【第一章/穏やかな日々の終わり】その2

 中学二年に進学したあたりで、僕は苛烈ないじめの対象になった。

 当時の安納辰巳は、特定の部活や友人グループコミュニティに所属せず、頻繁に欠席を繰り返すくせに試験の類では軒並み好成績を収め――つまり、とびきり目障りな異物であったのだろう。

 県内で有数の進学校であればこそ、順位を競うクラスメイトは時に明確な敵となる。僕こそが、二年二組という世界で退治されねばならない怪物だった。

 怪物を倒すにはどうするか。人間は、知恵と数で差を埋める。

 直接的な暴力だけではない。物を隠したり、口裏をあわせて罪や悪評を捏造される――裏を返せば、クラスメイトたちはそれだけ安納辰巳を脅威に感じ、攻撃性に転嫁せねば耐え切れないほどの恐怖に苛まれていたということになるだろうか。

 僕の評価は試験の成績では挽回不可能な程度に落ち込み、担任にも匙を投げられた。切り裂かれた鞄も、あからさまな顔の痣も、非実在現象として扱われた。あるいは教師の立場でも、安納辰巳は“教え諭し導く生徒”の枠に入れない異端児だったのか。

 そんな状態で家に帰ると、僕の世話役と教育係を務める男は、驚きもせず救急箱を取り出し、新しい鞄の手配をする。自分が忠誠を誓った組織のトップの直系が、学校でそういう目にあっていると知ろうとも、冷徹な表情は崩れない。

『ファミリーの持つ影響力はこの島国ジャポーネでも皆無ではないが、それは子供の勢力争いに硝煙を持ち込むためのものではない。そもそもドンが私に下した命令は、直系、君を護ることではなく、変えることなのでね』

 傷を消毒しながら、その痛みを忘れるなと男は言う。

 闇を見ろ、醜さを知れ。君がいる環境は、あまねく人の本性の縮図なのだ、と。

『平和な島国の学生の時分に、そちら側の視点を得られる体験学習をすませておくといい。それは必ずや、君が与える側になった時の武器となる』

 傷の手当てをすませると、大きなスーツケース一つ持って一緒に出発させられる。行き先は何度目か数えるのも飽きたアメリカ。目的は、仲間に売られた密売人の尋問の見学だった。

『教育係として断言しよう。無抵抗を貫くことで自戒と反省を促し、改心でも期待しているのなら、それは絶世の美女の後ろ姿に、己に惚れてくれと念ずる以上に空しい行為だ。君が見てほしい、気付いてほしいと思うことに……世界も他人も何時の何処でも、徹底的に無関心なのだから』

 タクシーで空港に移動する途中、男はイタリア語で言った。僕は返事をせず、窓の外を流れる風景を見ながら、心中で反論する。

 ――違う。僕が何の抵抗もしないのは、彼らに、この世界に、何の期待もしていないから。

 彼らに同じことをやり返して、彼ら以下のものになるのが、どんな痛みよりたまらなく気持ち悪いからなんだよ――。


        『なるほど。それは実に君らしく、素晴らしい誓いだねえ』


 何分、二度目なので驚きもしない。

 夢に混ざりこんでくる、ありえない場面。後部座席の僕の隣にいつのまにか座っている菫色の着物の女に、タクシーの運転手も助手席の男も気付かない。

 いや、それ以前の問題だ。景色の全てが白黒モノクロに、僕と着物の女以外の誰もが色を失い、窓の外で動いていた風景まで止まっていた。

『心底相容れない連中の同類に堕ちないために、屈辱にも痛苦にも耐え忍ぶ。なんて健気だろう、君は本当にいい子だなあ。きっと本当のピンチには、神様が目をかけてくれるに違いない』

 袖で口元を隠しながら、どうやら優美な笑みを浮かべているらしい。

『けれど、悲しいかな。君の意地は、孤立と不信で培われた、己で己を救うための信念だ。うまく働いているうちは、たとえ地獄に堕ちようと君を守っていただろう』

 彼女が自由闊達に語るのに対し、僕の身体は瞼から指先まで凍っている。目を閉じることも耳を塞ぐこともできず、五感のすべてに、その答えが突きつけられる。

『安納辰巳。君の世界が、君だけのものでなくなったとき。一体君はどうなるのだろうね』

 答えられない。口も、頭も動いていない。

 僕は無抵抗なまま、彼女の手で、そっと瞼を下ろされて――。


    ◇◇◇◇◇


「――起きたか、タツ」

 ソファで目を覚ました僕は、トラ爺のそんな言葉に迎えられた。

 気を失っている間に家まで運ばれたらしい。窓から見える外はすっかり陽も暮れていて、まるでミハテ村が無人になってしまったかのようにどの家の明かりも消え、静まり返っている。

「すまんかったな、乱暴をして。あいつが取り返しのつかんものを出す前に場を収めるには、ああするしかなかった」

 深々と頭を下げられ、僕は慌てて身体を起こす。

「頭をあげてください。謝るのは、僕のほうです」

 周囲を殊更に威圧する言動、立場を笠に着た大仰な振る舞いから、あの連中が相手を屈服させなければ気がすまない手合いだとわかっていながら突っかかるなんて。……この世界の常識も、まだ全然把握できてもいない分際で。

「あの“筒”。ファルファという騎士が手を伸ばそうとしていたのは、そんなに?」

「守護、加護、剣帝の威光だの色々と呼びよるが……隷領民にとっては、災厄の一つでええ。あれが出されたら、ミハテ村は地図から消えとった」

 僕はベッドから降りて、床に打ち付けるほど頭を下げる。

「止めていただき、感謝します。あまりに軽率でした」

 村の状況は酷かった。いくつもの家が倒壊し、収穫の近かった畑も荒らされているのが、ほのかな月の光の下でも嫌というほどわかってしまった。

「儲けもんじゃ。人死には出なんだ。くくっ、皆スカーッとしたわい! 剣帝直属の大領主に食ってかかるなんぞ、隷領民なら千度は夢見る光景じゃからのお!」

 上機嫌に酒杯を呷るトラ爺は、長く深い息を吐く。

「そう――帝国の隷領民なら、骨の髄まで染みとる。自分の立場も、御法度も。山での生活が不慣れだとか、ケモコを知らんとか、そういう段階の知識じゃない」

 僕は視線を外し、窓の外の夜空を、見る。

 星の並びに関して詳しくはなかったけれど、それでも察しはする。星々の配列が、元いた世界とはまるで違うこと――いや、そんな遠回りに考えなくたって、地球から見上げる夜空には、なんてことはなかった。

「タツ。おめえ、記憶を失くしとるんじゃありゃせんな?」

「はい。僕は、ヤーフィラとは異なる世界から来ました」

 トラ爺が、改めて注いだ一杯に口をつけるまで、しばしの間と無言があった。僕は昨日までとは変わり果てた村をじっと見ていて、トラ爺が「天使、か」と呟いたのを皮切りに口を開いた。

「僕が知っているのは、ミハテ村に来てから教わった生活だけです。なんで皆がこんな目に遭わなくちゃいけないのか、隷領民、なんて言葉の意味もわかりません」

「おや、そっちにはなかったかい。誰がエラいだの、これこれこういう理屈でお前らは劣っとるから、貢ぎものをして当然なんだという理屈がよ」

 僕は口をつぐむ。互いに、多くを説明せずとも伝わった。

 誰が上でも下でもなく、協力し合ってのどかな生活を営んでいた村。その外には、逆らうことなどできようもない身分制度が根付いている。そして、ミハテ村に住む人々は、搾取される側に当たるのだ、ということは。

「『永遠の帝王がもたらす統治の一部となりて、臣民須らく崇敬を捧げること至上とすべし』――それが、イスサナ帝国最大の法だ。搾取するために生かされとるのよ、隷領民は」

 乾いた笑いが、いつも快活だったトラ爺の口からこぼれる。僕が口から絞り出せたのは「そんなの、おかしい」という何の意味もない事実だけだった。

「ああ、おかしいなあ。だが、それを『おかしいからやめろ』と止める者はおらん。隷領民の扱いとして、今回の件は幸運にも程があるし、理が通っとるとさえ言える。国を治める剣帝が、暇潰しの戯れに滅ぼした隷領地の話でもしてやるか?」

 ……たとえば、学校のクラスなんかの、ごく狭い範囲の歪みとはわけが違う。

 この国の腐敗は、頂点にまで及んでいる……あるいは、その頂点からこそ始まっているのか。

「タツよ、あれを見たな。騎士連中が抜いた剣の有様を。そんで、息を飲んどったな。つまり、そっちの世界にはどうやらなかったか。存在の優劣を定める《技法》がよ」

 ……《技法》。その単語に、僕の脳裏には、あの騎士の吐き捨てる言葉がよぎる。


『鑑定結果、《技法》の使用痕跡なし。さがれ下賤が、貴様は無力な只人だ』


「《技法》っつうのはな、人間が、本来の身体でやれること以上のことをできるようになるもんだ。握った剣が強くなるだの、魔力を練ってよろずに使うだのを、大まかに纏めてそう呼ぶ。別にそんなもんなかろうが、畑は耕せるしケモコの世話もできらぁな。だが――」

「――その力は、人を支配できる」

 トラ爺は深く、痛ましく頷く。

「隷領民は《技法》を使えねえのよ。そういう連中が選別されて送られるし、隷領地で生まれた者には《技法》の資質は決して宿らない。そういうふうに、この国の土は縛られとる」

 それは、反乱を起こさせない、起こそうとも思えなくなる方法として決定的だ。一分一厘の勝ち目すらも存在しないと、戦う前に心を折る――それが、支配者にとって極めて理想的な環境なのだと知っている。

「どうしても譲れんもの、ただ一つだけでも守り通すために、それ以外のすべてを差し出す。それが隷領民であるワシらの生き方だった。……だのに、よお」

 トラ爺の手の中で、握りしめられた酒杯が割れ砕けた。

「――掌から溢れかえるほど、なんもかんも持て余しとるくせに。なんだってワシらから……本当に大事なもんまで、奪わにゃあ気がすまんのだ……」

 僕は立ちあがる。行かねばならないところが、明確になったから。

「トラ爺。シーパは、どこですか」


    ◇◇◇◇◇


 普段、夜は牧場の屋根の下で眠るケモコヒツジが、村の外れでひとかたまりになっていた。

 無理もない。牧場は壊されてしまったし、彼らは怖がりで、一度危険にあった場所には近付きたがらない――それに、その中心には、彼らが安心できる人がいる。

「天使さま」

 満天の星の下、草原を埋めるケモコの群れの中心で、その毛にふんわりと抱き留められるようにしてシーパがいた。

「お喜びください。天使さまの命、しかとやりとげました。ミハテ村におりましたケモコヒツジ、一頭も欠けずに連れ戻しました。今から数えてごらんにいれます」

「いや、大丈夫だよ。シーパは真面目だし、ヒツジを数えて、眠くなったら困るからね」

「はい。シーパも、今夜は天使さまとお話ししたく思っておりました」

 シーパの隣で、ケモコに身体を埋める。彼らを起こさぬよう、小さな声で話す。

「おじいさまから、お聞きになられましたでしょうか」

「うん」

 シーパは、いつだって穏やかだ。

 彼女と出逢って一ヶ月、感情を荒らげたところを見たことがない。トラ爺から旅のお土産をもらったときも、子供の喧嘩を仲裁するときも、突然の雨で洗濯物を取り込む際に躓いて籠一杯の服が泥だらけになってしまったときも、『とても嬉しいです、おじいさま』『いけませんよ、めっです』『この服もいっしょに洗いませんと。水浴びをしてまいります』なんて、マイペースに反応するのがシーパだった。

 そういうのと同じ、日常の会話と変わらない声で、彼女は言った。

「シーパは、祝祭の賓客たる名誉に身を捧げます。明日にも帝都の、大領主様の元へお伺いいたします」

「……君は、自分がどうなるか、わかっているのかな」

「世界の秩序、延いてはミハテ村の平穏のためと存じます。この身に余る光栄です」

「違うよ」

 彼女の顔を、見られない。僕は俯いたまま、固く握りしめる手だけを見ている。

「生贄になって、怪物に食われる。そうなんだろ?」

 ふいに吹いた夜風が、草原を奏でた。

 シーパは小さな声で「すみません」と言った。

「……どうして、君が謝るんだ」

「天使さまのお世話が迎人たる務め。それを途中で投げ出してしまいます」

「違うよ。そんなのどうでもいい。大事なのは――僕が、聞きたいのは……」

 彼女の顔が、見れない。そんな資格、安納辰巳は持っていない。この世界に来た、その時点で失っていた。

「……なんであの時、僕を助けたんだ。自分がこうなるって、わかっていたのに」


『シーパは《技法》持ちだ。それも、世界に一人ってくらい貴重な類のな』

 トラ爺は教えてくれた。何故、帝都の物騒な連中がミハテ村にやってきたのか……その確信に近い推測を。

『精霊なんかとの契約や、学んで覚える《魔法マジック》とも、訓練で身に着けたり、偶然に授かる《技能スキル》とも違う。シーパが持つ《血定リレイション》は、タィラート族っつう、あいつを残して途絶えた家系が継承していた、血に刻まれた能力なんだよ』

 シーパ・アトゥルルルハの[この地より天への奉ライフデディケイト]、それは奉納の祝詞を唱えながら舞うことで大地の気脈を活性化、草花の成長を促進する能力。彼女は歌い踊ることで、植物を芽吹かせられる。そこに《神への供物》に相応しいものになる特性を付与して。

 たとえば、口にするだけで死ぬほどの傷が癒える果物、のような。

『タィラート族の《血定》は、支配者にとって疎ましいものだった。だから滅ぼされた。あいつだけは、そんなふざけた仕組みから逃がしてやりたかった……』

 赤子の時に拾われたシーパは、本当の親の顔も知らない。だが《血定》は自我より深い場所に刻まれた烙印で、シーパは習いもしていないタィラート族の祝詞も舞踊もっていた。それをやろうとする度、決してやっちゃならんもんだ、ひどいことが起こる、とトラ爺は昔から何度も言い聞かせてきたという。

『内から声がするんだと。やっちゃならんとわかっとるのに、時折、身体が勝手に動きそうになるんだと。ごめんなさいと、こわいですと、シーパはある日、自分で自分を止めるために、木の上から身を投げて足を折った。それからだ、自分から、村の連中と距離を取り出したのは』

《血定》を使えば、その反応は、一帯を治める領主に感知される。

 そうなれば、平穏は去っていく。もう二度と、戻らない彼方へと。

『――それでも。そうか、あいつは……お前を助けるために、自分の足で、自分の意志で、踊ったんだな』

 そうして、せめて村の皆だけは守れるように……シーパ・アトゥルルルハは、命を差し出そう、と決めたのだ。


「そんなに、大事だったのか。“天使さま”のことが」

 ――ヤーフィラ地界の伝承に曰く、天使は神の遣いなり。

 傷と共に落ちてきた天使を助け、もてなすことが叶ったならば――“地界に価値あり”と、人が示せたならば。

 天に戻った御使いはこの世の輝かしさを神に伝え、七柱の神が舞い戻り、迎人の願いを聞き遂げる。

「僕が、誰かに何かを伝えれば……君の辛いのが全部終わるなんて、期待したのか?」

「運命だと、思ったのです」

 隣にいた彼女は、いつしか、僕の正面にいた。

 褐色の肌、白銀の髪、よく熟れた蜜柑のような橙の目。その首には、紐で巻かれた鈴飾り。

「わたしはずっと、怯え果てておりました。どれだけ恐れても、何に祈っても、わたしは、わたしに生まれついたことから逃れられない。湧きあがるものは日に日に膨らみ、いつかこれがわたしを食い破るのだと考え、自分が自分であるうちにと、喉に刃をそえた夜もございました」

 眩暈がする。僕は何も知らない。知らないままで一月も、平気な顔ですごしてきた。シーパは僕にとって、天使みたいな優しい子だと、そういうふうにすら思っていた。

 なんて馬鹿だ、安納辰巳は。

「――それでも。君にはまだ、時間があったはずなのに」

「わたしは、決めておりました。いつか訪れる“その時”が、逃れえぬものであるなら……せめて、絶対に犯してしまう過ちを、正しきものに変えようと」す

 それが、あの日なのか。

 自分を死に追いやる力で、見ず知らずの僕の命を救ってくれた日。

「ですから、天使さま。感謝をするのは、やはりわたしのほうなのです」

 シーパが立ち上がる。眠るケモコの群れから離れ、一人草むらの中に立つ。

「共におすごしさせていただいた毎日、楽しゅうございました。天使さまはお優しく、そのお心は温かく――側仕えの身でありながら、わたしばかりがしあわせなのではないか、と思ってしまうほどでした。身命を賭してお助けしたこと、一度として悔やんだことはありませんでした」

 くるりと振り返る。一片の曇りも見当たらない微笑み、星の見えそうな清い顔。

「わたしの命に意味をくださり、ありがとうございました。そして、申し訳ありません。これよりあなたを、地界にて置いてゆくこと。ですが、心配はありません。天使さまであれば、わたしなどがほんの一人欠けたところで、ヤーフィラ地界で休養をすごすのに、何の不足も――」

「ないわけ、ないだろ」

 胸がつかえる。口がうまく動かない。彼女の顔が、よく見えない。

 視界が、涙で滲んでいる。

「僕は、君に――どう償えば、いいんだ」

「でしたら、天使さま。もしただいちどきり、わがままをお許しいただけるのなら、どうか、涙をお拭いください」

「――シーパ……」

「わたしのことを、見ていてください」

 月の綺麗な夜だった。星の輝く夜だった。

 薄い雲がゆるやかに流れ、草原は風に揺れる。

 この世のすべての残酷から、逃げ切れたみたいな風景だった。

「ずっと、おそろしさが混じっていました。それでも今宵は、今ならば――生まれて初めて、何の憂いも持たないでよい、最初で最後の機会であると思うのです」

 ふわり、服の裾が揺れる。僕は改めて思う。

 彼女の微笑みは、眩しい太陽だけでなく、月光を受けるのもよく似合う。

「お叱りを受けてしまうかもしれません。けれど、天使さま……本当はわたし、歌うのも、踊るのも、歌いながら踊るのも、とても、とても好きだったのです」

 彼女は礼をして、深く息を吸い込み、月を見上げ、口を開き、足が跳ねた。

 記憶が揺さぶられる。今行われているのは、僕が死に際の胡乱の中で見て聞いた、あの舞と唱だ。

「……ああ」

 溜息が漏れる。込み上げるものを感じながら、必死で目に力を入れる。

 酷なことを言われたものだ。こんなのを、泣かずに見ていてくれなんて。

「シーパ、これが君の……血に刻まれたものなのか」

 タィラート族が神に捧げる祝詞を、言語として判別できない。それでも、そこに籠められた感情は翻訳できる。

 時を超え、場所を超えて風景が目に浮かぶ。喜びと祈りに満ちた祭事の場、世の過酷を知りながらも明日の希望を信じ、この地と天と生きることのすべてを肯定するために、彼らの舞と唱はあったのだろう。

 いつしか、光が灯っていた。シーパを中心として、彼女を囲むように、舞台を作るように、淡い輝きを生む花が咲いている。

 これを、神秘と呼ばず何と呼ぶ。シーパ・アトゥルルルハの《血定》、祭詞の一族タィラートが引き継いだ最後の力、血に刻まれた使命の証――。

「――いや。使命も出自も、そんなこと……どうだっていいんだよね、シーパ」

 その唱もその舞も、彼女がタィラートであるからこそできることだとしても。

 それをやろうと決め、それをやる意味を定めたのは、彼女の心だ。タィラートであることともアトゥルルルハであることとも関係のない、ただのシーパの意志だ。

 きっと、だからこそこんなにも、尊くってしかたがない。


『本当はわたし、歌うのも、踊るのも、歌いながら踊るのも、とても、とても好きだったのです』


 長らく自分を苦しめ、喉に刃を当てさえさせた事柄を、シーパ・アトゥルルルハは乗り越えた。押し付けられたもの、忌み嫌ったことに抗い、その上で全部を否定するのではなく、向き合って自分の答えを貫いた。

 なんて美しい。僕は、人の強さを見ている。

「どうでしたか、天使さま」

「きれいだったよ、シーパ」

 心のまま、満足するまで歌い踊ったシーパは心地好くも疲れていて。僕に褒められたことで、やっぱり、少し浮かれてもいて。

 普段の余裕や、周囲にいつも気遣っている遠慮が剥がれていたから。

 聞くとするなら、今だった。

「これが最後だなんて、本当に惜しいな」

「……はい。わたしも……もっと、天使さまに見ていただきたく思いました」

「そっか。……シーパ」

 手を繋いだ帰り道、僕は彼女に尋ねる。

「僕に、こういうふうに生きてほしい。そう思うことは、ある?」

 握った掌が汗ばんだ。籠る力で、心が伝わる。

「たくさん、長生きしてください」

「うん」

「色々なものを見てください」

「うん」

「生きるのを楽しんでください」

「うん」

「それから――」

 澱んだ言葉を促すように、こちらからも手に力を籠める。彼女の口が、開かれる。

「――命は、次へと繋ぐものです。愛は、受けた分に、希望を足して伝えるものです。きっと――子供を育てて、くださいね、天使さま」

「うん、わかった」

 人に語る、こうして欲しいという、理想。

 それらはすべて、己の思う願いだ。僕がシーパから聞き出した――引き出させたのは、彼女自身が、やりたかったことだ。

「おやすみなさい、天使さま……」

「おやすみ、シーパ」

 家に着き、寝室まで送った彼女が、布団の中で寝息を立て始めるまで見守ったあと、部屋を出て静かに扉を閉める。リビングに戻ると、憔悴した目でトラ爺が僕を見た。

「……タツよ。ワシが言えた立場じゃなかろうが、あまり気に病まんように――」

「すみません。少し、夜風に当たってきます」

 トラ爺に断り、もう一度家を出る。ミハテ村の夜は、嘘のように静かだ。

 異なる世界ですごした一月は、地球では得られなかった温もりに満ちていた。

 けれど、その夢みたいな空間の外には、僕が知る通りのものが広がっていた。

「そうか。だから僕は、こんなに落ち着いているんだろうな」

 慣れているし、嫌というほど知っている。僕はそういう場所で生きてきて、そういう場所で死にもした。揺り籠から墓場まで、既に体験はすませてある。

 でも、違うことが一つある。


『君の世界が、君だけのものでなくなったとき。一体君はどうなるのだろうね』


「僕がどうなるのかは、僕が決める」

 おまえはこうしろ、と他人に押し流されるのではなく。

 こうしてください、と状況に当て嵌められるのでもなく。

「そうだ。僕は今日、

 安納辰巳は生まれて初めて、己の意志で、己の未来を確定した。

 手始めに、村の診療所の倉庫へ向かう。整理も何度か手伝ったし……草や根や実を煎じる作業も手伝わせてもらったから、何がどこにあるかは知っている。


        『そうかい。君はやっぱり、そうなるか』


 さっきから続いている頭痛に加え、幻聴までもが聞こえてくる。

 構わない。そんな些末、目的の遂行には支障がない。

『であるなら、与えたものを“起こして”おこう。君がそちらの道を選ぶというなら、必ず役に立つからね』

 耳元で囁かれるような幻聴が終わると同時に、突然、強烈な眩暈に襲われた。

 更に猛烈な吐き気と平衡感覚の喪失、そして、濁流めいて流れ込んでくる【血と力】についての交々――構わない。目的の遂行には、支障がない。

 忍び込んだ倉庫で戸棚を物色するうちに不調は収まり、どころか身体が軽くなる。一転して頭が冴え、気分が高揚してきた気がする。

 それらを把握し、速やかに制御をすませる。必要以上の興奮など有害極まりない。

 そう。物事は、鉄のように断固として、冬がごとく冷徹に。そこに、己の感情などという余分が座る席はない。

「屈辱には報復を。侵略には赤き血を。我らの掟は是即ち、魂の反逆である」

 イメージは、ぶちまけられる血糊。唱えたものは、僕にとっての『呪文』だ。七年間、マフィアとしての教えを受けていた際、あらゆる授業の最初に心を切り替えるために言わされていた文言を口にすると、強制的に刻まれ続けたルーティンで、安納辰巳は裏返る。

 右目から意図せず勝手に涙が零れた。この反応こそ『切り替え』の証で、一遍に頭と全身の感覚がクリアになった。

 深呼吸をすると、息と一緒に熱が抜ける。目に映る何もかも、どうでもよくってどうにでもなる。調達したものを袋に詰め、腰のベルトにくくりつけ、村の入り口で振り返った。

 静かな村と、平穏に生きることを望んでいただけの善良な人々……それらを無残に脅かした証拠、暴力の痕跡に唇が吊りあがる。


 では。

 彼らが誰に何をしたのか、わからせてやりにいこう。

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