第一章『七月六日(現実)』その3
夕方になっても、僕はひとり、まだ店に残っていた。
灯火とまなつはとっくに帰ったあとだ。あれから数時間が経っている。
結局、僕は意見を変えていない。にもかかわらず灯火も、怒っていたはずのまなつも、何かに納得したように、あのあとあっさり帰っていった。ちょっと拍子抜けではある。
申し訳ない、とは思う。
ただ、肩を軽くしてもらっただけでも、僕にしては甘えすぎなのだ。
このままひとりで片づけさせてもらうとしよう。
方針は固まっている。
小織に頼まれた通りのことをする──眠っている生原小織を、夢から目覚めさせる。
それは僕が選ぶ当然の方針だったし、まして願った当人から了承まで貰っているのだ。これまでよりも、その意味では難易度が下がっているはず。
が、
「……どうすりゃいいんだ、これ」
頭を抱える。思わず言葉に出してしまうほど、今回は難題だと言えた。やるべきことはわかっているのだが、単純にそのやり方がわからない。
眠っている少女を起こす。そう言えば単純にも響くが、これは言い換えれば、医者でも手をつけられない昏睡を解決するということだ。手に余る以前に、方法が見えてこない。
そもそも僕の目指すべきは本来、星の涙を使わせないようにすることであって、使ってしまった星の涙に対応することではないはずだった。今まで一度も成功してないだけで。
まして今回、星の涙が使用されたのは、およそ二年近くも前のことだという。
「それに……僕は気づいていなかった」
いや、気づいてはいた。星の涙によって眠っている誰かがいることは、少なくとも僕は知っていたのだから。ただ、それを起こそうとは──起こせるとは思っていなかった。
……本当に可能なのだろうか?
普通に考えると、普通に不可能な気がしてくる。それこそ星の涙を使って、起きるよう願ってみるとか、そういう裏技でもなければ達成できそうにない。
無論、そんな方法は論外だ。たとえ本当にそれ以外に方法がないとしても、僕はそれを選ばない。絶対にだ──眠っている小織が、永遠に目覚められないのだとしても、二度と星の涙を使わないという決意だけは曲げるわけにいかない。
眠っている生原小織を目覚めさせる、何か別の方法を考えなければならなかった。
「……そもそも小織は、なんでそれができるって前提で話してたんだ?」
僕だって、これまでずっと、眠っている小織を見てきたのだ。それが小織であることを知らなかっただけで、友人であるとは知っていた。
なんとかして目覚めさせる方法がないかと、一度も考えなかったわけではない。何度も呼びかけてみたし、何か変化がないかと週に一度は必ず見舞いに行っている。
その上で、どうにもならなかったのだ。
こう言うのもどうかと思うが、できるものならとっくにやっている。
「夢を見てる、か……」
小織は、僕にそう語った。この表現はどうにも示唆的だ。
実際、生原小織が何かの対価として眠りに就いているなら、その逆に叶えられた願いが存在するはず。それが《夢の世界に行くこと》ならば、鍵はその辺りにありそうだ。
「──そう、夢だよ。しあわせなだけの夢の世界。その愚かさに関して、伊織先輩相手に語る必要はないと思うけど」
考え込んでいた僕の意識を、引き上げるような声が降りかかる。
僕は顔を上げた。誰が来たのかは確認するまでもない。
「小織」
「お待たせ、伊織先輩。ん、上手くふたりを帰してくれたみたいで何よりだよ」
再び店に戻ってきた小織が、僕に向かってくすりと笑う。
「ちょっと難儀したけど、まあ無関係だしな。帰ってもらったよ」
「ん、ありがとう。私としても、──あのふたりには関わってほしくないからね」
そう。僕が店に残っていたのは、何も考え込んでいたからというだけではない。
小織から『用を済ませたら店に戻る。ふたりは先に帰しておいて』と連絡があったからだ。しれっとしたたかなところは、さすがに小織らしい……と言っていいものなのか。
その点は、あのふたりもまだ甘い。
「いやあ。ナナさんと、少し話し込んじゃってね」
用事があったのは事実らしく、小織はそんなふうに言う。
「……何を話してたんだ?」
「単なる雑談だよ。ナナさんにはなんだかんだ、いろいろとお世話になったからね、その分も含めて。先輩に連絡するためのスマホだって、ナナさんが契約してくれたんだよ?」
「そうだったのか……」
確かに《生原小織》が契約するとなると、いろいろ問題もあるだろう。
というか、それはつまり、あの男は小織の事情を知っていて僕に黙っていたということなのだが……それを責める気には、特になれなかった。ナナさんにそんな義理もない。
「さて。行こうか、伊織先輩」
小織は言う。
訊く意味があるのかはわからなかったが、それでも僕は一応訊いた。
「どこに?」
「女が男を誘ってるんだぜ? デートに決まってるじゃないか──って、言いたいところだけどね。生憎、その時間はなさそうだ。そろそろ、面会時間が終わってしまう」
特徴的な、色素の薄い髪が揺れる。
行き先はわかった。僕は静かに頷いて、荷物を取って席を立つ。
「眠っている私に、会いにいこう」