(4)ガス欠
小熊は昼にこのカブを買った時、店の爺さんが横にあるケースに何枚かの書類を入れていることを思い出した。
十円玉を使ってネジを外し、カブのサイドケースを開ける。中には保険の書類と説明書。
コンビニの灯りを頼りに説明書を読む。エンジンがかからない時は、という項目がある。最初のほうに出ていたのはガソリンが入っていないというトラブル。
そこで小熊は、原付という乗り物はガソリンを入れなきゃいけないということを思い出した。シートを上げて給油口の近くにある燃料メーターを見ると、針は一番下を指している。
小熊は説明書を頼りにレッグシールドの丸い穴に手を突っこみガソリンコックをリザーブの位置に捻った。
少し待ってから、祈るような思いでキックレバーを踏み下ろす。三回目のキックでカブのエンジンはあっさり始動した。説明書とサイドカバーを元に戻した小熊は、カブに跨る。気がつくと全身にびっしょりと汗をかいていた。
国道に出た小熊は、以前バスでここを通った時の記憶で、ここから少し走った先にガソリンスタンドがあることを思い出し、夜中の国道を走る。気がつくと道の端を他の車の邪魔にならないように走れるようになっていた。
小熊以外誰も客の居ないセルフサービスの二四時間営業ガソリンスタンドで、また説明書を広げながらカブにガソリンを入れる。満タンで五百円少々。中央本線なら甲府ぐらいまで行けるかな、と思った。このカブはどこまで走れるんだろう。
試してみたい衝動を抑えつつ、初夏の早い夜明けが来る前に国道を戻って日野春駅までの坂を登る。アパートに戻った小熊はカブを停め、部屋に入るなり床に寝転んだ。
無事に家まで帰れた。それがどれだけありがたいことか身に染みる。カブで近所を走り、ガソリンが切れたのでリザーブに切り替えて給油して帰る。ただそれだけのことでちょっとした冒険をしたような気分。今までの暮らしには無かったもの。
一つ確かなのは、これだけ走れば明日の通学で怖い思いをすることは無いだろうということ。
ジャージのまま床でゴロ寝した小熊は、今までに無いほど深く眠った。
翌朝。目覚まし時計に起こされた小熊は、シャワーを浴びて制服を身につけた。
タイマーで炊き上がるようになっている炊飯器で炊いたご飯を、同級生からドカ弁と呼ばれている大きなタッパーの弁当箱に移し、買い置きのレトルト親子丼を添える。金と手間を比べた結果一番効率的な手抜き弁当。家で作った麦茶を水筒に入れる。
通学
カブと野暮ったい黒革の通学鞄をしばらく見比べていた小熊は、鞄の中身を全部ベッドにぶちまけ、中学の林間学校で買って以来使っていなかったデイパックを取り出した。悠々と準備をしている時間は無かったが、中身を詰めなおす。
徒歩と違ってカブでは通学鞄を持てない。自転車みたいに鞄を放り込めるカゴがあるといいなと思いながら風呂場の鏡を見る。紺一色の田舎臭い制服姿に、生成りの帆布製デイパックで少し彩りが加わった気がした。バッグを背負い玄関に出た小熊は革のローファーを履く。この靴でもカブのペダルを踏むのに支障は無い。
ヘルメットを抱え外に出た小熊は駐輪場に停めたカブのエンジンをかけた。夕べ満タンにしたので意味は無いが、シートを開けて燃料計をチェックした。
もうガス欠などしないように、これから乗る前に燃料計の確認を習慣にしようと決めた。説明書には暖機運転が必要とあったので、夕べ走ってまだ数時間しか
下り坂の多い通学の往路では、カブの通学時間は自転車とさほど変わらなかった。ただ学校近くの短い上り坂がだいぶ楽になる。きっと日野春駅近辺の急坂を登る帰り道はもっと楽できるに違いないと思った。
自転車や徒歩で通う同級生がみんな自分を見ている気がする。原付通学者もそれなりに居る学校。誰も見ていない気もする。高校生なのに働く人が乗るような原付に乗る自分を笑っているのかもしれないと少し思ったが、一つ確かなのは、自分が昨日より幸せな通学時間を過ごしていること。
一人ぼっちで何も無い小熊の何も無い高校生活、今日からはカブがある。
ないないの女の子はこれから、世界で最も優れたバイクと一緒に暮らし始める。