領民。どのような意図であろうと、貴様は真実を隠蔽し、偉大なる剣帝に唾したのだ。そも、騎士の眼を欺ける節穴であると侮ったことから度し難い」

「そんな……僕は……」

「鑑定結果、《技法》の使用痕跡なし。さがれ下賤が、貴様は無力な只人だ」

 それ以上の反論を、許されもしなかった。

 心の底からの嫌悪の眼差しと共に、頭に手がかざされる。まずいと思った次の瞬間、トラ爺を襲ったのとおそらく同じ衝撃を頭に食らい――。

「……何?」

 ――ただ、吹っ飛ばされてやるものか。

 来るとわかっていたから踏ん張れた。脳天に受ける重く鈍い力、目の前がちかちかする、しかし意識までは飛ばないように歯を食い縛り、踏み止まる。

「知ったふうな口を利くなよ。ただ普通に、平穏に生きることが、どれだけ貴重か、知りもしないで」

 とにかく腹立たしかった。こいつに自分が何を踏み躙ったのかをわからせたくて、拳を握りしめ……しかし、振り上げられぬまま、口を開く。

「笑いながら見下した、この村の皆に謝――」

「不敬者」

 その声は、前からではなく、背後からのものだった。

 不愉快に顔を歪めたファルファが、腰につけていた何かの“筒”に手を伸ばしかけたのと同じくして、首筋への衝撃を感じた。……トラ爺に当身を受けたのだ、とわかった時にはもう、地面に倒れ、意識が遠ざかっている。

「重ね重ねの無礼、失礼いたしました、大領主様。何卒――の執行だけは、お許しください……」

 なんで、あなたが謝るんだ。そう尋ねることもできず、地面に頭をこすりつけるトラ爺を見ながら、僕の意識は疑問と悔しさに飲まれて沈んだ。

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