一億年ボタンを連打した俺は、気付いたら最強になっていた ～落第剣士の学院無双～

　慌（あわ）てて顔を上げるとそこには、背の低い老人が立っていた。頭（とう）髪（はつ）も眉（まゆ）毛（げ）も髭（ひげ）も全てが真っ白。腰（こし）もはっきりと曲がっており、片手で杖（つえ）をついている。何より不気味だったのは、ここまで近付かれているにもかかわらず、全く気配を感じなかったことだ。

「儂（わし）か？　儂はそうじゃのぉ……言ってみれば、『時の仙（せん）人（にん）』みたいなもんじゃ」

　謎（なぞ）の老人はそう言って、地面につきそうなほど長く立派な髭をわしゃわしゃと揉（も）んだ。

「さて、若き剣（けん）士（し）よ。どうじゃ？　悩みがあるのなら、この老いぼれに話してみんか？」

「……あんたに話しても何も変わらないさ」

「じゃが、一人で抱（かか）えても苦しいだけじゃないか？　誰（だれ）かに話すだけでも、存外に気は楽になる。なぁに遠（えん）慮（りよ）はいらん。どうせ相手は、棺（かん）桶（おけ）に片足を突っ込んだ爺（じい）じゃてな！」

　いったい何が可（お）笑（か）しいのか、彼は「ひょっほっほっ！」と楽しげに笑う。

「……そう、かもな」

　半ば自棄（やけ）になっていた俺は、今の絶望的な状況をゆっくりと語り始めた。

　自分には剣の才能がないこと。剣術学院でいじめられていること。故郷に残した母のこと。明日の決闘のこと。そうやってこれまでずっと溜（た）め込んだものを全て吐き出すと、確かに少しだけ気が楽になった。

「なるほどのぉ……。それであれほど落ち込んでいたというわけか……」

　時の仙人は俺の話を馬鹿にすることなく、ちゃんと真（しん）剣（けん）に聞いてくれた。

　年の功というやつか、案外聞き上手な老人だった。

「ふむ、しかしそれならば……少し力になってやれるかもしれんぞ？」

「……どうやってさ」

　こんな絶望的な状況をひっくり返す大逆転の一手。そんな魔（ま）法（ほう）のようなものがあるのなら、是（ぜ）非（ひ）とも教えてほしいものだ。

　すると時の仙人は、その皴の入った顔をグニャリと歪（ゆが）めた。

「ほほっ、それはの──こいつを使うんじゃよ」

　彼はそう言って、懐（ふところ）から握（にぎ）りこぶしほどの赤いボタンを取り出した。

「……なんだ、それ？」

「『一億年ボタン』──世にも珍（めずら）しき魔法のアイテムじゃ」

「一億年ボタン……？　魔法のアイテム……？」

「そうじゃ。このボタンを押した者は、一（いつ）瞬（しゆん）で一億年修業したのと同じ効果が得られる！　それはそれはありがたーいアイテムなんじゃ！」

「……胡（う）散（さん）臭（くさ）いな」

　率（そつ）直（ちよく）な感想だ。

「まぁまぁ、話だけでも聞いとくれ。老い先短い爺の頼みじゃて……な？」

　時の仙人はそう言って、両手を擦（す）り合わせて頼み込んできた。ついさっき散々自分の話を聞いてもらったばかりだし……。ちょっとぐらいなら、と話を聞いてみることにした。

「わかったよ。なるべく手短にしてくれよな」

「おぉ、聞いとくれるのか！　ありがたや、ありがたや！」

　それから彼はゴホンと咳（せき）払（ばら）いをして、一億年ボタンについて語り始めた。

「一億年ボタンを押した者は『異界』へ移動し、そこで文字通り『一億年』の時を過ごす。その世界では、それはもう自由じゃ。ただボーッとするもよし。瞑（めい）想（そう）するもよし。ひたすらに修業をするもよし。なにせ時間だけは、たーっぷり一億年もあるんじゃからのぅ」

「一億年の間、ずっと修業ができる……？」

　今の俺にとっては、まさに夢のような話だ。

「うむ！　そこには家もあれば寝（ね）床（どこ）もある──大きな浴場もじゃ！　それに加えて、食料の心配もいらんぞ？　なんと無限に食料が湧（わ）き続ける魔法の食（しよく）糧（りよう）庫（こ）があるんじゃ！　さらに異界ゆえな、寿（じゆ）命（みよう）の心配もいらん！」

「……っ！」

　寝（しん）食（しよく）も満たされ、時間はたっぷり、おまけに歳（とし）まで取らないときた。

　あまりにも理想的過ぎる環（かん）境（きよう）に、俺は思わず生（なま）唾（つば）を飲み込む。

「ひょほほ！　どうじゃ、凄（すご）いじゃろ？」

　一通りの説明を終えた時の仙人は、ズイッと一億年ボタンを突き出した。

　俺はその赤いボタンをジッと見つめる。

（もし、もし本当に一億年も修業することができたら……）

　あのドドリエルにだって、勝てるかもしれない……っ。

　四年や五年程度の短い時間では、到（とう）底（てい）奴（やつ）に追い付くことはできない。

（だけど、一億年もの時間があれば……。俺みたいな才能のない剣士でも、あの天才に追い付ける──いや、追い越（こ）せる！）

　そこまで考えたところで、フッと現実に引き戻（もど）された。

　自分がどれだけ馬鹿なことを考えているのか、それを理解してしまったのだ。

（あまりに話が出来過ぎている……。全く、何を真剣になっているんだか……）

　おとぎ話じゃないんだ。そんな夢みたいなことが、現実に起こるわけがない。

「それで……話はそれで終わりか？」

「おや……？　お眼鏡にかなわんかったかの？」

「凄いと思うよ。……その話が本当ならな」

「噓（うそ）ではないぞ！　儂は生まれてこの方、一度も噓をついたことがない！」

「そうか、それは凄いな」

　俺はそこで話を打ち切り、再び剣を取って素振りを始めた。

　どうせ勝てないとわかっているけど、せめてできる限りのことはやりたかった。

「むぐ……っ。一度だけ、一度だけで良いから押してみてはくれんか？　老い先短い爺の頼みじゃて……！」

　時の仙人は、両手を擦り合わせて懇（こん）願（がん）してきた。

　まさかここまで必死に頼み込んでくるとは、少し予想外だった。

「はぁ……。わかった、わかったよ」

　一度だけ押せば、それで満足するだろう。そうして何の気なしにボタンへ手を伸（の）ばしたそのとき──時の仙人が突（とつ）然（ぜん）真（ま）面（じ）目（め）な顔をして口を開いた。

「──若き剣士よ。一つだけ忠告をしておこう」

「まだ何かあるのか？」

「決して……決して自害だけはしてはならんぞ？　この先は異界とはいえ、お主の体はそれ一つ。死ねばそこで終わりじゃ」

　いったいどういうわけか、彼はえらく真剣な表情でそう念を押してきた。

「はいはい、わかりましたよっと」

　そうして俺は、時の仙人が持つボタンを押した。──否（いな）、押してしまったのだ。